勝呂は荷物を置くと、すぐに部屋を出た。旅館の離れ。まだ彼女はそこで臥せっているらしかった。




「具合はどうや」
「竜士さま…!」


やわらかな棘


「起きんでええ、無理すんな」

 起き上がろうとした蝮を制して、彼女の枕元に座る。身体を起こそうとしたことなのか、突然の来訪にかは分からないが、やはり何某か無理がかかるのだろう。蝮は小さく咳をした。
 起き上がりかけた薄い肩を押せば、彼女はあっさり布団に沈む。

「熱は?」

 短く言って、勝呂は蝮の額に手を当てる。冬だ。外は雪もちらついている。帰ってすぐにこの部屋に来た彼の手はまだ冷たく、微熱の続く蝮は、その温度に潤んだ目を細めた。

「竜士さま…どうか…」

 やめてください、と言おうとして、彼女はまた失敗する。代わりに出たのは空咳で、彼は、額にあてた手で彼女の髪を梳く。まるで、子供をあやすように。

「蝮は、俺が風邪引くと、必ずこうしてくれたな」
「…竜士、さ…ま」
「寝てへんのやろ?隈になっとる。誰も来んさかい、少し眠り」
「なん…で…」

 どうして、彼が自分に優しくするのか、彼女には見当もつかなかった。

「あては…竜士さまを…明陀のみんなを裏切りました。せやから、どうか…どうか、捨て置いてください」

 蝮は切れ切れにそう言う。涙が出そうだと思った。
 この、大切に、大切に愛しんできた少年さえ、己は裏切ったのだという事実が、彼女の中に、深く、暗い影を落とす。

「捨て置くやて?阿呆なこと言いなや」

 だが彼は、やはり優しい口調でそう言って、蝮の目許を撫でる。本当に眠っていないからだろう。彼女の体温を吸って、緩やかに温まった彼の手が、瞼を下ろすように動くと、蝮はとろんと意識が落ちかけるのを感じた。

「竜士…さ…ま…」

 泣きたいと思った。それが、どんな感情によって呼び起される涙かを、彼女は忘れてしまった。




「蝮」

 囁くような声が襖の向こうからして、勝呂は視線を上げる。

「柔造か?」
「!…坊、ですか?」
「あんまり大きい声出すな。蝮が起きる」

 努めて静かにそう言うと、襖の向こうで柔造が動く気配がした。程無くして、正座をして居住まいを正した彼が、襖を開けた。

「お戻りなさいませ」

 きっちりと畳に手をついて言う彼に、ひとつ頷いて、勝呂はまた蝮に視線を戻す。

「見舞いに?」
「ああ」
「わざわざすんません」

 そう言いながら、彼は部屋に入り、眠る蝮を挟むようにして、勝呂と向かい合った。

「よう寝とる」
「このところ、熱が続きまして、上手く眠れんかったみたいですわ」
「ほうか」

 勝呂はするりと、眼帯に覆われた彼女の右目を撫でる。

「目は、駄目やったか」
「…」

 低く問われて、柔造は目を伏せた。沈黙は肯定を示していて、予想していたこととはいえ、勝呂の中に苦いものが広がる。
 目だけではない、と、柔造は心中息をつく。目だけではない。もう冬だというのに、彼女はまだ床に臥せっていた。だが、これでも良くなったものだ。蝮の姿を見るたびに、焦りに似た感情が生まれるが、日毎に彼女の顔色は良くなり、言葉も増えた。それがあまりにゆっくりだから、当事者である彼女以外はきっと焦ってしまうのだろうと、和尚は笑っていた。

「せやけど、大丈夫やと思います。目は、駄目でしたけど、身体は、ゆっくり良くなってる。良くなってるはずや」

 「はず」と言いながら、彼女の身体が少しずつではあるが良くなっていることを、一番に感じているのは、柔造でもあった。床に臥せる彼女に焦りを覚え、息をつき、だが、その一方で、一番近くでその回復を見ているのもまた、彼だった。
 だから彼は、眠る彼女を見て、微笑む。
 その笑顔に、勝呂は気づかない振りをした。