春望


 今分かるのは、俺がどうしようもない卑怯者だ、ということだけだった。
 ごめんなさい、死なないで、と腕の中で泣きながら繰り返す宇佐美の体が柔らかくて、小さくて、温かくて、どうしようもないほど愛おしくて、愛おしいのに、彼女のその気持ちを利用するだけ利用して、微温湯のような関係で満足していた俺は、本当にどうしようもない卑怯者だ。
 今日はいつもより帰るのが遅くなった。
 大学から本部に直行して、書類をいくつか捌いて待っていた。
 誰を、というのも馬鹿馬鹿しいが、宇佐美が本部に来るのを待っていた。今日はホワイトデーで、隊の仕事は非番だったが、待っていれば来ると思っていた。
 待っていれば。
 そんなひどく不安定で、ひどく曖昧な感覚が、だけれど彼女が玉狛支部に転属してからの俺たち二人の関係の全てだった。
 バレンタインデーにも彼女はわざわざ本部に来て、歌川にも菊地原にも三上にも米屋にもチョコレートを配っていた。『風間さんにもありますよ!』と渡されたそれだけブランドが違って、菊地原が口を尖らせて宇佐美にそれを指摘した時、俺が感じたのはひどく幼い優越感だった。
 『風間さんは大人だから』と苦しくも聞こえる言い訳で彼の舌鋒をかわしている宇佐美に感じたのは、自分は特別なのだろうという幼い優越感。
 それくらいで十分だった。昔のように話をして、昔のように気兼ねなく会って、そうしてそれに少しの特別な感情が加われば、俺は優越感を抱けるほどに十分だった。微温湯のような関係だった。それで十分だと思おうとしていた。
 本当は、宇佐美が隊を離れてから自分の中に渦巻く彼女への感情はそんなに綺麗で穏やかなものではないと知っていた。
 気が付いてしまった。
 彼女を、仲間でもなく、部下でもなく、組織の人間でもなく、一人の女性として見て、欲している自分に気が付いてしまった。


『風間さん、玉狛でね、レイジさんのレパートリーがね』


 他愛もない話をラウンジでする彼女が髪をかき上げた時に、ふと彼女の方から甘く女性らしい香りがする時に、柔らかな手つきが、綺麗な瞳が、感覚の裡に入るたびに、己の中に渦巻くどす黒い感情に、気が付いてしまった。


 彼女を滅茶苦茶に乱して、自分の物にしてしまいたい。
 彼女をドロドロに甘やかして、自分無しではいられなくしてしまいたい。


 気が付いてしまった感情は、だけれど、絶対に彼女が望む感情ではないと知っていた。
 宇佐美は確かに、上司としての俺ではなくて、ただ単に俺が好きなのだろうと薄々勘付いていた。だけれど同じ一対一の‘好き’でも、俺たち二人の感情にはあまりにも隔たりがありすぎた。
 俺の好きはあんなに柔らかな空間を求める‘好き’じゃない。
 これが男と女の違いなのか、大人と子供の違いなのか、経験者とそうでないのとの違いなのか、多分全部だ、と思いながら、俺はだったら気付かなかったことにしようと思った。
 ひどい感情も、独占欲も、俺が彼女を好きだということも、彼女が俺を好きだということも、全て気が付かなかったことにした。
 そうして、彼女が望む柔らかな空間を作ることにした。良い大人で、良い上司で、良い理解者であろうとした。
 そうしたら多分宇佐美は満足して、きっと逃げ出すこともなく、ずっとこの感情を続けていけるのではないかと思った。





「来ないか」

 正直に言えばどうでもいい書類をひらつかせて、俺は一人のデスクでぼんやりつぶやいた。
 大規模侵攻の残務処理の書類など、実働部隊の人間にとっては多分どうでもいい書類だろうと思う。
 大義の一つや二つはある。市民を守るために存在している組織だとも知っている。
 だけれど、実際に戦う人間にとっての事実は、自分が死ななかった、という点に尽きるだろうと思うからだ。
 冷血漢と思われようが、正義の味方に相応しくないと言われようが、‘生き残ること’は絶対条件だ。この先、近界民の侵攻がないなんていう楽観的な視座に立てるほど、俺たちは馬鹿じゃない。この先、だけではない。その戦いの中ですら、十分後に自分がその戦場にも線上にも立っている保証はどこにもない。戦闘員は常に流動的でなければ、組織の戦闘は維持できないだろうと思う。
 勝とうとしなければ勝てない戦いがある一方で、負けないように戦わなければならない戦いもある。
 負けないようにカードを切れば、‘生き残った’というのは一番いい選択をしたと言えるだろう。論理的に考えれば‘負けないように’選択し続ければ選択の優位性上、最後には‘勝つ’以外の選択肢は残らない。
 事実、全体の侵攻には勝っているのに残務処理、というのは思った以上に馬鹿げている。
 馬鹿げている、というか。それ以上に腹立たしいのは残務に含まれるクレームを付けたその誰かが隊員の合同葬儀に出たなどと想像することなど難しすぎる妄想だし、況やその死を悼んでいるなどと思えもしないという現実だった。

「こっちは命を懸けている、などと言う気はないがな」

 放り投げた書類に羅列してある言葉を嘲笑うように、かさりと床に落ちた紙が小さな音を立てた。

「来ない」

 こういう、ひどくどうでもいいのに腹立たしいことが起こった日には、なんだっていいから理由を付けて宇佐美に会いたいと思った。そうじゃなくても、今日はホワイトデーで、多分待っていれば『お返し頂戴』なんて言って来るのではないかと、ぼんやり、それでも確かに期待していたのは間違いない。そうでなければ、大した仕事もないのにこんなところにまで出てきはしなかった。

「本当に、俺は酷い男だ」

 そんな時に限って、都合よく彼女の笑顔を求めるなんて。





 カバンの中の小箱を持て余すようにとぼとぼと言うに相応しい動作でアパートに帰れば、何故か自分の部屋の玄関付近に人が座っているのが見えた。まだ早い時間だというのに、酔っぱらいの同僚か同級生だとすれば、今すぐ階段から突き落として排除しようと決意して、カンカンと安っぽい音を立てて階段を上る。ついでに言えば、それが同僚でも同級生でもなかった場合、素直に警察に通報である。近界民でもないただの人間相手の治外法権に手を出す気は更々ない。

「っ…!?」

 階段を上り切った時、部屋の玄関の前にうずくまっていたのは、同僚でも同級生でもなかった。だが、その相手のことで俺が警察の番号をダイヤルすることはあり得なかった。

「何をやっている!」

 思わず強い言葉が出た。ぼんやりした視線が俺を見上げる。

「かざまさん、だ」

 言葉を紡いだ宇佐美の、そんな顔が見たかった訳じゃないと、頭のどこかで俺の声が言った。





 自分が如何に卑怯な男か、噛みしめながら抱きしめた彼女の体は、やっぱり温かくて、柔らかくて、そうして自分と大して背格好が変わらないはずなのに、ひどく小さく思えた。

「死なないで」

 怯えきったように、恐れきったように、喉を震わせ、体を震わせて、宇佐美は俺の肩口に言葉を落とし続けた。

「置いていかないで」

 応えの代わりに彼女の背中を強く抱きしめる。

「ごめんなさい。ちっとも、いい子じゃなくて」

 謝ることはないと言う代わりに、彼女の背中を、頭を、何度も撫でる。
 震える宇佐美の体に、零れる宇佐美の嗚咽に、彼女は本当に怖かったのだ、と、その時になって今更俺はやっと気が付けた。
 そんな俺が、彼女を抱きしめることは許されるのだろうか、と思いながら、それでも、俺はもう宇佐美を離したくない。どす黒い感情とか、渦巻く感情とか、そういうことではなくて、もう離してはいけないと思った。ただ、愛している女をこんなふうに泣かせるまで俺のエゴで微温湯のような関係を強要して、彼女の心を縛り付けて、そうして、彼女が一番恐れた部分を掬い上げられなかったとしたら、それは全て俺の責だ。
 責だし、同時に、この愛している宇佐美栞という女をこんなふうに泣かせたくはなかった。

「たくさん、犠牲が出たな」
「うっ、うあああ…!」

 抱きしめてから初めて声を掛けたら、彼女は呻くように叫び泣いた。

「俺もお前も、一歩間違えたら死んでいた」

 それに宇佐美は、俺の肩口でこくこくと涙をシャツに押し付けるように頷きながら、シャツの肩を涙で濡らした。その、温かな雫がひどく愛おしくて、哀しくて、そうして俺の方が救われた気がした。

「俺も悲しかった。合同葬儀も、行方不明で攫われた訓練生も、誰もかれも助けられなかった自分が不甲斐なかった」

 本心を言って、彼女を抱きしめる力を強める。ぽっきり折れてしまったらどうしようか、なんてどうでもいいことが一瞬頭を過ったけれど、離したくなかった。

「宇佐美は、怖かったんだな」
「かざまさん、かざまさん、かざまさん!」

 全部平仮名に聞こえるたどたどしい口調で俺を呼んで、宇佐美は顔を上げた。いつもの太陽みたいな笑顔はそこにはない。涙で濡れたその顔に、だけれど掬い上げなければと思った。

「俺は絶対に死なない。お前のことも俺が絶対に死なせない」

 そう言ったら、宇佐美は目を見開いた。
 その、宇佐美の涙で濡れた頬に口付ける。

「宇佐美、好きだ」
「風間、さん?」
「俺のエゴで、微温湯みたいな関係を続けたのが、きっとお前を傷付けてきた。たくさん犠牲が出たのに、俺は、お前はずっと笑っていてくれと思った。死なないでと言われて、置いていかないでと言われて、俺はやっと自分がどれだけ卑怯なことをしてきたか気が付いた」

 そう、懺悔するように言ったら、宇佐美はぶんぶんと首を横に振った。

「ちが、う!アタシが卑怯なの!ずっと風間さんのこと好きだったのに、それはダメって思って、話してくれるだけでいいって思って、それなのに部屋まで押しかけて、上司を頼ってるとも恋してるとも取れるとこで、ばっかり、風間さん、に、いろんなこと、言って!」

 そう言って、いやいやとするように涙に濡れた顔を振り続ける彼女の頬を両手で包む。驚いたように彼女の動きが止まった。

「宇佐美は卑怯なんかじゃない。俺は、本当はお前のことを滅茶苦茶に抱いて俺の物にしてしまいたくて、ドロドロに甘やかして俺無しじゃいられなくしたくて、そんなどす黒い感情をお前に向けたら嫌われると思ったから、俺の気持ちも、お前の気持ちも気が付かなかったことにしたんだ。そうして、微温湯みたいな関係でいられたら、きっとお前も納得するだろうし、俺も嫌われないで済む、なんて打算でお前を傷付けた。傷付け続けた。宇佐美が誰かが死ぬのが怖いのを知っていたのに、俺だって怖いのに、侵攻で犠牲が出て、俺もお前も哀しかったのに、お前は笑っているんじゃないかと思った。笑うお前が好きだったから。だけどな、そんなのあまりにも酷い俺のエゴだ」

 そう言って、俺は両手で包んだ頬によってこちらを涙に濡れた目で真っ直ぐ見詰めている宇佐美に口付けた。

「あ…」

 突然のことに軽く開いていた宇佐美の口にちょっとだけ舌を入れて、歯列をなぞる。くすぐったそうな息が彼女の鼻から抜けた。
 すぐに舌を抜いて、今度は啄むように彼女の唇に唇を重ねる。

「好きだ、宇佐美」
「風間さん、アタシ」
「怖かったな。悲しかったな。もうそんな思い、絶対俺がさせない。だから」

 そう言って俺は彼女を抱きしめる。今度こそ肩口の押し付けるようなことはせず、正面から真っ直ぐ宇佐美を見つめられるように抱きしめる。

「だから、これからも好きでいても、愛していても、いいか」

 真っ直ぐに彼女を見つめて言ったら、彼女はおずおずと俺の背中に腕を回して、抱きしめ返してくれた。甘えているようにも感じられた。

「アタシも、ね、風間さんが好き、です」
「ありがとう」
「風間さんのこと、愛してるよ」
「ああ」

 宇佐美の言葉に、彼女の全てを受け止めて、彼女の全てを掬い上げて、彼女の全てを愛そうと思った。やっと、そう思えた。
 仲間と恋人は両立しないかもしれない。だけれど、俺たちはきっとその両方を持っていける。そう、思えた。

「今日はホワイトデーだな」

 唐突に話題を変えた俺に、宇佐美がきょとんとこちらを見た。その顔がなんだか可笑しかった。
 先ほどベッドの横に放り投げたカバンを探る。中に入っていた小箱を取り出して、俺はそれをベッドサイドボードに置いた。

「それ?」
「もう寝ろ。明日学校休みだろう。このままだと風邪を引く」

 質問に答えず言ったら、彼女はうつらうつらとしだした。ずっと寒い玄関口で座っていたのだ。疲れているだろうし、眠くなってもおかしくないだろう。
 宇佐美をくるんでいたコートとマフラーを外してやって、抱きしめていたそこから彼女を抱え上げて、座っていたベッドに横たえる。毛布を掛けてやったら、宇佐美は俺のシャツの裾をくいっと引いた。

「一緒にいてくれませんか」

 その眠そうな、へにゃりとした顔に、俺は笑って言った。

「お前が眠るまで、横にいてやる」

 安心したように笑った彼女を見て、俺は嬉しくなる。やっと、ずっと見たかった宇佐美の幸せな笑顔が見られたから。
 毛布をちょいちょいとめくった宇佐美に苦笑して、彼女の隣に横になる。男一人が寝るには十分とはいえ、狭いベッドだ。俺は宇佐美を抱き枕のようにした。そうしたら、宇佐美は猫が甘えるみたいに俺の胸元に頭を押し付けた。

「かざまさんの、しんぞうのおと、あんしんする」

 眠気からだろう。たどたどしい口調で言ったところで、彼女の意識は途絶えた。
 一緒のベッドにいるというのに、どうにも満たされて、滅茶苦茶にしてしまいたいとか、そういう感情は鳴りを潜め、それがどうしてか可笑しかった。





 俺にすり寄って、抱き付いて寝ている宇佐美を起こさないように、俺は慎重にサイドボードの小箱に手を伸ばした。





「…んー」
「起きたか」
「あ、風間さん!アタシあのあと寝ちゃったんだよね…って!ごめんなさい、なんでアタシ風間さんホールドしてるの!」
「一晩中離さなかったからな。まあ、おかげでお前の胸の感触を俺も一晩中十分楽しめたぞ」
「風間さんのエッチ!!!」

 叫んで俺からバッと離れた宇佐美に、俺はベッドから立ち上がる。時刻は日曜の昼前。

「もう昼前だ。俺も大学休みで非番だし、朝飯と昼飯一緒でいいな」

 ふて腐れたようにベッドで俺に背を向けている彼女は、だけれどこくこくとうなずいた。

 それを確認して、俺はキッチンに向かう。冷蔵庫に二人分の昼食の食材があるか確認して、それから牛乳パックを取り出し、コポコポと来客用のマグカップに牛乳を注ぐ。それをレンジに入れてから、これからは宇佐美専用のカップも買わないといけないな、と思った。
 チンッとレンジが加熱終了を知らせる音を立てたところで、宇佐美がベッドでもぞもぞと動く音が聞こえた。

「こら、寒いから毛布かぶってろ。エアコンのタイマー切れたから、今付ける」
「はあい」

 そう言って、マグカップ片手にエアコンを付ける。俺の言葉に従って毛布をかぶった宇佐美に、ホットミルクを手渡し、隣に座る。

「冷める前に飲め」
「ありがとうございます。体あったまりそう」
「ああ」

 そのマグカップを両手で包むように持った時に、カチッと陶器のカップに金属が当たる音がして、宇佐美はちょっと首をかしげた。俺は込み上げてくる幸せな笑いをこらえるので精一杯だった。何度持ちなおしてもカチッカチッと鳴るそれに、宇佐美は初めてその金属の正体に気が付いた。

「これ…なに?」

 それは、彼女が寝ている間に小箱から取り出して彼女の左手の薬指に嵌めたプラチナのリングだった。

「ホワイトデーのお返しだ」
「え、と…その…銀じゃなくて…プラチナだよね、これ?」
「俺は案外稼いでいるからな」
「そういうことじゃなくて!プラチナリング薬指に嵌めるって、それって、風間さん分かっててやってるの!?」
「逃がす気はないぞ。仮に微温湯の関係を続けても逃がす気はなかったからな」

 それに宇佐美は顔を真っ赤にして俺から目をそらすとごくごくとホットミルクを飲んだ。やけっぱちという言葉が似合いそうだ。

「逃げませんよ、アタシ、風間さん大好きだもん。愛してるもん」

 そう言った彼女の額に口付ける。

「それを聞いて安心した。これからとことん付き合わせるから覚悟しろよ」

 そう言ったら、彼女の顔はますます赤くなって、耳まで真っ赤にした彼女は俺に寄り掛かって放言を言ってくれた。

「風間さんのエッチ、スケベ、スケコマシ!」
「なんとでも」


 三月、春と言うにはまだ寒い。だけれど―――
 三月、だけれど俺たちは春を望んでいて、その春は、今ここで手に入った。
 望みが叶ったその日は、俺たちの大事な春の始まりの日になった。


三月、春望




2014/11