振り払った手の感触が妙にリアルで、リアルも何も、現実なんだからリアルに決まっているよな、とぼんやり思った時には、名前も知らない少女の背中が遠ざかっていく姿しか見えなかった。
あなたとわたしの感情論
「慰めてください小南先輩」
「唐突ね、とりまる」
先に玉狛の基地についてた小南先輩を見つけて、開口一番言えば、ソファでごろごろしていた先輩はちょっと煩わしそうにこちらを振り返った。だけれど、本当に煩わしいなんて思っていないのを知っている。知っているから、俺はこの人に甘えてしまうのだと思う。
「学校で嫌なことでもあったの」
「嫌なこと……俺が嫌なことをしたんです、多分」
最後に付け足した『多分』という一言があんまり頼りなくて、俺は自分で言った言葉に自信が持てなかった。今日は修たちが本部に行っていて良かったと思う。修は普通に心配するだろうし、遊真には根掘り葉掘り聞かれそうだし、千佳は本気であたふたしそうだ。あと、迅さんも。迅さんに聞かれるのはなんというか、きつい。
レイジさんはまだ大学で、宇佐美先輩は放課に講習が入っていると言っていた気がした。だから必然的に小南先輩しかいないこの部屋で、俺はソファの彼女の隣に座って、本当に幼子が甘えるみたいに、だけれど体格差の関係から小南先輩の頭を掻き抱いた。
「そうとう嫌なことがあったのね」
「俺がしたんですってば」
先輩の長い髪をぐしゃぐしゃにしながらそう言ったけれど、先輩は嫌だとも言わずに、それどころか微妙な体勢から腕を伸ばして俺の頭を撫でた。俺が一生使わないような甘いシャンプーの香りが長くて柔らかい髪からした。
その香りで俺は、小南先輩は女の子なんだ、とぼんやり思った。
小さくて柔らかな手が俺の額にぴたっと当たって、ああ、多分あの子の手もこんな感じだった気がする、とリアルな感触が思い出されてから、全然違う、と叫ぶ声が脳の中でした。
「今日ね、俺、告白されたんですよ」
「……いつものことじゃない?」
あんた曲がりなりにもイケメンなんだから、と続けて、熱を測るみたいにペタペタと先輩は俺の額を撫で続けている。
「好きだって言われて、断った」
「それもいつも通りね」
「断ったけど、ボーダーで大変なのも分かってるつもりだしこれから分かっていくって言われて、手、握られて」
「うん」
「気が付いたら、その子の手、振り払ってた」
ぽつんぽつんと言って、俺は額を触る小南先輩の手を振り払う。それは学校でしたみたいな冷たい払い方ではなくて、少しだけ離れた先輩の体を丸ごと抱きしめた。
「俺、ひどいことした」
「殴ってないの」
「殴ってません」
「良かった」
腕の中の先輩に言われて、ああ、やっぱり俺がしたことってかなりひどいことで、それ以上ヤバいことしてないか確認したくなるくらいひどいことなんだ、と思ったら、ズキズキと胸が痛んだ。
「殴ると痛いものね」
「……ハイ」
「手とか。生身で構えも無しに殴ると案外手がはれたりするのよ。あんたやったことないから分かんないだろうけど」
「……は?」
「殴られた方も痛いけどね。殴り方って結構難しいのよ。近界民との戦闘経験じゃはっきり言ってなんの役にも立たないくらい難しいの、人殴るのって」
言い含めるように先輩は言った。
「なんで俺の心配するんすか」
「相手の子のことも心配してるわ」
静かに先輩は言った。
「でも、分からないことを分かると言われて、腹が立ったとりまるのことの方が心配なの。あたし、こう見えてエゴイストだから」
家族はエゴイズムの範疇よ、と続けた先輩に、あなたはエゴイストなんかじゃないと言おうと思ったのに、腕の中の小さな彼女に俺は何も言うことが出来なかった。
「でもね、とりまる。その子がボーダーのこともあたしたちのやってることも、戦いも、後ろ暗いことも、なんにも知らないのと一緒でね、あんたはその子があんたのことを好きだったっていうことを今日まで知らなかったのよ」
「そう、ですね」
「知らないことだらけよ、世界なんて」
たった一人、告白をいつも通り断っただけなのに、先輩はそれを世界だと言う。
それが世界だと言う。
俺にはそれが救いだった。
手を振り払ってしまったことは多分男としてやってはいけないことで、もっとちゃんと断るべきで、だけれど、俺は俺の生きているその瞬間、比喩ではなくて命が断たれる瞬間をいつも考えているのに、その瞬間を軽々しく口にされたのに腹が立ったのも事実で。同時に、それをその子が知っていこうとしていたのも事実で。この先知ることが出来たかどうかなんて全く分からなくて、このことはもう終わっていて、だけれど手を振り払う瞬間までその子は俺を好きでいたのだと、驕りではなく思うこともできて。そのことを俺がその瞬間まで知らなかったのも事実で。
それは終わってしまった一つの、あまりにも小さな出来事だけれど、そうやって俺は世界を積み重ねていくのだと、思うことができた。
「少しずつ女心分かっていかないとだめよ。迅を見なさい。それなりにイケメンなのに非モテよ、アイツ!とりまるはあんな風になっちゃダメよ」
「迅さんもモテますよ」
「どうせなら准みたいになりなさい」
「……俺は先輩に嫉妬という言葉を教授したいです」
「なあに?いくらモテるからって准に嫉妬なんてしないわ、あたし」
「もういいです」
俺が嵐山さんみたいになれと言われて、その彼に変なふうに嫉妬していることなんて知りもしない先輩を抱きしめる腕に力を込める。ギュッと力強く抱きしめても、細くて小さな彼女は少しもよろめきやしなかった。
「今日のとりまるは甘えん坊ね」
「そうですね」
多分、この人は俺が手を振り払うようなことをしても、もう一度手を取って目を吊り上げて怒るんじゃないかと思った。俺にはそれくらいが必要なんじゃないかと思った。
「小南先輩」
「なあに」
なんで俺が告白を断るかなんて、そんなのボーダーだからじゃない。
命を懸けてるからじゃない。忙しいからじゃない。
好きな人がいたら、普通告白は断るものなんじゃないか、と俺の世界の常識は言っていた。
「どうしたの、とりまる」
あやすような優しい声がする。
あなたが好きです、という一言は、今日も出てきやしないのだけれど。
2014/12/05