課外授業

 お試し期間、というのがまずもって間違いだったと俺は知っていた。
 最初から全部分かっていた。
 彼女の手を引いて、何も言わずにすたすた歩く。
 何も言わないのは卑怯だと思った。思ったけれど、蝮は何も言わなくて、だから俺も何も言わなかった。やっぱり卑怯だ、と思考の端で思う。
 気が付いたらもう街は遠くて、山入端がすぐそこに迫っていた。小奇麗な店よりも、コーヒーやケーキよりも、たぶん俺たちにはこちらの方がなじみが深かった。

「志摩」

 先に声を出したのは蝮だった。俺は本当に自分の弱さを感じ入った。

「前から言おうと思っとったの」
「……なに?」
「無理せんでええのよ」

 無理をしている、と蝮が言ったそのことが、俺には理解できなかった。……いや、言いたいことは分かっているのだ。分かっているのに、分かっていないふりをした。

「責任感じて、あてのこと嫁にするっていうの、なしにしてええよ」

 やわらかく微笑んで、蝮は俺の手ををすり抜けて山道の途中の石に腰かけた。今日のために着飾っただろう洋服が、苔むした岩につくことを、彼女はちっとも厭わなかった。

「試して分かったやろ?あてはあんたが思うような女やない。罰やいうても言うことも聞かん。可愛げもないし、裏切り者や。わざわざあてやのうても、ええのよ」

 片方だけになってしまった目で、彼女は微笑んで言った。すべてを諦めたような目だった。

「あてなあ、あんたが好きやった。好きで好きで、なんで自分は宝生家の跡目で、あんたは志摩家の跡目なんやろって思ってた。いや、そのずっと前から。兄様がいても、なんであてらは互いに僧正家で、一緒になれることはないんやろって思ってた」
「……ああ」
「でもあんたは違った。あんたはあてよりも可愛い子がたくさん周りにおって、あんたは兄様がいなくなったあとの志摩家の跡目をしっかり継いで、ああ、あての一人相撲やって思うた。そう思うたら、空しゅうなった」

 それから、と言いさして、彼女は言葉を止めた。
 それから、彼女の心を俺は黙殺して、彼女は道を踏み外した。
 分かっていたのだ。試したかったのは俺。今までずっと彼女の心を黙殺して、そうだというのに自分が一番好きなのは蝮だと子供の頃のままにひけらかして。ひけらかすくせに、その姿は蝮自身にだけ見えていない。そんな俺を、それでも蝮は受け入れてくれるのか、と。
 本当は試す時間なんてなかった。
 本当は試すなんて言ってはいけなかった。

「なあ」
「なに?」

 微笑んだ彼女の頬に手を当て、かがんで目線を合わせる。

「俺、ずっとお前が好きやってん」

 最初から、いや、もう何年も前から、言わなければならないことがあった。
 試すことなどしてはならなかった。

「いろんな子ぉと付き合うてきたけど、それは全部誤魔化しで、お前のことが手に入らんってずっと知ってたから、俺はもうお前のこと好きやって気持ちをなくそうとしてた。そうしたら今度は加減を忘れてお前の心を見ることもやめた」

 蝮を見れば見るほど傷つく気がした。欲しくて、欲しくて、だけれど手を伸ばせば叱られる、いとおしい人。そうしているうちに、彼女の一番言いたいことも、彼女の帰る場所も失わせたのは、俺だった。

「お前が怖くて、助けてほしくて叫びだした声を、俺は聞かんかったことにした。笑い種やな。そうやというのに、まるで今まで全部なかったみたいに、お前が好きやと宣った。とんだ道化や」
「志摩、違う」
「違わん。そうや、俺たちは互いに互いのことを一番に思っていたのに、互いの言葉も心も聞かずに、見るのをやめてしもうた」
「……そう、やね」

 試す?何を?

 俺たちの間にまだ試すべきものがあるのだろうか。
 そんなもの疾うに、そんな機会は、疾うに失われていたのに。

「試す、なんて卑怯や。試すべき時、話すべき時、俺たちはその時間を無為にした。だからもう、試すなんて言わん」
「志摩?」
「やり直そう、全部」

 そう言ったら、ぽろぽろと、彼女の頬に添えた手に片方だけのしずくが落ちた。
 まだやり直す時間も、機会も、きっと俺たちにはあるのだから。