「すまんなあ、付き合わせて」
「ええって。ほれ」

 手を差し出すと、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「なん?」
「手。繋がな、転んでも知らんえ。ちゅーか繋がんのやったら連れて行かんからな。お前、まだ危なっかしいねん。ちゃんと毎日歩いとる?」

 歩いとる、と拗ねたように言った彼女の手を引く。

「とりあえずバス停までな。リハビリやと思て気張りや」

 彼女が着ているコートは、多分、青か錦が持ってきたのだろう。彼女の手を引いて歩くが、様々な距離感がつかめていないのが、病棟からバス停までの短い距離を歩いただけでよく分かった。

「珍しなあ、日曜が休みなん」

 バスに乗ると、彼女はふと、左に座る俺を振り返った。

「せやな」

 そうだけ言う。それ以外の言葉が、上手く思いつかなかった。「日曜が休み」という、その一言に、どれだけの懐古や憧憬、そして後悔が含まれているのか、ド阿呆の俺でも察しがついた。彼女はもう、この職に就くことはできない。裏切りだけがそうさせるのではない。彼女の目で戦うのは、もう無理だと言われている。人一倍明陀のことを思った蝮にとって、これ以上の罰はないようにも思えた。




「兄様…あにさま…私は、明陀を裏切りました。兄様のように、明陀に操を捧げることも、もう…できません」

 ぴたりと冷たい墓石に手をついて、蝮は、その隻眼を瞬かせた。涙は、こぼれなかった。
 彼女に、物言わぬ長兄は、何と声を掛けるだろうと思う。
 その兄が死んだのは、俺が5歳の時で、正直に言えば、矛兄との思い出らしい思い出というものを、俺は持ち合わせていない。思い出せる中の殆どで、彼は、柔兄と蝮と一緒にいた気がした。二人が、矛兄をとても慕っていたのが幼心にも分かった。

 矛兄の手は大きかった。その大きな手に、俺たちは守られていた。

 その手を失って、それから―


「もうええのか」

 一しきり、己の裏切りのあらましを話してしまうと、彼女の口からこぼれる言葉は途切れてしまって、蝮は墓石についた手を放す。

「ええのよ。兄様かて、こないなこと言われても困るだけや」

 彼女は少しだけ笑ってそう言う。苦笑にも見えたし、安堵にも見えた。
 その手を失って、それから、兄たちは、思い思いに明陀を守ってきた。柔兄も、彼女も、幼いながらに、小さな弟と妹を必死に守ってきた。
 蝮は、俺たちを守れるのは自分だけだと思っていたというのを後から聞いて、俺は自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。そんなふうに、そんなに必死に、彼女が多くの物を背負っていたなんて、俺たちどころか、明陀すらも背負おうとしていたなんて。
 彼女らしいと言えば彼女らしい。だが、それで気がつく。結局俺は、長兄を失ってもなお、彼女や兄に守られていたのだと。彼女は、そんな俺たちを守ろうと、必死だったのだと。その庇護の下で、少なくとも俺は、今まで生きてきた。
 彼女の笑顔は、どこか決然としていた。そんなことを言える立場ではないが、強くなったものだと思う。守られるだけだった少女は、その手を失って、それから、多くのものを守ろうとした。そして、道を踏み外したことを告げて、多分もう、これで終わりにしようとしているのだと思う。適当にけりを付けるとか、そういうことではなくて、彼女は、この墓の前で、実にたくさんのことに諦めを付けようとしているのだと思う。

「なあ」
「なに?」

 微笑んで返されて、俺は何と言うべきか、言葉を失ってしまう。少なくとも、今までこうして守られてきた俺が、何かを言うことは出来ないと、そう思って、俺は口を閉ざした。




「せや。笑い話」

 墓地を後にして、バス停まで歩く道のりで、俺は思い出したように声を上げた。

「なに?」
「今日撒いた、柔兄のレンアイ事情」

 ぴくりと彼女の瞳が僅かに吊り上がる。毎度のことだが、分かりやすいというか、何というかだ。

「相手の子な、柔兄が初恋やったんやて。阿呆やんなあ、もう結婚したかていい歳やっていうのに」

 さらりと言ってしまう。それから、彼女の反応を待たずに言葉を継いだ。

「ああ。ここにも阿呆がおった。ハツコイなんぞに縛られとる、ド阿呆がな」
「あんたなあ」
「はいはい、知ってますえ。初恋はトクベツ、一個きり、な?」

 からかうように言うと、蝮はカアッと赤くなった。『初恋は特別』なんていう、少女じみた思考に囚われて、頬を染める結婚適齢期の女、なんて、まあ可愛くなどないものだが、これだけは例外だ。

「初恋なあ」

 己の初恋など、遠い昔のことすぎて忘れてしまった。或いは、眼前の彼女だったかも知れず、彼女の妹たちだったかも知れず、だが、本当に、初恋など思い出せない。だから、初恋と言い募る彼女の気持ちも、そして、初恋などという言葉に過剰反応する己の兄の気持ちも、どこか掴みかねる、というのが正直なところだった。
  どれだけ特別なものだとしても、それは、今誰かを想う気持ちには敵わないのではないだろうか、と思うから。
 だが、逆を言えば、今誰かを想う気持ちよりも、初恋の気持ちの方が大きいから、彼らは悩む―なんていうのは、嘘でしかないのだが。
 柔兄は、何を勘違いしているのか、中学に上がった頃から蝮と一緒に矛兄の墓参りをすることを拒むようになった。あまりにあからさまに拒否するので、これまた自分が中学に上がった頃に、なんとなしに訊いてみたところ、思った以上にバカバカしい返答が返ってきた。

『初恋の男の墓参りやぞ?そんなアホくさいの、付き合ってられんわ』

 初恋。柔兄は、彼女の初恋は矛兄だと言う。その馬鹿な次男の初恋は、間違いなく彼女なので、一応『男の嫉妬は見苦しい』と言っておいたが、思い切り殴られたので、その話題はある意味禁句だった。その後に、彼女にとって初恋というものが、いかに特別な恋であるかを聞くことになって、同じくそれを聞いただろう兄の惨めな姿が思い浮かんで、俺は想像以上にげんなりした。だが、なぜ彼女がそこまで『初恋』にこだわるのか、その一端を知るからこそ、俺は余計に兄の行動がバカバカしく映り、同時に、なぜ彼女がそこまで『初恋』にこだわる―と言うよりも、こだわり続けることができるのか、分からないという思いもあった。

「その子、初恋やったなら、志摩も嬉しかったんちゃうの?」

 彼女に言われて、俺は少し言葉に詰まる。だが、言わない訳にもいかずに口を開いた。

「…それがな、また別れてん」
「え…?」

 驚いたようにこちらを振り返る彼女に、ちょっと頷いて見せると、蝮の表情はたちまちひび割れる。

「4人か」

 囁くように蝮は言った。

「……まあ、な。私が何言うてもしゃあないわ」

 悲しげに言って、彼女はついと視線を逸らした。バス停の方に歩こうとしたのに、彼女の歩く軌道は大きくそれてしまう。それが、片目故のことだけではないことはすぐに知れて、ぐいと手を引く。

「泣いてもいいえ」
「…阿呆…か」

 声は震えていた。墓地から大通りに出るまでの小路に、人はいない。ちょっと彼女を引き寄せて、ぽんぽんと頭を撫でてやる。昔、彼女がそうしたように。

「あ…ほう」

 強がってそう言った彼女の瞳から、涙がこぼれることはなかった。だが多分、病室で一人になって、彼女は泣くのだろうと思う。独りで、泣くのだろうと思う。








『馬鹿やね、あんた』

 中学生くらいだと思う。幼い蝮が、呆れたように、これまた幼い俺の頬に手ぬぐいを当てている。

『初恋は、一つだけやのよ?』

 呆れたように、だが、どこか、大人びたような顔で言う。

『ハツコイやなんて、言うとらんやろ』
『相手の子おは、初恋やったの!』

 怒ったように、蝮はぺちんと俺の額を叩いた。良く覚えている。だから、その先を話さないでくれと思う。小さな蝮の口が動くのが怖かった。その先を、話さないでくれと、小さな二人を俯瞰する俺は叫び出したかったが、それは叶わなかった。

『いい、よく聞きよ、志摩。どんなにええ恋をしても、どんなに好きな人ができても、初恋は、死ぬまでずっと、死んでもずっと、一つっきりなんよ』

 蝮は、頬を染めてそう言った。まるで、一つきりの初恋を、懐かしむように―




 そこで、ぱちりと目が覚める。嫌な汗をかいていた。彼女のその言葉と、顔つきは、十年以上が経った今も、鮮明に夢の中で再現されて、あの時と同じだけの絶望を俺の中に落とした。

「最ッ悪や…」

 死ぬまで一つ。死んでも一つ。
 誰が、どれだけ彼女に愛を告げようとも、彼女の中の『初恋』は、永遠に一つなのだ。彼女の最初で最後の初恋は、どう頑張っても一つきりなのだ。
 その初恋の相手を知っている俺は、どうしようもなくなる。

 ガツンと壁を殴ったが、何が起こる訳でもない。

「うっさいわ!」

 ……何が起こる訳でもないはずだったのに、壁を殴ったそれには返答があった。明るい頭の四男は、俺が壁を殴るのに呼応するように、殊更音を立ててバタンと扉を開け閉めする。

「お前こそうるさいわ」

 とりあえず言っておくと、彼は面倒そうにこちらを見遣って、それから適当に椅子を引く。

「初恋ハツコイ。大安売りやな、ほんま」

 頬杖をついて、彼は俺の地雷を踏んだ。判っていながらやっているのだとしたら、相当腹が立つが、どうせ、墓参りのついでに蝮の『初恋』の話でも聞いたのだろう。

「……矛兄には、敵わんのや」
「はあ?」
「矛兄にだけは、どう頑張ったかて敵わんのや」

 気がついたら、考えるよりも早く言葉が落ちて行く。思考を経由しないそれは、本心のみで構成されていた。

「追い越そうと思ても、もう死んどる。頭ん中の、思い出ん中の矛兄をのすことなんぞ、誰にも出来んのや」

 例え、その兄が生きていたとしても、変えようのない事実があることは否めないのだけれど。だが、彼は死んでしまった。その姿や行いは、彼を知る人の記憶の中で徐々に美化され、永遠となる。それは、俺の中でももちろんそうだが、彼女の記憶の中でも例外ではないだろう。いや、より美しい思い出になるのではないのだろうかと思う。
 彼女の、初めての恋は、恋の相手の死という形で終わりを迎えた。永遠に一つきりの初恋の終わり方としては、あまりにも鮮烈すぎる。
 追い越すも何も、兄が生きていたとしても、彼女の初恋は、彼女の一つきりの、永遠の想いは、どこまで行っても兄だけのものだ。
 そんなことなら、初めから、蝮など好きにならなければよかった。そう思うのに、彼女を想う事は止められなかった。初めから、初めから、蝮など好きにならなければよかった。
 それでも、己が好きなのは「初めから」宝生蝮であって、彼女が「初めから」好きなのは己のたった一人の兄、ただ一人なのだ。

「やい、志摩家の跡取り」
「…金造、お前、喧嘩売っとんのか」
「誰があんたみたいな男に喧嘩なんぞ売るかい。時間の無駄や」
「手前ェ…!」

 俺は思わずベッドから飛び降りて、金造の胸倉を掴む。だが、彼は相変わらず飄々とした表情を崩さなかった。まるで末の弟のようだ。腹立たしいことこの上ない。

「ほんま、こうはなりたくないわ。惚れた女泣かす男」

 志摩家の跡取り、という言葉が重なった。長兄と比べているのだろうか。そう思って、気がついたら、俺は弟を殴り飛ばしていた。

「…最低やな。手まで上げるか」

 吐き捨てるように言って、金造は倒れかけた体勢のまま、思い切り俺の腹を蹴り付けた。
 それはもはや兄弟喧嘩の域を軽く超えていて、想像以上の驚きを齎す。金造は、そう簡単に(それこそ俺とは違って)、人に、兄妹に、本気で手を出すような男ではない。その彼が、本気で俺を蹴り付けたというのは、驚くべきことだろう。だが、そんな思考に耽る暇はなかった。

「今のは矛兄の分や。次いくで」

 次、と言って、金造は体勢を整える。

「次ってなんや、ド阿呆が!ええ加減にせんと俺もキレるぞ!」
「…次は蝮の分や」
「意味分からんわ!」
「一番になれん?矛兄になれん?はっ、当たり前やな。こないな男が、矛兄になんぞなられても困るわ。こないな…っ!」

 俺はその言葉が許せなくて、もう一度金造を殴りつける。それこそ、兄弟喧嘩の域を超えた強さで。当然ながら金造は床に沈んだ。

「ええ加減にせえって言うたやろ」
「どっちが!死人の目なんぞ気にしとる方がええ加減にせえよ」
「……次は本気で殴る。死にたないなら黙れ」
「誰が黙るか。ほんまにアホやな。泣いとるんや!あんたが女捨てるたび!矛兄だか誰だか知らんがな、あんたが、一番になれんちゅうてぐだぐだしてるうちに、蝮が何遍も泣いとること、知らんやろ?4人やぞ、分かっとんのか?あんたは蝮があないになってから、4人も遊んで、のうのうとしとるんや!俺はそれが許されへん」

 その言葉の意味が理解できなくて、俺は彼を殴りつけようとした手を止める。

「初恋なんやろ」

 ひどく静かに、彼は言った。

「初恋の女なんやろ。あんたの一番は蝮なんやろ。泣かして楽しいか」

 蝮が泣いている?俺が女を捨てるから?
 わんわんと、目眩に似た感覚が訪れる。
 呆然と、振り上げようとした手を落として、立ちつくす。どうしたらいいのか分からなかった。俺を見上げる金造の目には、先ほどまでの余裕を飛び越して、焦燥や不安といった色が滲んでいた。それは多分、今まで平然を装って、罵詈雑言を吐き尽したはいいものの、その真意が、まさか『初恋』一つにある訳ではなかったからだと思う。

「矛兄の墓行って、もう全部諦めたあいつを、俺には助けることなん、出来んのや!俺は、ずっと、あんたと、蝮に守られてきた。矛兄がそうやったみたいに……ちゃう、矛兄よりもずっと長く、あんたらは俺たちを守った。あんたに全部背負えなんぞ言わへん。言われへん。俺かて、明陀を背負う気概くらいある。せやけど、矛兄がのうなって、俺たち兄妹を背負ってきたんは、あんたらだけなんや…せやったら俺に、あいつを、助けることなんて、できへん」

 泣きそうな声で彼は言った。先程までの余裕など、皆無の声音だった。そういえば、と思う。一番上の兄が死んだ時に、彼はこんな声を出していた気がした。その時は本当に泣いていて、そんな弟の頭を、蝮は気丈に撫でた。きっと泣きたいだろうに、彼女は泣かなかった。

「蝮は、泣いたか」

 気がついたら、やはり思考を経由しない言葉が落ちていた。

「俺の前で、泣く訳ないやろ」

 声を聞き終わるとほとんど同時に、俺は部屋を出ていた。