おいていかないで
「あたし大学行かない」
玉狛支部のリビングできっぱりと言った小南に、宇佐美はギョッとして持っていたペンを取り落しそうになった。小南の発言に、というより、その声があまりにも冷たかったから、彼女はギョッとしたのだった。
「どうしたの、こなみ」
宇佐美が心配そうにそのペンで書き込んでいた紙切れから顔を上げて問えば、その眼前にあったのは何かを考え込んでいる、そうだというのにひどく追いつめられたような、あるいは途方に暮れた子供のような小南の顔だった。
二人にとっては高校三年の新学期。宇佐美が書いていたのはまさしく今小南が言った「大学」というものへの進路の希望調査票だった。彼女は進学校の中でも大学進学を主とするクラスに籍を置いていたから、基本的には進路と言えば大学になる。それは小南も一緒だった。進学校ではないが、裕福な家庭の子女が通う高校に在籍する彼女もまた、基本的には大学進学を主な進路としていたはずだった。
「高校卒業したら、あたしボーダーの仕事に専念するわ」
「急に何言いだすの?成績だって十分でしょう?」
「そういうことじゃないの」
そういうことじゃない、と言われるまでもなく、宇佐美は彼女が成績云々でそんなことを言いだしたわけではないと察知していた。だけれどその核心に迫ることはできなくて、当たり障りのない事柄で彼女をなだめようとしたのだけれど、返ってきた「そういうことじゃないの」という言葉は、いやに硬質な声音で響いた。
「じゃあ、どういうこと」
宇佐美はそっとペンを進路希望票の上に乗せて、真っ直ぐに小南を見た。黒い瞳に見据えられて、小南はうろたえたように目を泳がせた。……あまりにも感情の波が激しすぎる。宇佐美が感じたのはそれだった。この不安定な会話が始まった当初から、小南の感情の波は激しすぎた。
すぐ前には冷たい声を出したのに、すぐ後にはまるで途方に暮れたような顔をする。
すぐ前には全てをきっぱり否定したのに、すぐ後には狼狽を隠すこともできない。
「しおりには関係ないわ」
「あるよ。大事なこなみの大事な進路なんだよ」
真っ直ぐに見つめたままそう言えば、小南は薄い唇を噛んだ。それは悔しそうにも見えたし、泣き出すのを堪えているようにも見えた。
「うちのレイジさんだって大学に行きながらボーダーやってるんだよ?A級トップクラスの太刀川さんや風間さんさんだってそう。こなみの方が良く知ってるだろうけど、嵐山さんだってそうでしょう?東さんなんて後進の指導をしながら院に籍を置いてる。でもみんなボーダーの仕事をないがしろになんかしてないよ」
それは叱責などではない。周りのみんなにできていることが小南にできないはずはない、ということを、なるべく彼女が反論できないように、緩やかに説得する言葉だった。それはお世辞などではない。宇佐美は彼女のボーダー隊員としての勤勉さも、学生としての真面目さもよく知っている。知っているからこそ、唐突に、まるで今思いついたように言われた「大学に行かない」という一言が妙に怖かった。いや、大学に行かない、ではない。「ボーダーの仕事に専念する」の方だ。その言葉を小南の口から聞いた時、彼女はなぜか言い知れぬ危機感を感じたのだった。
目を泳がせてそれでももう一度宇佐美を見て、小南は言った。
「だって」
ぱりんと音がしそうなほど、ひび割れたような声音だった。
「だって迅は」
薄氷を踏むようなその声が続けた言葉とほとんど同時に、リビングのドアがガチャッと開いた。
*
「宇佐美を困らせちゃダメだろ」
「……」
返答せずに屋上の入り口近くになぜか置かれたベンチに膝を抱えて蹲る小南の髪を、迅は片手でくしゃっと撫でた。
「ほら」
「いらない」
「寒いだろ」
もう片方の手に持っていたマグカップの中身は温かいコーヒーだ。4月、夕方はまだどこか冷える。太陽はもう見えなくて、だけれどまだ陽光は残っている。夕暮れのぬるい薄暗さと、少しずつ冷えていく空気の中で、小南は小さく丸まっていた。
「あたし、しおりを困らせてなんかないわ」
「困ってただろうが。お前が大学行かないなんて突然言ったら宇佐美だって困るよ」
そう言って、彼女の髪を撫でながら彼は隣に座った。カップの中のコーヒーが少しずつ冷えていく。
「小南は女の子だし、いつか平和になってボーダーがいらなくなった未来のためにも大学に行っておいた方が良いと思うよ」
どうして、ということを迅は訊かなかった。ほとんど分かっていた。分かっていたから、そのことを訊くのは訊ねるというより、聞くということで、だから彼はそれを聞くのをなるべく後回しにしたかった。
それで口から出てきたのは、無難にも思える説得だった。そんな言葉しか出てこない自分がどうにも惨めで、だから彼は指通りのいいやわらかな小南の髪を撫でつけるのをやめなかった。
「迅のサイドエフェクトでその未来が見えてるの?」
あくまでも反発と拒否の姿勢を崩さずに、くぐもった声で言った彼女に、迅は一瞬言葉を失う。だけれど失ったのは一瞬だけで、彼の口はいつもの通りに平気を装い言葉を紡ぐ。
「小南は大学に行った方が良いっておれのサイドエフェクトがそう言ってるんだけど」
「馬鹿ね。そんなワケないじゃない」
「どうして?小南にはおれと違って未来は見えないだろ」
「あんたの声を聞けば、嘘ついてるかどうかくらい分かるわ」
馬鹿ね、ともう一度小南は静かに言った。
小南にとって迅は、自分よりも後からボーダーに入ってきたいわば「後輩」だ。だけれど、それと同じくらいに二人は子供だった。ボーダーという大きな組織の中で、その組織が一般の人間に露見するよりも以前から、大人の訳の分からない摂理の中で戦ってきた。
そこから先に抜け出したのは、多分迅だ。彼には未来を見るサイドエフェクトがあった。それは、否が応でも彼を「大人」に利用させ、否が応でも彼を「大人」に組み込んだ。外的にも、彼自身としても、ボーダーという組織において彼は重要なカードだった。
子供の領分から抜け出した、と迅は思っているかもしれない。だけれど小南にしてみれば抜け出さざるを得なかった、としか思えないことだった。それは時が経てば彼女も一緒だった。多くの人間が彼女よりも後にボーダーに入り、それでも彼女の戦闘能力はボーダーの中核だった。
「お、声聞いただけで分かるなんてサイドエフェクトかぁ」
茶化すように言って、ぐしゃぐしゃと迅は彼女の髪をかき混ぜる。その声が震えていないことを祈りながら。
「いいんだよ、小南」
「よくない」
「お前は、おれみたいにならなくていいんだ」
「迅のくせに生意気なのよ。あたしがいないとなんにもできないくせに」
「そうだな。だからお前には大学に行ってほしいな」
「言ってることが目茶苦茶よ」
そうかな、と迅は呟くように応じた。
「おれはさ、お前にまで背負わせたくないんだ」
「そういうのが迅のくせに生意気だって言ってるのよ」
そう言って小南はパシッと自分の髪をかき混ぜる迅の手を取った。その激しさに比して、言葉はひどく静かだった。
「ねえ迅。あんたが人生棒に振ってまでボーダーのために働いてるの知ってるのよ」
「それは」
「やりたいこともやらないで、行きたいとこも行かないで、実力派エリートとかうそぶいて、自分の時間も、自分の何もかも、あんたはボーダーに使っちゃってる」
ずいぶん上にある迅の顔を、彼女の視線が射抜く。リビングで不安定な言葉を紡いでいた時とは別人のような顔だった。
「違う?」
「違うと言えば違うし、違わないと言えば違わない」
「じゃああたしにとっては違わないわ」
「そうだな」
小南のそれは決めつけるような言い方だった。だけれど迅はそれを否定する言葉を持たなかった。
「だとしたら、なおさらおれは、小南は大学に行ってさ、普通の学生になって、卒業して、平和になったら死ぬほど平凡な生活をしてほしい。おれには一生出来そうもないことだから、せめてお前にはそうやって生きてほしい」
真摯な言葉に、彼女は僅かに瞳を伏せた。
「あたしは、迅にもそんなふうに生きてほしい」
その言葉が、どう頑張ったって無理なのを知っているから、だから自分も大学に行かずに、彼と同じ道を歩みたいと思ったのだと分かっている。自分自身で分かっていることにはどう頑張ったって逆らえなかった。
「困らせてごめんね、迅。あたしやっぱり大学行くわ。しおりにもあとでちゃんと謝る」
「小南が謝ることじゃないよ。ごめんな」
互いに謝ったらどうしても悲しくなってしまう。こうやっていると、大人の中で、訳の分からない枠組みの中で、大人になろうとしてきた自分たちの、いつの間にか歪んでいった日々を突き付けられた気がした。
「どうしようもないほど平凡で、なにも起こらなくて、好きなことが出来て、誰も死ななくて、そういう日常をね、あたしは多分、他の誰かじゃなくて迅に一番に渡したいの」
「おれも小南にはそういうのあげたいな」
「でもね、そうだっていうのに、迅がいつかあたしを置いていって、遠くに行ってしまう気もするの」
「おれはどこにも行かないよ」
「……そうね。今までずっと迅はどこにも行かなかったわ」
そう応じて、小南はベンチから立ち上がった。日はすっかり落ちている。今頃木崎が食卓にやってこない二人を呼んでくるよう千佳にでも頼んでいるだろう。
「腹減ったなあー。レイジさん怒っちまうかもしれないし戻ろうぜ」
「そうね」
伸びをした彼の手元から、冷え切ったマグカップを小南は奪い取った。迅が何か言う前に、彼女はそれを飲み干してしまう。
「美味しくない」
「後で晩飯食ったら淹れなおしてやるよ」
「そうして」
彼女は微笑んだ。その手を迅が取ってくれたから、彼女はひび割れそうな気持ちを落ち着けるように、言った。
「ねえ、迅」
「なに?」
「おいていかないで」
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ピクシブさんのマイピクの人にリクエストされた迅こな未満の二人の話。
BGM「波のゆくさき」
2015/1/28