Express for
最近夫の帰りが遅い。
洗濯物を畳みながら、蝮はそんなことを考えてため息をついた。
「忙しいんやろなあ」
ため息と共に出てきた言葉は至極真っ当で、だけれどその一方で心配にもなる。
(無理してるんちゃうやろか。出張所の中じゃ若い方やし…)
もう一つため息をついたところで電話が鳴った。
「蝮ちゃん、ごめん、出てくれる?ちょお手ぇはなせんくて」
「はい、すぐ出ますよって!」
台所の方から義母の声がして、蝮はぱたぱたと電話に向かった。
「はい、ほ…志摩です」
咄嗟に言い差したのは旧姓で、この志摩家に嫁いで二ヶ月というところの蝮は、未だにこの電話口での一言に慣れるということがなかった。
『今、宝生て言い掛けたやろ?』
「あんた…柔造!?」
にやにやと笑っているのが分かるような声は、間違いなく先程まで考えていた夫のものだった。
「どないしたん?仕事中やろ?」
『あー、うん。今日なんやけどな、夕飯いらんから』
「え?飲み会あった?」
蝮はさっとカレンダーを確認する。忙しいことには忙しいらしいが、飲み会や付き合いといったものではなく、出張所内部の普通の仕事だというのは所長たる義父から聞いている。案の定カレンダーに予定はなくて、蝮は彼のことが余計に心配になった。
「飲み会でもないのに夕飯いらんとか、働き過ぎと違うの?」
『って、言われると思たからお前の携帯やのうて家電に掛けてんけどなあ』
「お母様かてきっとおんなじこと言わはるわ」
『まあええけど、とりあえず今日は何時に帰れるか分からへんから、みんなで飯食って寝とってくれ』
「八百造様…お父様と金造は?」
『普通に帰ると思うわ。まあ、別件入ったらそれぞれ連絡。いつも通りやろ。ほんじゃ』
何がいつも通りだ。ぷつっとなんの情緒もなく切れた通話に、蝮はわずかに眉をひそめる。何がいつも通りだというのだ。八百造も金造も定時で帰って来られるというのに、どうして柔造だけが―と思う。
だが、気になって聞いてみても義弟の回答は本当に要領を得ないし、義父にも適当にはぐらかされているような気がするので、蝮はいよいよ心配になる。
「まあな。極秘任務とかは、言えんやろし―やって」
仮にそれが極秘任務でも、それを十分知る立場にあった時期があった。今はそれを望むことなど出来はしないが。
(無力やなと―思わんでもない)
口には出さずに、彼女はひっそりと思う。あの夏から一年が過ぎようとしているのに、なんだかまだ立ち止まっているような気がした。何もできなかった、無力なあの夏から―
The first line
「無理に決まっとるやろ!」
「しゃーないやろ!」
「柔兄マジ殴りたいわ!無理に決まっとるやろ!これ最早分かってて言うてるんちゃうの?減給モノやぞ!」
「知らんがな!ええからお前がやれよ?俺は仕事が…」
「俺じゃ無理やろ、普通に考えて」
「真面目に言うな!」
玄関先で繰り広げられている馬鹿騒ぎは、珍しく次男と四男のものではなかった。
「お父様?金造?」
さすがに近所迷惑になる、という判断でそろそろと玄関に向かったら、珍しい組み合わせで口論していた二人はぴくんと動きを止めた。
「お、おう蝮、元気?」
「蝮ちゃん、今日の夕飯なんやろ?」
二人してどうでもいいことを言って引きつった笑いをこぼしているが、隠すように後ろに回した手すら一致していて、蝮は訝るように首を傾げた。
「何か買うてきたんですか?」
「いやーうん、なんていうか」
「何でもあらへんよ!?マジで何でもあらへんよ!?」
明らかに挙動不審である。蝮が更に首を傾げると、二人は一瞬視線を交わす。……一瞬で事は決した。若さとは時に凶器である。ついでに言えば、若さとは時に狂気である。
「蝮ちゃん?」
「はい?」
声を掛けたのは八百造だった。絶対に―と、思う。絶対に息子二人の今月の給料はカットしてやる…と。
急に晩酌に付き合ってくれと言われたので、蝮は当然、何故か今日に限って八百造と金造が買ってきたどう見ても度数の強い酒を冷やしておいて、徳利と御猪口一つと、それから軽く作ったつまみを持っていった。金造は先に寝たらしいので、晩酌の席にいるのは八百造だけだった。
「明日はお休みですか?」
「え…あーうん、違う」
注がれた酒に、遠い目をしながら八百造は馬鹿正直に答えた。
「じゃあ控え目にせんと。お母様が怒りますわ」
笑いながら言った新妻が、八百造にはこの上なく可愛らしく見えた。なんていい嫁を貰ったのだろう、と。だから、その次に自分が言うべき言葉を言うのがひどく躊躇われた―理由はそんな綺麗事だけではないけれども。
「……今日は蝮ちゃんも飲まんか?」
上等な酒を舐めるふりをして、その実ほとんど口に入れずに八百造は言った。それに蝮はきょとんと首を傾げる。
「え?」
「いや、あれや!たまには酒くらい飲んだらええやろ?家事ばっかりで大変やろし、息抜きに…」
そう言ったら八百造は血圧が下がるような感覚に苛まれた。その一言に、彼女がちらっと笑ったのに、言わないでいられたらなんてよかっただろう、なんて思いながら―
「ほんなら、ちょっとだけ」
こうして八百造の孤独な戦いが始まったのである。
「蝮って…ほんま蟒様の娘やな」
「知っとるわ!!蟒だけにウワバミってか!?おかげさんで俺は一滴も飲んでへんけどお前と俺が買った酒は綺麗になくなったわ!」
「お父、よく潰せたな。こいつえらい強いから、飲み会行っても限界量分からへんのや。ついでに言うと自分からは飲まへん」
「すごい遠慮されて…それでも無理やり飲ませた…無理やりってよくない。ほんまよくない。ニュースになるのが分かる…」
嫁に酒を飲ませて潰した自己嫌悪にくず折れる父を後目に、金造は蝮を担ぎあげる。
「あとは部屋に寝かせておけば仕舞いか…」
「……絶対許さんからな金造」
「はあ!?俺やなくて柔兄やろ!?」
「同罪や!!今月の給料明細期待しとけ!」
「ふざけんな!」
「文句があるなら柔造から巻き上げればええやろ!」
「無理に決まっとるわ!お父こそ職権乱用すな!」
ギャーギャー騒いでも新妻は気が付かなかった。それがなおさら、二人の心を折った。
「ん…」
朝日が薄く開けた目を射る。ぼーっとする頭で、蝮は自分の状況を考えた。
「あれ?八百造様は?」
確かさっきまで一緒に飲んでいたはずだ。いつもならあり得ないほど煽られて、断るに断れず杯を重ねたことは事実だが、自分が潰れるなどとは露ほども思っていない蝮にとって、そこはまだ居間のはずだった。
だがここは―
「あれ?布団…?」
蝮は徐々に覚醒する頭をフルに回転させて考えた。それでたどり着いた結論は、ここは明らかに寝室である、という自明の理とも言えるものだった。
「潰れたん…?八百造様の前で…?」
青ざめて枕元の時計を見る。時刻は8時過ぎ。寝坊もいいところだ。
「あかん!…って、え?」
叫んで飛び起きようとして、蝮は何かにぶつかった。
「ったあ!」
ぶつかった『何か』は素っ頓狂な声を上げる。声。声を上げるような生き物に、布団の中でぶつかったのだと彼女はぼんやり考えた。それから、起き抜けの思考の範囲内で誰かのペットだろうか、と考えた。だって―
「…ナーガは添い寝しても変な鳴き声上げたりせんもの」
「お前、確実に寝ぼけてるやろ…」
蝮は人間の言葉を聞いた気がして起こしかけた半身ゆえに高くなった視線を下に向ける。
「え!?」
「おはよ」
「な、な、な…!!」
「いったあ!」
ばちんと軽快な音がして、とりあえず声の主は頬をおさえた。
「何も叩くことなくないか?」
頬をはたいた手を取って、起き上がりかけた身体をまた布団に沈ませると、柔造はぎゅうぎゅうと蝮を抱きしめながら言った。だが抱きしめられる蝮はたまったものではない。
まず、なんでこの男が自分の布団に入っているのか。当然のことみたいに。
次に、なんでこの男が仕事にも行かずにごろごろしているのか。普通のことみたいに。
最後に、なんでこの男が勝ち誇ったような顔をしているのか。バカみたいに。
「カハッ!ちょっ、待て、やめろ!」
何一つ正確な答えが出なかったので、蝮は取り敢えず彼の鳩尾を殴ってみた。当然拘束する腕の力が弱まったのでそこから抜け出して腹を抱える己の夫を見下ろした。
「なんなん、あんた」
「何とは失礼な。休みや」
「……無断欠勤?」
「どうしてそうなる!休暇や休暇!バカンス!」
そう言って、彼は布団から起き上がると、すっと寝室の箪笥の前を指差した。それに蝮は不思議そうな顔をして指の先を見た。
「は…?」
準備されていたのは、夫が出張の時に使う旅行鞄と―
「あてのキャリーバッグなんかどこから持ってきたん?」
状況をきちんと理解出来ていない彼女の言うことは、若干主旨からずれているように思われる。
「錦に持って来させた」
「……」
だからなんなのだろう?と正直に言えば思った。結論は出ているだろうと思うが、そうでもないのか、それとも拒否反応でも出ているのか。
「どこか行くん?」
「うん」
「出張?」
そう訊いたら、夫がニヤッと笑った。
「ちょっと小旅行」
彼女がその単語を理解するまで、あと数瞬―
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