偶像


 彼を初めて見たのは、懺罪宮へと続く回廊でのことだったと思う。
 旅禍、戦時特例、連れ出された朽木、抜刀した彼女の兄―そして、そして。

 そして俺は、彼を見た。

「思い出に、囚われるのはよくないな、海燕」

 正に夢物語のようだった。『彼』が、彼女の危機を救わんと、今一度、あらゆる垣根を越えてやってきたのだと、そう思った。

 その姿形が、振る舞いが、そして正義が

 時を超えてもなお、彼のそれは深く己の中に根付いていた。
 だから、彼を見た時思った。ああ、きっと、彼が助けに来てくれたのだと。規範を、掟を、あらゆるものをかなぐり捨てて。
 そんな、空虚な期待をした。重なった影に思ったそれは、きっと酷く愚かなことだったのだと今なら分かる。

 助けに来た、なんて、それは途方もないことだ。

 一介の死神を助けに、一介の、昨日今日力を手にした人間が。

 それは世界を敵に回すことと何ら変わりがない。だけれど、彼が双極の丘で、彼女の兄と対峙したのを感じながら、俺は何故か大丈夫だと思った。彼なら勝てると、そう、思った。根拠のない自信だった。

「酷く―」
「……?」
「酷く愚かしいと思わないか。君に期待したなんて」

 言葉は蒼天に吸われた。先ほどから、出てくるのは眼前の彼を無視した独り言ばかりだ。

 だけれど、だけれど。

 期待、した。彼は、彼女を助けてくれて、そして、『彼』の空白を埋めてくれるのではないか、と。
 果たして彼は、戦いに勝ち、彼女の命は守られた。
 ―どんな思いで。どんな思いで―
 彼女が選んだのが、たまたま、彼だった、というだけなのだ。生きることに屈託を抱えた彼女が選んだのが、眼前の少年だったことに、俺はどうしようもない感覚を覚える。選んだ、と言っても、限定された瞬間だっただろうが、朽木が選んだのは彼だった。もし、と思う。彼以外の誰かを選んだとしたら、彼女はその場で死んでいたかもしれない。運よく、死神の力を受け取っても、彼女を助けに来ただろうか、と思う。
 そうして俺は、可笑しな理論を己に振りかざす。同じだからだ、と。彼がこうして朽木を救ったのは、彼と海燕が一致するからだ、と。分かっている。そんなことはありえない。彼は海燕ではなくて、海燕は彼ではない。だが、そう思うことが己を守る盾になるとでも言うように。

「恐かったのかもしれない。……君のことが」

 俺はちょっとだけ笑って言った。彼は案の定困ったように視線を投げる。
 期待した。期待したとも。彼は海燕と一致するのだから、この理不尽を正さないはずがない、ということを、当然の如く俺は考えた―考える、振りをした。

「わかっていたんだ。解って、ね」

 ふと空気を吸い込む。空は蒼かった。

「君は海燕じゃない」

 口に出したら、その言葉は思うよりずっと単純に響いた。彼は何も言わなかった。
 俺は恐怖した。期待よりも、安堵よりも、恐怖した。

「なんと言えばいいのだろう。海燕ではなくて、誰が朽木を救うというのだろうか、というようなね。とても狭量で、馬鹿馬鹿しい恐怖だよ」

 彼女の中の闇を、救えるとしたら、それは多分『彼』だけだ、と思ってきた。例えば己が、どれほど手を伸ばしても、深淵の彼女にそれは届かないのだと悟っていた。届くとすれば、彼女を深淵に突き落とした『彼』だけだ、と。
 だから、この少年が、彼女の深淵に触れたのだとは思わなかった。事実、触れていないのだろう。

「こんなこと、自分の部下なのに言うのは間違っていると知ってる。だけどね、朽木は多分、死んでもいい、と思っていたはずなんだ」
「……」

 そう言うと、彼は僅かに目を見開いて、それから俯いた。

「死んでもいい、死ぬべきだ。朽木の中に、そういう感情がきっとあったのを、俺は知っている」

 逆に言えば、その程度のことしか、眼前の彼よりも深く彼女のことを『知っている』と言える要素がなかった。
 俺が知っていたのは、彼女の「生きたい」という願いではなくて、全く逆の願いだった。
 だが、それすら、この少年は覆してみせた。彼女の中の闇を、少しずつ濾過するように。

「俺は…」

 彼は静かに顔を上げた。その視線は、不思議と、俺の記憶の中の、誰とも重ならなかった。

「俺は、ルキアを助けたことを後悔していない。例えルキアが、死んでもいいと思っていたとしても、ルキアの中に、そういう思いがあったとしても」

 重なりはしない。だけれど、似ている、と思うことは許して欲しかった。迷いのないその視線が似ている、と。

「生きてほしかった」

 きっぱりと、少年は言った。

「そうか」

 生きてほしかった、か。俺だってそうだ、と、負け惜しみを口にすることは出来ない。助けようとしたとも。だけれど、それだけでは足りないのだということを、知っているつもりだった。
 しがらみが、消えた訳ではないのを知っている。彼女はきっと、これからも生きることに痛みを抱えていくだろう。様々な葛藤が、痛みが、彼女を取り巻く。だが、彼女は歩き出す。―かつて、彼と同じで、違う目をした死神が導いたように。

「浮竹隊長!一護!」
「と……朽木か!どうした」
「ルキア?」

 現れたのは、渦中の朽木だった。

「一護、貴様、隊長に失礼などなかっただろうな!?」
「はあっ!?」
「だいたい貴様は目上の方に対する態度が全くなっておらんのだ。兄様だってそれで…」

 がみがみと説教を始めてしまった朽木に、俺は思わず笑い出す。

「失礼も何も、そんなものないさ」
「しかし!」
「だって、そうだろう、一護くん?お茶を飲んでいただけなんだ。失礼があるはずもない」
「え、あ、あの」

 俺は小さく唇に指を当てる。口を噤んだ一護くんに、朽木はやっぱり怒ってしまう。

「一護!」
「茶ァ飲んでただけだ!」

 言い返す姿に、俺はもう一度笑ってしまった。

「仲良しだな」
「い、いえ、失礼しました!」
「いや。朽木もどうだ?おはぎもあるぞ」
「私は…そのっ…」
「おら、浮竹さんもそう言ってんだろ」
「あっ!おいっ!」

 恐縮する朽木の腕をぐいっと引っ張って、一護くんは隣に座らせてしまう。それから彼は、ふと彼女の黒髪に手を伸ばした。

「なんだ!」
「動くなよ、なんかついてる」

 彼が摘まんだのは、白い花弁だった。

「外にいたのか?」
「……」
「ルキア?」

 少しだけ言葉を選ぶように、朽木は僅かに視線を空に投げて、それから微笑む。

「ああ。今日は天気がいいな」

 懐かしむような視線が、感傷と、そうして強さを抱いていることに、俺は気が付いた。多分、彼は気が付いていない。それもまた、いいのだろう。
 その懐古を、或いは懺悔を、そして、歩み出す力強さを携えて、彼女はきっと生きていく。その隣にはきっと、彼がいるのだろう。

 俺も、朽木に倣って空を見上げる。一護くんは、不思議そうに俺と彼女を交互に見遣る。

「眩しいな」

 ふと、空から目を離し、彼と、隣に座る彼女を見つめて言う。すると彼は少し目を見開いて、それから柔らかく微笑んだ。