夢を見させて。
 ささやかで、すぐ醒めてしまう泡沫のような夢でいいから。
 誰よりもあなたを愛するから、あなたを失いたくないから。
 私の中のあなたを失いたくないから。





『あてな、じゅうぞうとけっこんするの!』
『ほうや、おれまむしとけっこんする!』
『ほー!じゃあ結婚式は俺に仲人させてや』
『なこうどってなに?』

 夢を見ていた。昔の夢だ。幼い私と柔造は矛造兄様に向かって、ほのかな思いを告白していた。兄様は嬉しそうに私たちの話を聞いてくれた。
 私たちはその日、そのすべてが叶うことを愚かにも信じていた。
 誰も失われずに、誰にも邪魔されずに、私と柔造は結ばれて、兄様がそれを祝福してくれて、父様も、おじさまも、和尚様も、みんながいて、世界は美しかった。

「愚かな」

 寮のベッドの上で、その夢から覚めた私は奥歯を強く噛んだ。

「愚かな、あて」

 愚かな、愚かな、愚かな。

 呪詛のような、怨嗟のような私の声が部屋に響いた。同室の者は知らぬ間に落第していた。祓魔の道は容易くなかった。

 兄様は死んだ。
 明陀は道を過った。
 柔造は私を理解しなくなった。

「愚かな、柔造」

 その夢が続くなんて、どうして思ったのだろう。
 ガチガチと私は奥歯を鳴らした。
 不浄王の右目。右目。
 藤堂先生に聞いたその全ては、明陀の腐敗と堕落だった。
 まるでそれは私のことを詰られているようだった。

「私の世界はもう美しくなどない」

 ただひたすらに柔造を愛することは出来ない。
 ただひたすらに家族を愛することは出来ない。

「私が道を正す」

 ああそうだ。
 私は飽いていた。





 ああそうだ。
 今なら分かる。
 なぜ私だったのか。なぜ柔造は選ばれず私が裏切り者となったのか。
 決まっていたのだ。藤堂がいようといまいと、不浄王の右目がどこにあろうとなかろうと、私はどんなことがあっても明陀を裏切っていただろう。


 私は飽いていたのだ。
 この生に、飽いていたのだ。
 この世界に、飽いていたのだ。

 いつからだろうと私は小さく考えた。この病院には長い時間があった。今まで考えることを止めていた全てを考える時間があった。
 世界は優しくなんてなかった。
 兄様が死んだのに、みんな冷静だった。私には信じられなかった。兄様の死が信じられなかったのではない。死というものがこんなにもあっさりと示される世界が、信じられなかった。
 尊い犠牲というようなことを誰かが言った。ああ、なんてこと。


 兄様の死が尊いの?


 私たちの命は、そんなふうに軽いの?


 死を尊ぶなどという愚かしさに私は臓腑からせり上がる吐き気を止められなかった。まるで彼が死んだことを、まるで将来私たちが命を懸けることを、肯定するようなそれが、私には受け容れられなかった。


 柔造が、あるいは私が、いつか死ぬ世界など、私には受け容れられなかった。


 死んだ人は生き返りません、と学校の道徳の時間に習った。当たり前じゃん、と教室の中の誰かが言った。その声に、私は叫び出しそうになる自分を抑えるので精いっぱいだった。人は死ぬ。あまりにも呆気なく、人は死ぬ。それを肯定する生活を彼らは知らないのだ。

「いやや」

 私はその時のことを思い出して、そうしてその日と同じことを、呟いていた。

「嫌、厭、嫌」

 死にとうない。
 死なせとうない。
 そんな世界に、生きとうない。

 泡沫のような夢の時間はそうして終わった。