損得勘定


 午前五時、掛け布団をそろそろと持ち上げて、私は起き上がる。
 距離感。最初に思ったのはそれだった。片目故に測れない距離感のことなのか、それとも、自分の隣でいびきをかく男との距離を測りかねただろうことのことなのか、それは解らなかったけれど。
 距離感。
 いずれにせよ、一定の距離を保たなければ、物事は破綻するのだと思う。
 夏だから、暑いと脱ぎ捨てられた服と、私の浴衣。触れ合うのは素肌だった。そのことが、どこか遠い。一つしかない布団と私たち。そのことが、遠い。

「あんたが好きな訳やない」

 私は、堂々と嘘をついた。彼が寝ているからかもしれなかった。
 好きでこの男と寝ている訳ではない、と、言わなければ、私は自分を保てなかった。すべては僧正血統の跡目のため。血のため。そう言えば、少しは救われる気がした。
 何の呵責もなく、損得も考えず、私を抱きしめる志摩に、私は顔向けが出来ないのだ。部屋の障子の向こうから、朝日が射している。私の白い腕にその光が照りつけた。その光は、隣で眠る男の顔の陰影を一層濃くした。

 綺麗な、顔。

 そう思う。綺麗な顔。私の大好きな、優しくて、綺麗で、力強い顔。腕。胸板。
 彼のすべてを愛している。だけれど、愛している、という、そのたった一言だけは、私が口にしてはならない言葉だった。

 好きな訳じゃない。ただ、僧正血統に生まれたために、裏切り、役に立たぬ私にもまだ利用価値があることを知らせるのが、彼。
 そんな下卑たことを、志摩が考えるはずないのに、私はそうやって損得勘定しなければ、彼との関係を、自分自身許すことができなかった。
 彼から、どんなに深い愛情を感じても、私はその勘定を止めなかった。なんてひどい女、と思ったら、自分でもひどく残酷な気持ちになった。

「すまん」

 懊悩を押し殺して、私は小さく言った。聞こえるはずない。でも、心のどこかで聞こえていればいいのに、とひどく理不尽なことを思った。聞こえるはずない。だけれど、この声を聴き届けてほしいと、私はひどく理不尽で、浅薄なことを願った。
 損得を勘定するのは、もう疲れた。だって、彼にとって損ばかりが増えていって、私にとって得ばかりが増えていくのだもの。ぱちぱちと、算盤が鳴る。鳴るたびに、ぱちぱちと減っていく。ぱちぱちと増えていく。
 正直に言えば、彼の得が減っていくよりも、自分の得が増えていくことの方が怖かった。理不尽であることは知っているけれど、そちらの方が怖かった。彼の温かな手が、私を私では失くすよう気がした。

「すまん」

 私はもう一度呟いた。
 こんなに愛しているのに、愛せなくてごめんなさい。
 こんなに愛してくれるのに、何も返せなくてごめんなさい。


 脱ぎ捨てられた浴衣を拾って、身に着けて、いつも通り笑えばいいのだろうか。分からなかった。どんなに必死に勘定しても、答えが出なかった。