「阿近、これ頼むぜ」
「おーう」
同僚の言葉に、適当に相槌を打って回ってきた書類に目を通す。大したことはない実験のレポートだった。だが、次第に眉間にシワが寄るのが自分でも分かった。誰が作ったのか、あまりに酷い。このレポートでは、試すまでもなく実験は失敗に終わる。足りない反応式を幾つも書き足していくと、書類の余白は次々と埋まっていった。
苛々と数式を書き込んでいると、文字が掠れだした。ついていない、インク切れだ。
チッと大きく舌打って、その適当なレポートを机に叩きつける。
「一服してくらァ」
罪と罰
煙草を燻らせて、空を見上げる。曇天。低く垂れ込めた雲は、しかし、雨を降らせるようなものではなかった。灰色の空に、吐き出した煙が紛れる。
良く考えれば、一服してくるも何も、技局の建物の中でも、周りなどお構い無しに吸っているのだから、お笑いだ。
「三日か……」
三日、技局の建物から出ていなかった。別段、それは普通のことで(三日で外に出たのは最近では短い方だ)、むしろ、まだ日が沈む前に外に出たのは、かえって珍しいことかもしれない。それくらいには、あのレポートが酷かったということか、それとも何か別に理由があるのか。
かと言って、特段、技局の建物から出た理由を詮索する気にもなれず(そもそも、煙草を吸いに来ただけなのだから)、新しい一本に手を伸ばす。
「今日も元気だ、煙草が美味い、ってか」
最近、煙草の量が増えた。自分でも分かるくらいだから、重症だろう。精神安定剤と言うには毒性が強いし、美味いか不味いかと言われれば、不味いと答えるのが妥当なそれは、しかし、今ではずいぶん口に馴染んで、手放せなくなっていた。
技局に籠もって、実験やら、書類書きやらをしていると、時間の感覚はおろか、日付の感覚までもが失われていく。現に俺は、今日が何月の何日か、良く分かっていない。前に、用事で出たのが三日前だから、と考えるが、その三日前が何日だったか分かっていないのだから意味がない。
それは少し滑稽で、クツリと喉の奥を鳴らして、伝令神機を取り出す。日付を確認することに、大した意味も感じはしないのだが、何故だか、落としていた電源を入れてまで、確認せずにはいられなかった。それは、酷く奇妙な感覚を齎す。
何気なく覗き込んだ画面。そこに示された日付に、片手に挟んだ煙草をぽとりと取り落とす。
「なん、だよ…」
口から零れた言葉は、掠れていた。
俺は、この日を覚えている。
『今日』は、彼女が消えた日だ。
何も言わずに、彼女がいなくなった日。
「…百年…か…」
少しだけ考えて、計算する。ざっと考えて、百年ほどの時が流れたことを、この小さな箱の日付が告げていた。あの日から、百年の月日が流れた。だが、あの日から、彼女の影を感じたことは、一度もない。それが彼女の意思に因るものかどうかは分からない。
俺は、彼女を守れなかった。何から守れなかったのか、未だ以って判らないが、少なくとも、彼女の存在は失われた。
百年の孤独。これは、多分罰だろう。
そう、利己的な心が解釈する。なんて酷い筋書きだろうか。
(罰、だなんて―)
罰、だなんて、何という、驕りだろう。例えば、俺にとってこれが罰だとして、では、実際に失われた彼女に、何の過ちが有ったと言うのだろう。断罪に値する何かが、彼女に有ったと言うのだろうか。
それこそ、逆だ。もし、そういうものがあるとして、罪を断ずる者がいるとして、断罪は己にこそ下されるべきだった―
「それもまた、驕りに過ぎない、か」
それこそ驕りだろう。彼女の代わりに罪を受けるどころか、罪されるべきは己だ、などというのは、思い上がりに過ぎない。
新しい煙草を一本取り出して、火をつける。口には持っていかずに、ただ煙が流れるのを眺めた。
生憎と、捧げる供物も、そして祈る神も、俺は持たなかった。そんなものに縋って、この空白が埋まるなら、俺は喜んで跪こう。
だが、そんな都合のいい存在は、現われはしない。彼女を、或は俺を断じた存在など、この世のどこにも存在しないように。
その空白を、その孤独を、埋められるとすれば、それは彼女しかいなくて、或は俺しかいなくて、それは尽く打ち破られた。彼女の行ないに因って、或は己の行ないに因って。
だから今、俺はこの煙草の煙を捧げる。彼女に、或は己に。
百年の時が流れた。俺は、毎年こうして彼女を思うほど律儀ではなかった。残酷に時は流れ、記憶は何度も改竄され、そうして、何事もなかったかのように、俺は、煙草の煙を眺めて、此処に立つ。
彼女が失ったこの場所に、立つ。
それは同時に、己が失った場所でもある。
失われた彼女に、失った己に、或は、失われた己に、失った彼女に、掛ける言葉があるとすれば、今は一言しか見つからないだろう。
「左様なら…」
別れの言葉は口にしない。口にする遑さえなかった過去も、口にする勇気のない今も。だから、サヨウナラとは言わない。
ジリッと灰が指に迫って、少しだけ熱を感じた。
左様なら
十分短くなった煙草を、地面に放った。それはまだ、微かに煙を立ち上らせていたが、そうそう眺めているわけにもいかない。『一服』にしては、長いこと外にいたのだから。
左様なら、左様なら
中に戻れば、また膨大な研究と実験、そして、出来損ないのレポートが待っている。それが今も昔も俺の日常で、その日常の中に、確かに『彼女』はいた。だが、切り離された日常を、取り戻す努力もせずに、俺はまた『日常』に戻る。
己の罪を詰りながら
彼女の不在を嘆きながら
己の行ないを罪しながら
耐え難い痛みを、まるで無かったことの様に黙殺しながら―
その、日常に戻る。
左様なら、左様なら、左様なら
左様なら、その罪を背負いて、その過去を言祝ぐ―
断罪、或は祝福
=========
ちょっと後書き
2012/2/14