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「10時出発な。服は詰めた。ちゅーかお前服少なすぎ。今度買いに行こ?下着と化粧品は詰めてへん。アメニティはあっちにあるから大丈夫やけど。あと薬も入れておいたから。内側のポケットな」

 滔々と彼は言った。本当に当然のことみたいに。

「ちょっと待って!何言うてんの?小旅行?あんた休みなんか取れんやろ?」
「せやからきりきり残業したんやろが。ぎりぎり3日は休み取れたわ」
「残業って…最近帰ってこんかったのそのせい?」
「言ったらお前怒るやろうと思ったから言うてへんかったけど」

 ちょっと眉を下げて言った彼の顔に、嘘偽りがない事に蝮は気が付いてしまった。だとすれば、この荷物は間違いなく『小旅行』のために準備された荷物だ。

「あかん…頭ガンガンしてきた」
「宿酔いか!?お父に加減しろって言うたんやけどな…」
「そういう意味やなくて…っていうか昨日のあんたの差し金なん!?」
「え、うん」

 本当に何でもないことのように言われて、蝮は本当に頭が痛いと思った。
 それを見やって、分かっているのかいないのか、柔造は今度こそ布団から起き上がると、机の上に手を伸ばす。その格好は、明らかに『出掛ける格好』だった。出勤する制服ではなく、スーパーに買い物に行く普段着でもない。

「これが新幹線のチケット。行きも帰りも買ってあるから、行かへんとか言うても無駄やからな」

 「高かってん、これ」なんて、何でもないことのように言って、彼はひらひらとその封筒を彼女に見せた。




 窓際に蝮を座らせると、柔造はこてんとその肩に頭を預けて寝入ってしまった。目的地がどこかも、どんな日程なのかも、どれもこれも聞く間もなく、二人を乗せた列車は黙々と高スピードで景色を変えていった。
 平日の午前。新幹線の中には、方々への出張と思しきサラリーマンの方が旅行客より多い。蝮と柔造のような旅行客は、ある程度年代が上のグループが多いような気が蝮にはした。それもそうだろう。世間は盆も過ぎ、子供に与えられた夏休みも終わったくらいだ。

(なんや知らんけど…腹立つ…)

 時間帯なのか、日取りなのか分からないが、空席もちらほらある列車の中ですーすー寝ている自分の夫が、蝮はなぜだか恨めしかった。
 ―振り回されているからだ、と心のどこかで思った。だが、起こすことは出来なかった。だって、実際問題として、彼は最近まともに眠っていなかったのだから。ここ数日はそれが顕著だったが、それもこれも、今日からの休みのためだった、と言われれば返す言葉もない。

(別に…)

 振り回されたらそれがそのまま苛立ちになるのか、と言ったらそれは嘘だ。むしろ、腹立たしいのは彼ではなく自分だから。言い表せない、というよりも、どうしようもない苛立ちに、蝮は少しだけ頬をふくらませてぎゅっと夫の鼻をつまんだ。

「フガッ…………スー」

 一瞬だけ息苦しそうにしたから、すぐにはなしたら、彼はやっぱり寝入ってしまう。それに、彼女はやっぱりプウっと頬を膨らませた。だけれど、幸せそうな夫の寝顔を見てしまうと、先程まで感じていた苛立ちや腹立ちが、少しずつ収まっていくのを感じた。

「柔造の…おかげやんな…」

 蝮はそう呟くように言って寄り掛かる彼の頭に自分の頭をのせる。少しだけ微笑んで、彼女もわずかにまどろんだ。




「…むし…!蝮!」
「……へ?」
「そろそろ着くから起き」

 薄っすら目を開けたら、柔造が肩を揺さぶっていて、それから窓の外に目を向けたら、新幹線は速度を少しずつ緩めながら、駅のホームと思われるところに滑り込んでいくところだった。
 彼はもう荷物をまとめていて、ゆっくりになったところで立ち上がる。蝮もそれに続いて立ち上がろうとしてちょっとだけバランスを崩した。

「おっと。無理すんな」
「すまん」
「謝ることと違うわ」

 その彼女を軽々と抱き留めて柔造は笑う。それから停車した新幹線のデッキに二人で向かった。
 彼女はデッキで、少しだけ片目を細める。駅名を見るに、ずいぶん遠くまで来てしまったようだ。

「ここらで昼食って、もう一個乗り継いでいくさかい」

 そんな彼女をちらっと振り返って柔造が言う。扉がすべるように開いた。ホームには、電車が起こす特有の風が吹いていた。

「なあ」
「ん?」
「結局どこ行くん?」
「うーん、せやなあ」

 彼は少しだけ勿体をつけて、それからにやっと笑って言った。

「海のあるとこ」




 駅の近くで昼を済ませ、また電車に乗ると、あとは早かった。3時前には目的の駅に着き、気がついたらタクシーに乗せられていて、あれよあれよという間に宿に着いていた。

(なんていうか、前言撤回したい)

 出迎えの中居とにこやかに話している夫と、明らかに自分たち(もちろんそこには柔造を含むから『たち』なのだ)の金銭感覚からは逸脱していると思われる瀟洒な構えの温泉宿に、柔造のおかげ、なんて考えた新幹線の中での一言を、蝮は早くも後悔していた。

(無理しすぎや)

 ちょっと顔をしかめたら、荷物を預けて空いた手を握られて、それから柔造は中居に続いて歩き出す。手を握られているのだから、当然蝮も歩かなくてはならなくて、結局その宿の静かな廊下を、少しだけ息を呑むように彼女は歩いていった。




「なあ」
「……」
「なあ!」
「……なに?」

 険悪なムードになってしまったやはり豪華な客室で、蝮はつんとしている。それに柔造は苛立ちと、それからそれ以上の不安でもって声をかけた。

 何だっていうのだ、と柔造は思う。
 何やっているのだ、と蝮は思う。

(ちょっと無理してんのやぞ?それともあれか?コイツ実は絶対海外系か?ハワイか?ハワイやったら満足なんか?)
(ちょっと無理しすぎやろ?ただの休暇にこない無理してあて連れて来て…何考えとるん?交通費やってばかにならんのに)

 ……思考が噛み合っていないのは、明白に思われた。問題は柔造が大事な一言を言い忘れていることにあるのだが。

「何怒ってるん?」

 結局柔造が下手に出て聞いたら、蝮はキッと彼をにらんだ。

「あんた、何考えてるん?」
「そらハワイとかだって考えたわ!やけど、さすがにお前もきついやろし、俺もどんくらい休めるか分からんかったから海外は…」
「海外!?なお悪いわ!」

 蝮が怒鳴るように言うと、柔造の低めに設定された沸点は簡単に許容範囲を超えた。メーターが振り切れると、新妻が喜んでくれないかもしれないとかなんとかいう不安は、もはや度外視だった。

「なんやねん!新婚旅行くらい大人しくしとられんのか己は!」

 蝮に負けじと怒鳴ったら、彼女は予想に反してぽかんと柔造を見返した。

「は…?」

 初めて聞かされた単語に混乱している蝮の顔を、柔造は自分に怒鳴られて途方に暮れている、と咄嗟に取った。普段なら絶対あり得ない選択肢である。彼女が自分に怒鳴られて途方に暮れるなんて、ほぼあり得ない。だが苛立ちが募ったとはいえ、『新婚旅行』で浮かれていたと言っても過言ではない柔造には、それが途方に暮れた困り顔に見えて、彼は取り繕うようにあたふたしだした。

「あんな、別に俺も怒りたい訳やなくて…」
「いや、あんた、何言うてはるの?」
「だから、せっかく新婚旅行やねんから、もうちょい、その」
「……あんな」

 柔造の言葉を遮って、蝮は神妙な面持ちで言った。

「うん」

 それに、柔造も馬鹿正直に応える。両人とも、もはや先程までの苛立ちや怒りというものが完全に消え失せていた。

「新婚旅行?」
「え?うん」
「初耳なんやけど」
「……………え?」




The third line