夜の帳
「痛く、しないでね?」
「保証はできないが、善処する」
涙目の宇佐美に風間が言ったそれは、最大限の言葉だった。
男の風間には、初めてこういうことをする宇佐美の痛みを知識として知っていても実質としては分からない。彼は実質として感じられないものを安請け合い出来るほど軽佻な男ではなかった。
「紛れるなら何でもしろ。どこを噛んでもいいし、どこに爪を立ててもいい」
「そんなこと、したら、風間さん、痛い、よ?」
「お前が痛がる方が俺は嫌だ」
もう息が上がっている宇佐美が切れ切れに言ったが、風間はそんなことを気にする余裕がまだあるのだな、というちょっとした加虐心と、それ以上に初めてなのにこちらに気を遣おうとする彼女らしさに、ふと笑んだ。
「で、も」
「もうしゃべるな。舌を噛むぞ。力を抜いてしっかり息を吐け」
彼がそう言ったから彼女は口を閉ざして唇の間から長く息を吐いた。その次の瞬間に、未知の痛みに襲われた宇佐美の視界は白と黄色が明滅するようにちかちかいって、それから残っていた思考ごと吹っ飛んだ。
*
「痛かったな」
ぽんぽんとベッドでぐったりしている宇佐美の頭を撫でたら、まだぬぐい切れていない涙でぐしゃぐしゃの顔の彼女は呟くように言った。
「痛くしないでって言ったのに。風間さんのいじわる」
「悪い。意地悪をしたつもりはないんだがな」
そう言って困ったように笑った彼に、宇佐美はぷーっと頬を膨らませる。その頬に涙の跡は残っているけれど、もう泣いてはいない彼女に、風間は安堵と充足感に包まれて、その涙の跡を丁寧にぬぐう。
風間は今日、初めて宇佐美を抱いた。抱くという表現は一方的な気もして少し気が引ける、というのが彼の本音だが、彼女にとっては本当に初めてのことだったし、経験者でずっと大人の彼が全面的にリードするという形を取ったのだから、抱いたという表現も不適切ではないだろう。
「あのな、答えが分かり切っている質問は質問にならないと分かっているが」
「なんですか?」
「大丈夫か?」
「えと…大丈夫です」
「虚勢を張るな」
こつんと仰向けになっている宇佐美の額を小突いたら、痛みが引いてきたからか彼女はにへらっと幸せそうに笑った。
「ほんとに大丈夫だってば。痛かったけど、だって、やっと風間さんとできたんだもん」
「それは俺もだ」
「アタシのせいで我慢させてたから」
「お前のせいじゃない」
そう言って風間はシーツにくるまる宇佐美の額に口付けた。
宇佐美のせいではないし、風間のせいでもない。
彼女が子供だったからでも、彼が大人だったからでもない。
付き合い始めてからも、恋人同士というには身体的接触を素通りしてきた、というのが二人に対しては正しい見方だろう。避けてきた、ではない。素通りだ。避けるまでもなく、敢えてそちらに目を向けることすらなかった。
キスの先を考えたことがなかった。或は、口付けすら、考えたことがなかった。
それは過分に堅牢な牙城だった。
触れたら壊れてしまいそうだ、というのはこの二人の場合比喩ではない。触れたら、先に進んだら、今のままではいられなくなる、過去の上司と部下という関係が思考の一部でいつもそう言っていた。それは、恋人同士になるという決断の時にすら付き纏った感情で、だから、触れる、というのはより大きな行動だった。
『泊まりに来ないか』
だから、自分の口から誘い文句が軽い口調で落ちたことが、風間には驚きだったし、同時にその堅牢な牙城がじわじわと自分の中では崩れていたことを知った。
少なくとも彼にとっては、元上司と部下とかそういう体裁めいたことが崩れるよりも、ただ彼女に触れたいという欲求の方が大きくなっていた。
『ごめん、ね?』
『なぜ謝る。謝罪するということはこの提案は却下か』
『長いこと待たせて、ごめんなさい』
的外れで矢継早な風間の応答に対してうつむき加減になってもう一度謝った宇佐美が、どうしようもなく愛おしくて、彼はやっと、彼女の中にも自分と同じような感情があるのだと知ることが出来た。
*
「疲れているだろう。少し寝るか」
「んと…疲れてるけど、ちょっと眠れそうにないです」
疲れてはいるが、痛みやら初めて続きの体験やらで脳が覚醒状態なのだろう。生理的な興奮ではなくて、単純に目が冴えてしまっている状態の宇佐美に、風間は一つうなずいてシーツで彼女をくるむと抱き上げた。
「わっ、ちょっと」
「あまり暴れるな。また痛むぞ」
急に宙に浮くようになって声を上げた彼女に動かないよう釘を刺して、それから風間はベッドから落ちていた血を吸ったバスタオルを片手でひっつかむ。その濃い紅色に、宇佐美の顔がかぁっと赤くなって、それからいわゆるお姫様抱っこをされている彼女は風間の首にしがみついた。
「ご、ごめんなさい!」
「謝る必要性が感じられない。お前は初めてだったんだ。こんなの当たり前だろう?」
「だ、だって」
申し訳なさそうにしがみついた首許でうつむいたら、視界に入るのは、その彼の首に付いたお世辞にも可愛くなんかない三本の赤い線。最中に爪でひっかいたのだ、と気が付いて宇佐美は余計申し訳なくなって、そうして思い出したら余計に恥ずかしくて、今度は彼の肩口に顔をうずめようとした。しかしその肩に見えるのは自分の歯型で、本当にもう、彼のどこを見ても恥ずかしさしか呼び起されないそれに、彼女はぎゅっと目をつぶった。
そのくるくる変わる宇佐美の表情を間近に見ていた風間は、可笑しくて、嬉しくて、幸せで、笑ってしまう。
「動くぞ。ちゃんとつかまってろ」
目をつぶってうつむいたままこくこくとうなずいた宇佐美に、彼は浴室の方に向かって歩き出した。
*
脱衣所にある洗濯機に、宇佐美を抱えたまま器用にポイとバスタオルを放り入れて、彼はやっぱり器用につけ置き洗いのボタンを押す。洗剤は「最新なの!こんなちっちゃいのに洗浄力すごいって妹が言ってたんですよ!」と言って宇佐美が買ってきたキューブタイプの物だったからこれまた彼女を抱えたままでも簡単に洗濯槽に投げ入れられた。下だけ穿いている自分のジーンズも放り込むか、と思ったがさすがに彼女を抱えた状態で脱ぐのは無理だ。ザバザバと洗濯槽に水が入り始めたのを確認してパチンと洗濯機のふたを閉めたところで、まだ目をつぶっている彼女に風間は声を掛けた。
「寒くないか」
「ん」
返ってきた短い声は肯定で、だから彼は「ならいい」と短く返して蛇腹折の浴室の扉を開ける。
先に風呂のスイッチは入れてあったから湯船には湯が張ってあるのだが、とりあえずシーツにくるんだままの宇佐美をバスマットに着地させる。
「冷たくないか」
「大丈夫です」
返ってきた言葉はバスマットの上だし嘘ではないだろう。それに風間はザーッとシャワーを出して手で温度を確認しながらそれを浴室の床とバスマットに撒いた。湯気が上がって、浴室の温度が上がる。
「ストップ!透けちゃう!」
無造作に撒かれた湯は、宇佐美をくるんでいたシーツにもかかって、彼女はじたばたともがいた。腰がどうしてか重く、上手く動かなくて手足をばたつかせるくらいだったそれでは風間の動きなんて止められやしないのだけれど。
「今更だな」
彼女のその抗議をたった一言で制した彼は、今度こそシーツにくるまれた彼女に温かいシャワーを掛ける。
「きゃっ!」
「別に冷たくないだろう」
「そういう問題じゃないです!」
シーツにくるまれていて分からなかったが、シーツが濡れたことで太ももを伝っていた鮮血がじわりと白いそれに滲んで、宇佐美は再び涙目になる。
「泣くな」
「だってぇ」
まるで彼が途轍もなく悪いことをしているような声音の宇佐美に、まるで自分が本当に途轍もなく悪いことをしていて、そういう加虐趣味が自分にあるような気さえして、風間はその思考を振り払うようにシーツを取っ払う。
「やだぁ」
やはり涙声で言われて、これじゃあ本当に自分が加虐趣味のようだ、と再度思いながらも、なるべくそちらの方面に自身が振れてしまわないように、となけなしの理性でもって自分の思考を制御して、それからさらに自分の思考を制御するために努めて冷静に彼は言った。
「外さないと流せない」
「でも」
さっきまで二人して裸でベッドにいたというのに、未だ羞恥に支配されている宇佐美に、この思考の制御は無理そうだ、と風間は諦めることにした。この際、自分の思考回路がそちらの方面に振れてしまっても構わない。これから先、宇佐美以外とこんなことをする気なんて更々ないのだから、なんて、彼女が聞いたら卒倒しそうなことを考えながら、それでも今それをする気はないから、彼は丁寧に彼女の体を流す。
だんだん羞恥が収まったのか、後ろから抱えながら彼女の体を流す彼に背中を預けた宇佐美がふふふと笑った。羞恥が収まったかと思ったら、今度は何かほわほわした感覚が収まらないようだ。
「幸せだなあ」
「さっきまで恥ずかしがっていたくせに、ずいぶん余裕だな」
「痛くて、だけどそれが風間さんと、一つになっちゃうみたいだった」
宇佐美が最中に感じたのは自分と彼を隔てる境界線を塗りつぶして、掻き消してしまうような痛みだった。
だから嬉しかったんだ、と思いながらすり寄るみたいに彼の胸板に額を付けた宇佐美に、こら、と一言言って、彼は汗で胸元に張り付いてしまっていた長く艶のある黒髪もシャワーと手櫛で丁寧に流す。
「終わったぞ」
そう言って彼は当たり前だが濡れて重くなったジーンズを今度こそ脱ぎ捨てると、彼女を抱え直してそのまま湯船に運ぶと二人まとめる形でとぷんと湯に浸かった。抱き抱えられた状態で浸かった湯船はちょうどいい温かさで、彼女のほわほわした感覚はどんどん大きくなる。
「えへへ」
「楽しそうだな」
「風間さんは楽しくないの?」
「楽しいぞ。というか自分は相当の幸せ者だと思っている」
「うん。アタシもすんごい幸せ者ですね」
結っていないから湯船に広がった彼女の長い髪を一房、風間は指で掬った。
その指に宇佐美は自分の指を絡める。二人の指に髪が絡まるのなんてどうだってよかった。
「さっきも言ったけど、一つになっちゃうみたいで、幸せだったんです」
「ああ」
「アタシと風間さんはね、全然違うの。違う人間だし、男と女だし、歳も違うし、考えてることも、今までの人生も、何もかも全部全部違うの。だけどあの時ね、すごく痛かったけどね、その違うとことか、境界線とか、隔たりとか、そういうものが全部が融けちゃって、混じっちゃって、アタシたち一つになっちゃうみたいで、そう思ったら自分でもびっくりするくらい嬉しかった」
そう言って宇佐美は、もう一度えへへと気の抜けたような声で笑った。
「月並みですね」
「月並みで十分だ。俺もそうだったからな」
一つになってしまいそうだ、と彼も思った。痛がっている彼女が首筋に爪を立て、ひりりとした痛みを感じた時、痛みを噛み殺してでも自分を受け容れようと彼女が肩口に歯を立て、緩い痛みが走った時、ああ、思考も、体も、全てが融けて一つになってしまいそうだ、と思った。
小説に出てくる「夜に一つになる」なんて月並みすぎる表現だと思っていたし、今までそういったことをした女性の誰にもそんなこと感じなくて、だからそんなのは比喩表現の幅に過ぎないと思っていたが、今日初めて、宇佐美栞という女性にそのことを感じた。
初めて感じて、本当に幸せだと思った。
「宇佐美」
「なんですか?」
「ありがとう」
そう言って抱える彼女の項を吸う。赤い花が咲いたら、彼女がくすぐったそうに身をよじって、湯船のみなもが揺れた。
*
「お、風間。猫にでも引っかかれたか」
首許の赤い線を指差してにやにやと笑った諏訪に、風間は不敵に笑んで言った。
「まあな」
*
「宇佐美、ずいぶん季節外れでしかもでかい蚊に刺されたみたいだね」
髪を結っているから見える項の赤い跡を指差して笑った迅に、宇佐美は真っ赤になって言った。
「そーですよ!」
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2014/11/29