言問い
優秀ですね、なんて言われたことはなかった。
いや、言われたことはあるんだろう。
成績が優秀ですね、とかそういうことを言われたことはゼロじゃない。
だけど、ボーダー隊員としての自分が「優秀ですね」と言われたことは本当になかった。サイドエフェクトだって結局、見つからなければ、気が付かなければ良かった程度の物だった。
だから、そのその時はまだ少女だった女性から手放しの称賛を受けた時にぼくが感じたのは、純粋な喜びだった。
*
「なんて言ったっけ、あの黒トリガー。玉狛に入ったあれ」
本部のラウンジでたまたま見かけた宇佐美先輩を捕まえた。彼女は嫌な顔一つせずにぼくの雑談に付き合ってくれた。こういう時に風間さんはもっと簡単に彼女を呼び止めて、他愛もない話をしているのだけれど、ぼくにはどうも出来そうにない芸当だ、と思う。
「きくっちー缶コーヒーよりココアの方がいいか」
「何でもいいよ」
そう返せば、ガコン、と無機質な音がして自販機から缶が落ちてくる。引き留めたのはぼくの方だと言うのに、結局飲み物を買うのは宇佐美先輩で、それがどうにも可笑しいような気がした。
「はい。遊真くんのことだね」
「大規模侵攻じゃご活躍だったね」
「またそういう言い方する。と言いたいところだけれど、そうだったね。でも風間隊もすごかったじゃない!忍田さん褒めてたよ、きくっちーのサイドエフェクト。さすがだね」
やっぱりこの人は手放しに僕を褒めてくれた。だからぼくの中にあるのはじゃあどうして、という問いだけだった。
「やっぱりチーム戦は風間隊が強いなあって改めて思い知らされたよ。一点突破なら他の隊も強いけど、まあ陽介たちもチーム戦ではあったんだけどさ。急ごしらえの部隊だったからいろいろと改良点があるよね」
「当たり前でしょ」
そう言ってぼくは宇佐美先輩の買ってくれたココアを一口飲む。空調がきいていたって、まだこの時期は寒かった。
「相手の黒トリガーの特性を把握したのもきくっちーのサイドエフェクトでしょ?コンセプトチーム燃える!」
メガネを押し上げて言った宇佐美先輩に、だからぼくは思わず彼女の語る理想のそのチームについて言ってしまった。
「嘘じゃない?」
「え?」
「じゃあなんでうちのチームからどこかに行っちゃったの」
どうして、という問いを思い切り叩き付ける。叩き付けるなんてことはなかったかもしれない。なかったかもしれないけれど、それは多分、彼女にやすやすと言っていいことではなかったと思う。
どこかに、と言った自分をぼんやりと俯瞰している自分がいた。彼女が行ったのは玉狛支部というはっきりとしたボーダー内の組織なんだ。そうだというのに、ぼくは彼女がどこか遠くの、もう自分たちじゃ手の届かないところに行ってしまったように思っていた。
「ねえきくっちー、歌歩ちゃんと仲良くしてる?」
「先輩、ぼくのに答えてない」
駄々をこねる子供のように返したけれど、宇佐美先輩は相変わらず微笑んでペットボトルの小さなレモネードを飲んでいる。
「歌歩ちゃんはねえ、大規模侵攻の時どうしようもなくなったアタシにギリギリの状態で情報をくれたんだよ。本部の状況が分からなかったらC級隊員は助からなかったかもしれない」
「そうじゃなくて!」
「ねえきくっちー、歌歩ちゃんと仲良くしてる?」
重ねて、宇佐美先輩は同じことを聞いてきた。間に挟まれた言葉と、その問い掛けた言葉がひどく重い。
「してるよ。三上は優秀なオペレーターだ。風間隊に必要不可欠な人材」
ぼくはそういう宇佐美先輩の問い掛けに逆らうのが苦手で、仕方なく答える。だけれどそこに嘘は一つもない。
「良かった」
そう言って、彼女はことっとテーブルにペットボトルを置いた。ぼくの問いに何一つ答えてないじゃないか、と彼女をなじることが、だけれど出来ない。
「アタシもね、玉狛で部隊のみんなととっても仲良くやってるよ」
「うん……」
「答えになってないって分かってるけど言うね。アタシはきくっちーもうってぃーも歌歩ちゃんも風間さんも、風間隊のみんなが仲良く元気に今日もそこにいてくれさえすれば、それでいいの」
全然答えになっていない。なっていないけれど、彼女は確かに答えにならないけれどと最初に言った。
「風間隊っていう部隊がさ、いつも幸せであってほしい。おかしいよね。ボーダーやってる時点で幸せも何もないのにさ。でもアタシは、アタシの関わる人たちがいつも幸せであってほしいんだ」
やわらかに宇佐美先輩は言った。
「おかしく、ないよ」
「そうかな」
「ぼくも、宇佐美先輩が玉狛で幸せじゃなきゃ許せない」
ぼくらのとこから出ていったんだから、という言葉は出なかった。だってそれはそんな理由のことではなかったから。
笑っていてほしいと思う。もう一緒に戦うことはなくなっても、ぼくのことを手放しに称賛して、ぼくらの隊を支えて、そうしてぼくらから遠ざかってしまった彼女が、笑える場所があればいいと思う。そうでなければ許せないと思うほどに。
今、彼女は笑っている。それが問いへの答えだろうと思う。
「アタシはね、きくっちーが思うよりもエゴイストなんだ。誰かが幸せなら、それは風間隊ならいいなと思う。アタシは風間さんとあの部隊を作った。そうしてそこにうってぃーときくっちーが来て、今は歌歩ちゃんがいる。アタシがいなくても、風間隊はきくっちーのサイドエフェクトを活用して戦えてる。アタシはそれがすごく嬉しい」
その嬉しさの中に、あなたが入っていたのなら、とぼくは詮無いことを思った。
全然エゴイストなんかじゃない。宇佐美先輩はその中に自分が入っていなくたって、ぼくらが幸せなら、ぼくらが上手くいっていればそれでいいんだ。
だけれどぼくはその中に宇佐美先輩が入っていないのはおかしいと思う。ぼくの力を引き出したのは、ぼくの力を手放しに褒めてくれるのは、ぼくらを高みに連れて行ったのは、あなたじゃないかと思ってしまう。
風間さんがいて、歌川がいて、三上がいて、ぼくがいて、もう一人が足りないんだ。
「帰ってきて」
「今のきくっちーはさみしいのかな?」
ぼくのたわ言に、だけれど宇佐美先輩は笑ってそう言うだけだった。
本部の奥の廊下から、風間さんの声がしたのをぼくの耳は捉えた。彼女が称賛したその力がその力を是とした彼の声を拾った。林藤支部長の声もする。会議はもう終わったようで、ああ、あと5分とかからず二人はここに来てしまって、宇佐美先輩をぼくから取って、とても‘普通’にたくさんのことを話して、とても普通に風間隊と玉狛支部という違う場所へと戻っていくのだろうと思った。
それはどこか遠くじゃない。手の届かない遠くじゃない。
分かっているのに、ぼくは彼女へと必死に手を伸ばす。
こんなの普通じゃない、とぼくはずっと思っていたのだと思う。
宇佐美先輩が風間隊からいなくなってしまうなんて。たった一人の黒トリガーのために風間隊が宇佐美先輩のいる玉狛支部を襲うなんて。
「菊地原、宇佐美と話していたのか」
掛けられた声は間違いなく風間さんのものだった。
「あ、風間さんお久しぶりです。ボスも会議終わったんですか」
きっちりと立ち上がってそう言った宇佐美先輩に、風間さんはいいと言うように手を振る。座れというその動作に、宇佐美先輩はすとんと元いたソファに腰を下ろした。それでぼくは、今は彼と話しをすることよりもぼくを優先するんだ、と風間さんに暗に伝えているのを覚ってしまう。
覚ってしまえるほどぼくらの付き合いは長くて、覚ってしまう内容すら風間さんと宇佐美先輩の完成した関係を示していて、ぼくはどうしてか嬉しかった。
宇佐美先輩は玉狛に行ってしまったけれど、ぼくは宇佐美先輩のことが分かって、宇佐美先輩は風間さんに全て従う訳じゃなくて。そのどれもがかつての風間隊そのままだった。
「ねえ、宇佐美先輩。どこにもいかないよね?」
ぼくは座りなおした宇佐美先輩に、風間さんも林藤支部長も無視して問い掛けた。
「うん。行かない行かない。だいじょうぶだよ」
大丈夫だよ、どこにも行かないよ、いつもそばで見ているよ、と彼女の少ない言葉と視線はぼくの膨大で、無意味な、だけれど全てを含んで問い掛けたすべてのことに答えてくれた。
「久しぶりに宇佐美と菊地原たちに飯でも食わせます。宇佐美は俺が玉狛まで送りますから」
「おー蒼也お前太っ腹だな。じゃあそうしてやれ」
ぼくらの不安定で短い会話を聞いていた風間さんが言った。林藤支部長は宇佐美先輩に「これ資料」と何かを見せたあとですぐにひらひらと手を振って本部の入り口の方に行ってしまった。
「菊地原、今日の任務はもうなかったな。歌川と三上を呼んでこい。飯に行くぞ」
「やったー!風間さんのおごりだー!何食べようかな!?お店で一番高いもの頼んじゃおうかな!?」
「こら」
風間さんが笑って宇佐美先輩の額を小突いた。一番高いもの、なんてそんなもの頼む気なんて全然ないのに、そんな冗談を言える相手が宇佐美先輩にとって風間さんなんだと思ったら温かな気持ちになる。
「風間さん気を付けた方がいいですよ。宇佐美先輩容赦ないから」
「そうだな」
「なんだねきくっちーも風間さんも。アタシはとっても優しくて情け容赦の塊だぞ」
ふざけて言った彼女に、風間さんが可笑しそうにしている。それでぼくは早く歌川と三上を連れてきて、みんなでご飯が食べたいと思って立ち上がった。
「じゃあ呼んできます」
「ああ」
二人に背を向けて風間隊のミーティングルームへと向かう。
風間さんと宇佐美先輩が何かとても楽しそうに話しているのがさらさらと耳に届いた。だけれどぼくはその一つ一つの言葉の意味を理解することを意図的にシャットアウトしていた。だから‘聞こえて’いても二人が話していることは分からない。
分からないけれど、多分、二人は、ぼくらは、幸せなんだと思った。
あなたに尋ねたい。今幸せなのかと。
答えと応えは分かっているのだけれど。
2015/02/25