「来ないで!!」
その一言が風間に突き刺さったのは言うまでもない。
宇佐美から放たれた言葉にほとんど石像と化している彼に、彼女はさらに追い打ちをかけた。
「駄目です、触らないでください!ごめんなさい!!」
辛うじて伸ばしていた腕がそれで空を切る。そうしたら、宇佐美は脱兎のごとくボーダー本部ラウンジから逃げ出した。
子供の領分
「俺が何をしたって言うんだ」
呪詛か何かを纏っているかの如くブラックな気を放って、珍しく諏訪隊作戦室の雀卓に座る風間を、憐れなものを見るような目でその卓の主である諏訪は見遣った。
「考え付く限りのあらゆる悪いこと」
「追い打ちをかけるな!!!」
東が制したが、どこ吹く風の諏訪は適当に煙草を灰皿に押し付ける。
「だって、まず前提が可笑しいことくらい東さんも分かるっしょ」
「いや、その」
東にしてはかなり歯切れが悪い言葉を返されて、その沈痛を通り越した風間蒼也はさらに沈み込んでいく。ここにいつものように太刀川がいなくてよかったと本気で東は思った。冬島ならまだしも要らんことを言って混ぜっ返して風間の傷口に塩を塗るに決まっている。
夜半のボーダー本部で、半強制的に場所の提供と愚痴相手を任じられた諏訪は、それでもまだ頭が回っていた。非番の東が本部にいるのを確認すると、即行で彼にメールをしたのだ。……暇だから麻雀をしないか、というただの嘘でもって諏訪は自分以外の被害者を生成することに成功した。
飲み屋なら木崎を呼び出せば済むのだが、生憎とここは飲み屋でもなけれ玉狛支部でもないボーダー本部の一室だ。夜だから防衛任務のない諏訪隊の未成年組はもう帰っていたし、ついでに堤は作戦室に風間が押し入ってきた時点で退却した。仲間を見捨てるという残忍な行為だ、と諏訪は未だに恨めしく思っている。
すぐにやってきた東の第一声は「うわあ」という彼にしては珍しい感嘆だった。完全に後輩から嵌められたことに気がついたが、かといってもはやこの世の終わりのように諏訪に当り散らす風間と、それに対応する諏訪の両名を見捨てることもし難かった。
「何があったんだ」
眉間をおさえながら言えば、疲れ切った笑みで襟首をつかまれている諏訪が振り返る。
「どうも。いやあ、嵌めた訳じゃないっすよ」
「それはもういいから。風間、とりあえず諏訪を放してやれ」
東がやってきたことで若干正気を取り戻した風間は言われたとおりに諏訪を放した。
「もう一度聞くぞ。何があったんだ」
多少落ち着いた風間と、あからさまに面倒くさいという顔をしている諏訪を交互に見て言えば、風間が雀卓を囲むソファに沈み込んだ。
「宇佐美に嫌われました」
「…………帰っていいか」
*
長ったらしい風間の愚痴の要点をまとめると、久しぶりに本部で会った宇佐美に「来るな、触るな、ごめんなさい」と言われたということらしい。風間と宇佐美が付き合っているということは東も知っていたがその彼女にそんなことを言われてはここまで落ち込むのも已む無しだろう。
「何かこう、ないのか。約束をすっぽかしたとか」
傍観モードに移行した諏訪に代わって東が言えば、風間は重い口を開いた。
「約束最近してません」
「は?」
「宇佐美が進級してからいいろいろ忙しいようで」
「あー、宇佐美三年か。そりゃ忙しいな」
そこで東は、風間と宇佐美の年齢差が仮に風間が手を出せばほとんど非合法だったことに思い至る。そうして宇佐美は今年高校三年生だ。玉狛第一と第二のオペレーター業務もそうだが、高校三年生というのはボーダーという特殊な環境を差し引いてもかなり忙しい。
「それも含めて、久しぶりに本部で見かけたからせめて頭を撫でようとした俺の何が悪いんですか!?!?」
駄目だこいつ早く何とかしないと、とどこかの漫画で読んだことのあるセリフを思いついてしまった東だったが、自分が間違っているとはいっかな思えなかった。
「ロリコンが」
「ロリコンじゃない。恋人がたまたま年下だっただけだ」
端的に言った諏訪に典型的な返しをしている風間を見ながら、東は息をついた。
「……本当に、今日久しぶりに会ったのか?」
「は?」
息をついてそれから、しかし東は思い当たることがあってふと風間に問いかける。
「いや、ほら先週、オープンキャンパスだったから。あれ、宇佐美はうちの大学希望だよな?去年駄目だったから今年行くようなことを木崎が言っていた気がするんだが」
そう言われて風間は目を見開いた。東の言う通りだったからだ。二年生のうちに、と思っていたが様々と忙しい時期が被り、去年行くことの出来なかったオープンキャンパスに宇佐美は今年来ていた。
「いや、それはそうなんですが、その時は会ってませんよ」
歯切れ悪く言えば、諏訪がジッと煙草に火をつけた。
「いや、違うな。そこで決まりだ。お前なんかやらかしたよ、絶対」
「どうしてそんなことが言える」
「だって宇佐美だぜ?こういうこと言うと砂吐いちまうから言いたくねえけど、あんなに『風間さん大好き!』を隠しもしない宇佐美に触らないで!不潔!まで言わせたんだぜ?」
「不潔は言われていない。今すぐ訂正しろ。現世から緊急脱出させるぞ」
凄んだ風間もどこ吹く風の諏訪は悠々と紫煙を吐く。
「だいたい想像つくね。高校生だとそんなもんだろ」
「は?」
訳が分からずぽかんと諏訪を見返した風間に一瞬目を留めて、それから東は笑った。
「そういうことか」
「はい?」
今度は焦ったように東に問い返せば、東はカラッと笑った。
「お前、誰かと一緒だったろ。昼時とか、見学の高校生と被りそうな時間帯」
「はあ…?オープンキャンパスの日ですか?」
「そう。そうだな…一般学生と被るのは学食あたりか。昼飯はどうした?弁当か?」
「……ゼミの後輩に昼飯たかられたように記憶していますが」
「学食で?」
「はい」
「ハイ決まり。風間んとこのゼミに女子の後輩いるもん」
今度は諏訪にあっさり言われて俄かに混乱した風間に、東は苦笑した。
「気後れしたんだよ、宇佐美は。ボーダーの風間しか知らないから」
「あの、少し意味が……」
「だからさぁ、ボーダーの中ならお前は風間隊長サマサマだから周りに人がいようが慕われてようが宇佐美もそれは全然不思議に思わないワケよ。でもお前のボーダー以外の繋がりって宇佐美的にはあんまり考えたことないんじゃねえの。見たこともないだろうし。平たく嫉妬ならいいだろうけど、アイツ頭いいからね。嫉妬じゃなくて外の世界じゃ自分は彼女に相応しくないただの年下の元部下とか思った日にはそりゃあ避けたくなるね。しかもそれを彼氏様がフォローしてくれないときた」
「諏訪、気がついていなければフォローのしようがないだろう。風間だけのせいじゃない」
完全にフリーズしている風間をフォローした東だったが、「ただ」と付け足す。
「すぐにそう思われるってどうなんだろうな。風間が何かしたならまだしも、宇佐美はいつもと違う風間を見ただけなんだから。それでも一番、くらいに宇佐美に思わせる度量はいるんじゃないのか、そこは彼氏かつ年上として」
東の一言が決定打となって、風間は思い切り頭を抱えた。
*
「絶対嫌われたよぉ」
「気にしてないと思うぞ。風間は子供じゃないんだし」
「え、そうかな。風間さんけっこう子供だってレイジさん言ってたじゃん」
「アタシが死ぬ程子供なんだよ!」
ほとんど時を同じくして玉狛支部。木崎は書類を届けた本部から戻るなり半泣きの宇佐美にホットミルクを与えていた。……半泣きの宇佐美を迅がからかっていたために、状況は悪化の一途をたどっていたが。
気にしていないと思う、などとのたまったが、木崎としては今頃風間がおかしくなって諏訪あたりに当り散らしている光景が容易に想像できたのだけれど。風間がこと宇佐美栞という彼女のことについては信じられないほど独占欲やら我儘やらを抱えていることを、同年代として様々と付き合わされている木崎と諏訪ほどよく知っている者もいないだろう。
玉狛支部に残っていた木崎と迅が宇佐美から聞いた内容は、東と諏訪が風間に聞かされたことそのままかつ、東と諏訪の推測通りのことだった。
いろいろ言っている宇佐美をよそに、木崎のスマホが着信を告げた。ふと届いたメールの文面を見て、木崎は一瞬顔をしかめたが、すぐに宇佐美に向き直る。
「だって、大学の風間さんってなんか」
「そりゃあいろいろあるでしょ。宇佐美だって高校に仲のいい男子とかいないの?」
「いる、けど、違うよ。だって別に恋愛していないですもん」
「それは風間も一緒だろう」
「アタシよりずっと大人な人いっぱいいたから、その方が風間さんも絶対いいと思っちゃったんだもん!そしたらなんか、なんか触られるの怖くて」
「風間さん甲斐性無しだね」
迅が一言言った瞬間すぱんとソファに座る彼の頭がはたかれた。
「ったあ!!って、甲斐性無しの風間さんだ」
ニッと笑った迅が振り返れば、そこにいたのは息を切らせた風間だった。
*
「玉狛に行ってくる」
「行ってらっしゃい」
風間の重い声に比して、諏訪は驚くほど軽い声で応じた。
立ち上がった彼を見て、東はスマホを取り出す。
「ま、武運を祈るというやつだ」
「ありがとうございます」
そう返して諏訪隊の作戦室を後にした風間に二人は息をつく。
「それ木崎宛てですか」
「ああ、まあ一応な。風間が今から行くとだけ。さてこっちはどうする?人呼んで一局やるか?」
「砂糖喰わされた後にやるもんじゃねえっすよ」
*
自分の彼女を玉狛支部の屋上まで引きずってきたはいいが、何から話せばいいのか、いや、話すべきことは分かっているのだけれど、本当に、どこから話し始めれば彼女が混乱せずに納得するだろう、と風間は少しの間考えた。その間隙に、先に口を開いたのは宇佐美だったのだけれど。
「あのね、風間さん」
「……なんだ」
「ごめんなさい」
その一言に風間は思わず渋面を作る。大層な決意をして玉狛まで来たというのに、結局先に口を開いたのは宇佐美で、しかも自分に非があると謝罪をする。素直なそれは彼女の美徳だろう。しかし今の風間にしてみれば傷口に塩を塗りたくられたも同然である。甲斐性無し、という迅の一言がよみがえった。
「どうしてお前が謝る」
「だって…その、今日避けたから怒ってますよね?」
「そうじゃない」
怒っているわけじゃない。そもそも避けられた当初だって怒るなんて出来なかった。単純に衝撃を受けただけだ。
グッとスカートを握り込んで俯いてしまった宇佐美のその手に風間は軽く触れた。
「そうじゃない、宇佐美」
「だって、アタシ可愛くないしただの子供だもん!」
今にも泣きだしそうな声で言われたそれに、東と諏訪の推測がバッチリ当たっていることが分かり、風間はどうにもきまりが悪いような気になってしまう。
「すぐ大人になんかなれないもん」
言い募った彼女を、風間は不意に抱き留めた。
「そうだな」
風間の腕の中で言い放たれた肯定に、宇佐美は本当に泣き出しそうになる。もしかしたらこれで最後なんて言われるのかもしれないとすら思えてしまう。―――そんなこと、彼が言うはずもないのだけれど。
「宇佐美がそんなに急に大人になったら、俺が困る」
「え?」
彼女は、彼女が自分で思っているよりもずっと大人だ。ただ大学という世界がまだ想像できないだけで、もっと違う側面から見ればきっと、彼の同級生よりも、後輩よりも大人だろう。だけれど、せめて自分の前でくらい子供のままでいてほしかった。
背伸びをした謝罪など、させたくはなかった。
「嫌だとか、怖いとか、そういうことを思ったら遠慮せずに言え」
「だって」
「お前に多少我儘を言われても俺は困らないぞ」
「それは……」
困ったように言いよどんだ彼女の言葉の続きを、だけれど風間は知っていた。
「俺が大人だから、じゃない」
その言葉に宇佐美はびくっと肩を揺らした。それは怯えではなくて、自分の心を見透かされたことへの純粋な驚きだった。
「俺は甲斐性無しかもしれないが、お前は情緒がないな」
「……へ?」
「大人だからじゃない」
ポカンとしている彼女に、風間は笑って言った。
「俺がお前の彼氏だからだ。我儘くらい言われた方が嬉しい」
「風間、さん、あの」
「我儘は言われた方が嬉しいし、嫌なことや怖いことを宇佐美が俺に言えないなら俺はとんだ間抜けになるぞ。本当にただの甲斐性無しだ」
「そんなこと、ないよ?」
それを否定して、おずおずと顔を上げた宇佐美の額に、触れるだけの口づけをする。
「そんなに違って見えたか、大学だと」
「なんか、いつもと違う人がいっぱいいたからですかね?」
「声を掛けてくれればお前の方に行った」
「だってもういろいろ混乱しちゃってて!私みたいな子供が声掛けたら」
「馬鹿だな。子供以前にお前は俺の彼女だろう?」
平然と言われたそれに宇佐美の頬は真っ赤になる。
「ずるいよ、風間さん」
「大人は案外ずるい生き物だ」
子供であることよりも先に、恋人だと言ってくれるそれが、こそばゆくて気恥ずかしい。
「なんか変なことで悩んでごめんなさい」
「謝るな。普通にあることだろう」
「うーん、大人な対応されると恥ずかしいです」
そう言って胸に飛び込んできた宇佐美はもう、風間に触れられることや彼に近づくことに恐怖なんて抱いていなかった。いつも通りに戻った彼女に、風間は笑った。
「俺の前でくらい、子供でいてくれ」
その我儘は、彼の我儘だろうか。それとも、彼女の我儘だったのかもしれない。
どちらでも、それは同じこと。
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タイトルはドビュッシーのピアノ組曲より。
2015/09/25