『戦闘体活動限界 緊急脱出』
音声が僅か聞こえて、気が付いたら風間は簡易ベッドに仰向けになっていた。
ギョッとして身を起こす。その視界に最初に入ったのはカタカタとディスプレイを操作しながら離脱した風間以外の隊員に必死に情報を出している宇佐美の背中だった。
花喰鳥
「昨日は済まなかった」
「いや、まあ」
風間隊がA級に昇格してから、まだ日は浅い。しかし、昇格してから大規模戦闘や遠征こそないものの、それなりに危険度の高い任務に駆り出されることが増えたのは事実だ。だが、B級時点で個人総合9位だった風間が緊急脱出する事態、というのはなかなかレアケースだった。そのことについては本人が一番理由を良く知っているだろうと、謝罪を受けた宇佐美は思っていた。
昨日の一件は、仕方がないことだった。
宇佐美が繋いだ菊地原の聴覚共有は十分だったが、それは風間隊の特権だ。だが、昨日は同行していたB級の部隊があった。彼らに聴覚共有を提供することは、A級でトップを目指している風間隊には出来ないことだった。だが同時に、風間はその理念のために他者を切り捨てるという選択を出来るほどの冷血漢ではなかった。……いや、必要な聴覚の共有を宇佐美が勝手に彼らにしても、風間は何も言わなかっただろう。それをしたところで、間に合うタイミングではなかったし、共有した情報を彼らが理解できるとも思わなかった。
結果的に、陽動に失敗したB級のチームを庇う形でその陽動ありきでトリオン兵に突っ込んでいた風間がベイルアウトしたのだった。
「でも、風間隊長には少し考えて欲しいなとは思いますけど」
宇佐美は敢えて「風間さん」ではなく「風間隊長」という呼称を使った。それは、先ほどの返答からそうだが、彼女が本当に彼を諌めるつもりなのだということのあらわれだった。
「……聞こう」
弱冠にして諫言を聞き入れようというこの度量は凄まじいものがある。一方で、その彼に意見しようとする宇佐美も相当の胆力だ。……いや、そういった制約を課さない雰囲気がこの隊には十分にあるから、というのが一番の理由なのだが。
「あそこで風間隊長がベイルアウトする必要性は全くありませんでした。B級以上の戦闘員は緊急脱出が可能です。彼らの陽動が失敗したならば、風間隊長はいったん彼らを含めトリオン兵から距離を取るべきでした。彼らが離脱しても作戦は風間隊の三名で十分続行可能でした」
「……一理ある。しかし今回俺たちに同行したチームはB級に昇格して間もない者だけが構成員のチームだった。戦闘における心的外傷を残すべきではないと判断した」
宇佐美の口調も、返す風間の口調も、部隊の上司と部下のそれだ。沈黙が流れる。双方の意見をぶつからせても、どちらも至極真っ当で、どちらも返す言葉がないからだった。
不意に風間が宇佐美に背を向けてラウンジの自販機に小銭を入れる。ガコン、と缶が落下してくる音がして、宇佐美は思わず声を荒げた。
「そういうこと言ってんじゃないの分かるでしょう、風間さん!」
その背中に、上司と部下の仮面が剥がれ落ちた宇佐美が叫ぶように言った。その自隊のオペレーターに、彼は背を向けたまま、屈んで落ちてきた缶を取り出した。
「もっと自分を大事にするってないんですか!?見捨てろなんて言わないわよ、あなたがそんな冷血漢じゃないことくらい知ってます!だけど、だけどあんなのないとアタシは思うの!新型だったらどうしてたのよ、確かに現在の技術上トリオン体が損傷しても実体に影響はない。でももしあれが実体に影響を与えられるトリオン兵だったら、風間さん死んでたかもしれないのよ」
「昨日のトリオン兵が新型ではないのは確認済みだったし、菊地原の聴覚でも既存個体との差異は検知できなかったが」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
風間自身、自分の‘言い訳’が苦しいものだと分かっている。所詮、こんなのは詭弁でしかない。今は彼女の言い分の方が圧倒的に正しい。
「あなたはうちの隊の隊長なのよ」
諭すように、或いは、自分自身の昂ぶりを抑えつけるように、ぽつんと彼女は言った。
「代わりなんていないんです」
それでもなお、風間は背を向けている。彼女の顔を見るのが、今は少し辛い。
「アタシ、戦闘員じゃないから」
絞り出すように、その背中に宇佐美は言った。
「実戦の緊急脱出ってどういう感覚なのか分からないの」
「……」
「でも、隊のみんながベイルアウトすると冷や汗でいっぱいで、すごく焦って身を起こすのは知ってる。だけどそれしか知らない!」
「それは、」
「昨日風間さんが実体に戻った時、真っ青だったんです。冷や汗酷かった。焦って起き上がった。アタシはそれを全部知ってるのに、全部分からない!」
風間が緊急脱出をせざるを得ない状況になったのは本当に久しぶりのことだった。それが、かえって彼女の中の恐怖を増長しているのかもしれなかった。
彼女は風間に比べてかなり明るい。任務や作戦の失敗くらい笑い飛ばせる。そういう点が風間隊のいい風穴になっているのは確かだ。だが、その一方で、死に直結する事態を何とも思わない人間など普通ではない。少なくとも、宇佐美は違った。
少なくない恐怖は、だけれどこのところ成功に上書きされてきた。そして昨日も、風間隊だけなら何の障害もなく成功するはずの任務だという自負が、彼女の中の恐怖を上書きしていた。
戦闘体では死なないと知っている。知っているが、それは虚だとも知っている。生身の実体はそこにあるのだから。
その事実を無防備な状態で突き付けられた時に、冷静でいられるほど彼女は大人ではなかった。
「分からないんです」
くぐもった声が背中の向こうで聞こえて、彼女が顔を覆っているのだと風間は覚った。―――彼女が、泣いているのだと覚った。
「泣くな、宇佐美」
顔を覆った彼女の頭に、コツンと金属質な物体が当たる。
「分からなくていいから、泣くな」
支離滅裂なことを言っている自覚はある。自覚はあるが、それ以外にどう言ったらいいのか彼にも分からなかった。だが、少なくとも今は彼女のその涙だけで十分だった。
「これやるから、もう泣くな」
グイッと、その金属質な物体で、というか先ほど自販機から取り出した缶で彼女の額を押し上げる。ぐしゃぐしゃになったまだ少女と呼べる年齢の彼女の眼前にその缶を差し出す。
それはココアだった。
「風間さんにこれは似合わない」
精一杯の彼女の悪態に、風間は小さく笑った。
*
「子供じゃないんですけど」
「そうだったか、高校生」
たまたま立ち寄った本部のラウンジで鉢合わせた風間が、何も言わずに宇佐美に差し出したのは、自販機から買ったばかりのココアだった。
「ちっちゃいのに気を遣わなくていいんですよ」
「喧嘩なら高く買うぞ」
「身長は気にしてないんじゃないんですか」
ふふんと笑った宇佐美に、どこでこんなに性格が捻じ曲がったんだか、と思ってから、彼女は昔からこういう性格だったな、と彼は思い直す。
ただ、この場所で二人というのが、彼に彼女のかつての弱さを思い出させるというだけだった。
あの日から、彼は緊急脱出しても努めて平静に起き上がり、オペレーターである宇佐美の横にすぐ陣取って隊に指示を出すようになった。それは、彼女が玉狛に転属になって、オペレーターが変わった今も変わらない。もう習慣のようになってしまったそれが、だけれど宇佐美の不安を払拭するために始めたことだと彼は覚えている。
同時にそれが、彼を、彼の部隊を、そうして彼女を強くしたことも、知っている。
「玉狛はどうだ」
「いいとこですよ。みんないい人だし、個性的だし」
「そうか」
それ以上の会話は、今はいらない。
それ以上の会話は、今もいらない。
それがかつての上司で、かつての部下で、
それがかつて彼を支えたオペレーターで、彼女を支えた戦闘員だから。
「これ、後から払えとか言わないでくださいね!」
「くだらんな。俺が130円そこらでグダグダ言う男に見えるか」
「見えませーん。きゃーおとこまえー」
「……やはり倍にして返せ」
「そのうちね」
笑った彼女に、彼の唇が僅かに弧を描いた。
2014/10/13ブログ掲載
2014/11