両天秤の功罪
B級ランク戦が始まり、千佳も玉狛支部から本部基地に行くことが多くなった。そんなある日のこと、観戦の休憩時間に米屋に捕まってしまった修と遊真、それから風間隊に捕まってしまった栞からラウンジで休んでいるように言われた千佳は、素直にうなずいてラウンジのソファで休んでいた。一人で、といっても、初戦から派手なデビューを飾った千佳だ。周りで休んでいるB級隊員からも代わる代わる声を掛けられる。少し人見知りの気のある千佳はあたふたしていたが、それがかえって可愛らしくも映るようだった。
そんな時だった。
「オイ」
「はっ、はいっ!!」
突然後ろから掛けられたドスの利いた声に千佳はびくりと肩を跳ね上げて振り返る。周りにいたB級隊員たちも、突然現れたそのA級部隊隊長に波が引く様に散ってしまう。
突然現れた彼は、A級三輪隊隊長、三輪秀次だった。
*
「あ、あの」
「座っていていい」
振り返ってすぐに立ち上がった千佳に言い置いて、三輪は声を掛けておきながらすぐにふいと背中を向けてしまう。それをおろおろと見詰めながら、千佳は言われたとおりに席に戻る。背中を向けた彼は、ラウンジの奥にある自販機からガコンと音を立てて落ちてきた缶を二つ取って戻ってきた。
「やる」
いつも通りぶっきらぼうに、そうして感情の起伏が少ない声で彼は言うと、本当に彼には似合わないような甘そうなココアを千佳に投げた。
「わっ」
反射的に飛んできたそれを受け止めたら、熱い。ホットの缶ジュースは入れ物が金属だから突然ではその熱に驚いてしまうというものだ。両手でそれを落とさぬように持つ千佳を見ながら、三輪は彼女の向かいに座った。彼の手の中にあるのはブラックコーヒーだった。
「あ、の…?」
差し向った彼を見て、千佳はあからさまに怯えた表情した。無理もないだろう。彼の顔をしっかりと見るのは、それこそ彼女がボーダーに入隊するよりも以前、遊真の抹殺任務に三輪隊が臨んだ時以来だっただから。
三輪は、その時と寸分たがわぬむっつりとした表情だった。「トリガーを使ったのは」とあの時千佳に向けられた殺気が削がれていることと、隊服を着ていないこと以外、何一つ変わりがないように。
だけれど、今の千佳はただ単純に彼に怯えるだけでもいられないのも事実だった。
「玉狛第二の雨取隊員だな」
「はい」
ここまで来て、三輪はやっと千佳が間違いなく玉狛の『雨取千佳』であることを確認した。間違いのないことではあったのだけれど、どこか抜けている気がした。
「俺はお前に謝らなければならないことがある」
「え?」
彼の行動と言葉は、どこか大事な部分が抜けていて、そうしてどこか突飛だ、というのがここまで来て千佳が感じたことだった。
「すまなかった」
ほら、と千佳は思う。差し向った彼は、缶コーヒーに目を落としまま、むっつりとした表情のまま、彼女には全くどの部分について言っているのか分からない謝罪を口にした。
「分かりません、三輪先輩」
だから千佳は、怖さも、怯えも押し殺して、声が震えてしまわないように、はっきりと言った。それに三輪は、驚いたように顔を上げた。今までの無表情に近かった顔に驚きが広がって、初めて見る表情のようだと千佳は思った。
何について謝っているのだろう、と思った。
あの日遊真を襲ったことだとしたら、それは自分ではなく彼に言うべきだと思った。
そう思ったら、千佳に心当たりはなくて、心当たりがないならきちんと聞かなければ分からない。千佳には心を読むなんてそんなサイドエフェクトはないのだから。
「あの、それだったらむしろわたしが三輪先輩にお礼を言わなければならないと思うんです」
「……なぜ」
驚いた表情に、僅か訝しむような、それでいて少しばかり棘のある表情をした三輪に、千佳は一瞬息を呑む。だけれど、それから一息に言ってしまった。
「あの、修くんとわたしを助けてくれて、ありがとうございました!」
そう言って頭を思い切り下げれば、彼の顔は見えなくなってしまう。苦虫を噛み潰したような、そうでありながら途轍もなく苦しげな彼の顔など、見えなくなってしまう。
「俺、は」
千佳は、大規模侵攻ののちに自分と修を狙っていた、ひいては大規模侵攻の要だった人型近界民を退けたのが三輪だったことを知った。だから、自分が今ここにいて、修が重傷を負いながらも生きていたのが彼のおかげだと思っている。それは間違いのないことだ。だけれどその千佳の言葉は、同時に三輪自身にとっては受け容れ難いことだった。
絞り出すように言われた言葉に、千佳が顔を上げればそこには唇をぎりりと噛む三輪がいた。怖い、と思った。思ったが、それが怒りなのか悲しみなのか、なぜだか判然としない。
「あ…の…」
言い差した千佳を遮って、彼はスラックスのポケットに手を入れる。そうして取り出した小さな黒い物体を千佳に差し出した。
「それ…?」
「お前たちの仲間だ」
「あ……」
千佳にはその物体に見覚えがあって、眦に涙が溜まっていく。それはあの日失ったレプリカの残骸だった。
「あの時、俺は何も知らなかった」
「え?」
「三雲を蹴り飛ばした。縋るなと言った。三雲は、俺にお前を助けてくれと言ったんだ」
目に涙を溜めている千佳に、三輪は訥々と言った。
何も知らなかった。
修が千佳を助けてくれと言ったことが、弱さゆえに姉を救えなかったかつての自分に重なって、苛立ちしか覚えられなかった。
だが、苛立ちは即ちそのまま自分に跳ね返るのだ。
あの時迅に縋ろうとした己はでは間違いだったのか。
弱さは、間違いなのか。
それから彼はレプリカに出会って、レプリカを失って、そうしてその戦いが終わってそれから、なぜ修が千佳を守ろうとしたのかを知った。
「馬鹿だ、俺は」
それはもう、千佳に聞かせる言葉ではなくて、彼自身の中で反芻される言葉だった。
だけれど千佳は、それを聞いていた。
「家族を守ろうとするのは、家族に会いたいと思うのは、何一つ間違いじゃないと知っているのに」
馬鹿だ、と彼はもう一度繰り返した。
あの日の自分が間違いだったと思いたくないと、この少女を見ていると思う。
あの日、愛する家族を助けてくれと他人に縋った己が間違いだったと思いたくない。
千佳が、修が、家族に会いたいと願うことを、家族同然の人を守ってほしいと縋ることを、間違いだと否定したくない。否定できない。
「俺、は…!」
レプリカを持つ手と逆の手で顔を覆った三輪を見て、それから千佳はゆっくりとレプリカを持つ彼の手を小さな自分の手で包んだ。
小さなレプリカの冷たいそれが、人二人分の手の体温で温まればいいのに、と思いながら。
「三輪先輩、やっぱりありがとうございます」
自らの手とレプリカを包む彼女の小さな手に唖然としたような彼に、千佳は言った。
「ずっと持っていていてくれたんですね、わたしたちの大事な家族を」
千佳は泣き出しそうな顔で微笑んだ。
レプリカは生きていると栞は言った。A級に上がって探しに行こうと、遊真と修と約束した。それは、自らの兄と友達を探すことと何一つ変わりのない使命になった。
それは、彼が持っていてくれたそれが、今ではもう、今でもずっと、彼女の家族同然の存在だったからだった。
微笑んだ千佳の顔を見つめて、それから三輪は彼女が握る手と逆の手で、もう一度顔を覆った。涙がその手を伝う。誰かのために泣いているんだと思った。だけれど自分のために泣いているんだと思った。
目の前の少女のために、彼女の失った家族のために、或いは、自分自身の過去のために、自分自身を慰めるために。
両天秤の彼の感情を、だけれど目の前の少女は何も言わずに微笑んだまま見詰めている。
泣き出しそうに微笑みながら、見詰めている。
少女の手から伝わる体温に、彼はもう少しだけ泣いていたいと思った。
両天秤の功罪
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2015/4/22