ブレーキは踏まない


 気がついたのが遅すぎたし、気がついたそれは気がついてはいけないことだったと、風間は今でも思っている。





「よし!」

 トンと何冊かのファイルを整える音を立てた宇佐美のデスクには、綺麗さっぱり何ものっていない。風間はそのデスクから、あるいはそのデスクにずっといると信じ切っていた宇佐美栞という存在から、目を逸らす。だけれどそれは、傍目にはまるで手元の資料に気を取られたようにしか見えなかっただろう。

「風間さん、これ置き土産ってやつです」

 そんなふうに目を逸らした風間のことに、やはり彼女が気がつくはずもなく、宇佐美は今しがた整えたファイルを風間のデスクに置いた。そこでやっと彼はもう一度逸らしていた視線を彼女に向けた。

「うちの隊の戦術をざっとまとめてあるので歌歩ちゃんに渡してくださいね」
「……ああ」

 すまない、と彼は呟くように応じた。「うちの隊」と宇佐美は言ったのだ、とそればかりが頭の中で渦巻いた。置き土産、うちの隊。それもこれも、全部今日でお終いだ。
 宇佐美栞は、明日付けの人事で玉狛支部に転属する。





 宇佐美が転属する、そう聞かされたのはずいぶん前だ。風間は即日、忍田にも、林藤にも、「宇佐美は風間隊に必要な人材だ」という形で抗議したが、無駄だった。何より宇佐美自身がその人事に異を唱えることをしなかったのだから。
 宇佐美があっけらかんとしている中で、風間は珍しく食い下がった。他隊への転属はボーダーではよくあるとまでは行かないが通常のこととしてあることだったから、彼女の転属について食い下がるそれに忍田は少しばかり不思議そうだった。だが実際にオペレーターである宇佐美はA級3位部隊の風間隊の戦闘の中核を担っていた手練れであることは間違いなく、その戦力を失いたくないのだろうと忍田は解釈していた。
 だから、それ程の能力があればボーダー全体の利益のために、と理路を尽くしてみたが、それでも風間は食い下がろうとした。それで大笑いしたのが林藤だ。

「何がおかしいんですか、林藤支部長」
「いーやいや。笑ってないよ、俺笑ってない。忍田さん、コイツは俺に任せてくれませんかね」
 言葉とは全く逆に笑いながら言った林藤に忍田は不思議そうな顔をして、それから林藤なら風間との付き合いも長いし、その方が適切だろうと了承すると、林藤は風間をボーダー本部の喫煙室に誘った。





「俺はタバコを吸いたい気分じゃないんですが」
「まーまー蒼也くん、付き合いたまえよ」
「結構です」

 悠々と煙をくゆらせる林藤に、風間は苛立ちを隠しもせずにそう言った。彼も、習慣というほどではないがタバコを吸うことはある。だが今はそんな気分にはなれなかった。

「一応先に聞く。蒼也、お前俺が答え言ってそれで納得できる?」
「どういう意味ですか」

 風間がタバコを固辞し、束の間林藤がタバコを吸った後で、林藤は今までから一転して低い声で言った。真剣な声色に、風間は訝しむように眉を寄せて真意を問う。

「答えも何も、宇佐美の転属が承服できないのは風間隊の戦力に関わることだからだと何度も上申しました」
「やっぱお前堅物だね。自分に対してすら堅物だから答えが分からんでいるんだよ」

 そう言って林藤はガシガシと自分の髪を混ぜた。この凝り固まった、正確には現実を見ないために凝り固まらせた彼自身の感情に答えを示すことは、本当に骨が折れる、と思いながら。

「どういう意味ですか」
「風間隊としての意見については忍田さんと宇佐美が答え出してるだろ。三上は宇佐美が風間隊のオペレーターに相応しいと言っているし、風間隊を含むボーダー全体の戦力を考えれば宇佐美も他隊での経験が必要だと忍田さんが言っている。風間隊に宇佐美が云々の話はこの二つの答えで終わりだ」
「だから!」
「否やは無し。忍田本部長の出した答えで、人事の当人も承服しているならこれはボーダー戦闘部隊全体の承認を得ていることになる。そんなことも理解できないならA級部隊隊長なんぞ名乗るな」

 ぴしゃりと言われたそれに、風間は言葉に詰まる。そう言われて初めて気がついたが、風間の主張は確かにあまりにも子供じみていた。

「ま、そんなお説教がしたい訳じゃないんだけどな」

 言葉に詰まった彼に、林藤は一転して軽く口角を上げた。

「お前がそんな子供じみた考えだなんて誰も思っちゃいないよ。話は違うところにある。ただお前が気づいてないだけ」
「は?」

 虚を衝かれたように目を見開いた風間の眼前にフッと紫煙を吐いて、林藤は今度こそしっかりと笑った。

「ボーダーなんぞ抜きにして、お前自身は宇佐美がいなくなっちゃうことをどう思ってるんだ?」





 林藤に言われた言葉がわんわんと脳内を回る。自分がどう思っているか。風間隊としてではなく、自分が。その通りだと思う部分があった。なぜなら、普段の風間であれば忍田の説明と、それから宇佐美自身の承服があればすんなりこの人事を受け入れて、なんのしこりもなく彼女を送り出したはずだったからだ。それが、自分でも分かる。自分自身を俯瞰して分析するくらいのことは風間には容易いことだった。だが、今の彼はそれが出来ていなかった。

(俺自身が……?)

 疑問は膨れ上がる。疑問、と思いながら、どうにかしてふたをしようとしている感情がどこかにあるのも知っていた。知っていて、目を逸らそうとしていた。だけれどそれは見事に砕け散った。

「あ、風間さん!忍田本部長とお話終わったんですか?」

 時刻はもう遅い。疑問を抱えたまま辿りついた自隊のミーティングルームにはその思考の中心の宇佐美しかいなかった。その彼女を見て、その疑問は砕け散った。

(ああ、そういうことか)

 そういうことかと思いながら、風間はさり気なく宇佐美のデスクを見る。ほとんど片付いてしまった彼女のデスクを。
 宇佐美は、風間が忍田や林藤相手に彼女の人事について抗議していることなど知らなかった。だから、不思議そうに見返す視線と自分の視線がぶつかって、風間は自嘲気味に笑んだ。

「片づけで残っていたのか」
「はい、けっこう荷物があって」

 肩凝っちゃう、と茶化した彼女に、風間の自嘲は深まる。

「今日はもう戻れ。米屋がまだ訓練室にいるから一緒に帰るんだぞ」

 彼女から視線をそらして、仕事をするように何でもない書類を手に取った風間に、宇佐美は「はあい」といつも通りの明るい返事をした。いつものように、「送ってくれないんですか」、と言ってくれればいいのに、と風間は我儘にも思った。だけれど、彼女はもう自分に甘える立場ではないと彼女の方こそ分かっているのだ、と思えば思うほどつらかった。

「じゃ、陽介誘って今日は帰ります。風間さんもあんまり遅くまで無理しないでね」

 ぺこっと軽く頭を下げて横を通り抜けた彼女の腕を掴もうとした手が、宇佐美がその部屋から出ていってから余計空虚に風間自身の目に映った。自分が帰れと言ったのに、引き留めようとしたその手が、ひどく空しかった。

「結局、俺は、俺が嫌だっただけなんだな」

 その手を見つめて、それからいなくなってしまう宇佐美のデスクを見つめて、風間はぽつんと言った。

「馬鹿か、俺は」

 吐き捨てるように言えば、彼女を引き留めようとした腕が震える。

「好きだ、なんて、気がつかなければ良かった」

 震えが腕から肩に、肩から体全体に伝播する。
 その思いに、彼はずっとふたをしてきた。今初めて気がついた体を装いながら、本当はずっと知っていた。
 風間の中で、宇佐美はいつの間にか一人の女性として認識されていた。
 だけれど、それを彼は「昔からの仲間」とか「手の掛かる後輩」とか、いろいろな事柄で隠していた。
 好きというたった二文字の感情を隠すために、たくさんの事をかぶせた。
 たくさんの理由で、たくさんの感情で、その恋愛感情を摩り替えてきた。

「馬鹿だ、こんな切っ掛けがないと向き合えもしないなんて」

 気がつくのが遅すぎた。
 もし、宇佐美の転属が決まる前ならもっと手立てはあっただろうと思った。思ってそれから彼はその全てを否定する。

「宇佐美がいなくならないと分からない、大馬鹿者だ、俺は」

 彼はダンとデスクを殴った。しくしくと拳が痛んだ。





 それから一週間ほどで、宇佐美は置き土産のファイルを風間に託して、風間隊から去っていった。





「風間隊、良い部隊でしょ」
「うん。栞のファイルすごく助かったよ」
「なら良かった」

 笑顔で言ってカフェラテをごくごく飲んだ宇佐美に、三上は苦笑する。
 本部のラウンジで会った宇佐美を捕まえたのは三上の方だった。だけれど話しを始めたのは宇佐美の方で、三上はそういうところが宇佐美の優しいところだと思うし、そうして自分の言いたいことがなかなかに難しいことだということだと思った。

「ね、歌歩ちゃんから見て現風間隊の能力値はどんな感じかな?」

 茶化すように言った彼女に、三上はやっぱり苦笑を深める。

「栞、誤魔化しても駄目よ」
「……誤魔化してないよ」

 困ったように眉を下げた宇佐美に、彼女は今度こそ苦笑ではなく微笑む。

「本当のこと、言わないと自分で自分を見失うよ」

 微笑んで言えば、宇佐美は泣き出しそうな顔で言った。

「メール読んでくれた?」
「当たり前でしょう」
「あの、ね。アタシ、サイテーだね」
「そんなことない」

 三上の否定なんて聞いていないように宇佐美はテーブルに突っ伏した。腕を枕にして顔を覆う。

「気づいちゃったんだあ……メールに書いた通りでさ、玉狛に行ってからさ、風間さんがちらつくの。最初はホームシックかなって思ってた。だけど違うの。アタシ、風間さんが好きなの。サイテーだよ、だって隊長だったんだよ?隊長だった人を恋愛対象として好きだったし今も好きだなんて、そんなの、絶対風間さんに軽蔑される」

 顔を覆っているためにくぐもった声で言った彼女の長い髪を、三上は撫でた。

「そんなことない」
「そんなことあるよ」

 駄々をこねる子供のように言い縋る宇佐美に、三上は困ったように笑った。笑って、少しだけ視線を上げる。その視線の先には、小柄な人影があった。

「風間さんはそんなことで栞を軽蔑したりしないし、気がついた時から始めればいいのよ」

 その言葉に宇佐美が反駁する前に、三上は続けた。

「そうですよね、風間さん?」





 驚いたように跳ね起きた宇佐美を一瞥して、二人のテーブルの斜め後ろにいた風間は三上と一言二言言葉を交わし、礼を言うと、訳が分からず目を回している宇佐美を引きずるように立たせた。

「行くぞ」
「え、ちょ、風間さん!?」

 有無を言わさぬその態度に宇佐美は何か言おうとして、だけれど思考がまとまらない。その間にも、その小柄な体からは分からない強い力で引っ張られ、自然と彼女は歩かされていた。本部の建物を出たところで、宇佐美はやっと落ち着きを少しだけ取り戻した。

「風間さん、待って、ストップ!」
「なんだ」
「怒ってる?」

 建物の外の自販機の前まで来て、だけれど宇佐美は見当違いなことを言った。

「怒ってない」

 すっぱり言って、むしろその鈍感さに怒っているのだが、などと思いながら、風間は彼女をベンチに座らせた。

「あの、だって、風間さんさっきの聞いてたでしょ?」

 おずおずと座らされたために見上げる形になった風間の目を覗き込めば、彼は困ったように目を泳がせた。事情を知らない宇佐美にはそれが不思議だった。

「アタシ、風間さんが」
「言うな」

 遮られて、彼女は絶望的な気持ちになった。やっぱり、こんなふうに年下の子供で、しかも元の部下から好きだと思われているなんて嫌に決まっていると思ったのだ。だけれど、それには全く違う言葉が返ってきた。

「俺から言うから、言うな」
「え?」

 言葉の意味が分からずに彼を見返した宇佐美の視線を、風間は今度こそしっかりととらえる。別れが決まってからずっと、逸らし続けてきたその視線を、初めてしっかりと受け止めた。

「宇佐美、俺はお前が好きだ」
「あ、の…?」

 驚きで彼女は大きく目を見開いた。それに構わず風間は言う。

「お前が隊を離れる時、俺はどうしてもそれが承服できなかった。風間隊のためだと思っていた。だけど、違った。そんなことじゃなかった。そんなの建前で、ずっとお前のことが好きだった。お前が隊を離れる段になって、やっとそれに気がついたんだ。気がついたが遅すぎた。遅すぎたし、こんなの、同じ部隊でもなくて、ただの歳の離れた男女で、そう思ったら気がついてはいけないことだと思った」

 一気に言って彼は宇佐美の目を覗き込む。そうして続けた。

「それでも俺はお前が好きだ。浅ましいと分かっている。許してくれ」

 まるで、別れの挨拶のような言葉に、宇佐美の目から堪えていた涙がこぼれる。その次に彼女はぱちんと、きっと彼にしてみれば全く痛くないだろう力で風間の頬を打った。

「風間さんの馬鹿。そんなの、これで最後みたいな言い方しないでください」
「宇佐美、俺は」
「アタシも、風間さんが好きだって聞いてたくせに、どうして最後みたいな言い方するの」
「お前が考える好きと、俺の好きはきっと違う」
「違わない!」

 真っ赤な目をした宇佐美は強くそれを否定した。

「アタシが風間さんを好きだっていうこのことは、風間さんにだって否定させない」

 真っ直ぐ言われたその言葉に、風間はああと思う。ああ、こんな彼女だから、自分は宇佐美が好きなのだ、と。

「好きでいてもいいか」
「当たり前です」
「好きでいてくれるか」
「それも当たり前です」

 きっぱりと、はっきりと、彼女は愛を告げる。
 すれ違ってしまったあの日、互いに伸ばすことを知らず、伸ばすことを出来なかった手を、風間はゆっくり彼女に伸ばした。
 覆いかぶさるようなそれを、宇佐美は抱き留める。

「気がつくの、遅かったねアタシたち」
「ここから始めればいい」
「そうですね」

 笑って言った彼女の頭のてっぺんに、彼は優しく口付けた。




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2015/08/21