「竜士…さま!」
叫ぶように、泣き叫ぶように、彼女は言って目を開く。
「目え覚めたか。坊やったら、部屋に戻らはったで」
枕元にいたのは、今己の夢の中にいた存在ではなくて、蝮はその姿に細く息をつく。
「お呼びするか?お前、せっかく坊が来はったのに寝てもうたんやてな。まあ、しゃあないわ。このところ眠れてへんかったから」
優しく言って、彼は頭を撫でる。それは、ほんの数十分前に、同じようにしていた存在を思い出させた。そのことに気がついて、蝮は細くなってしまった腕を伸ばし、顔を覆った。
「蝮?」
どうしたのだろうと思って、柔造がその腕に触れると、それはかたかたと震え始める。
「蝮?どないした?」
心配になって、顔を覆う腕を少しずらす。抵抗はなく、いや、抵抗があったとしても、本当にささやかな力しか彼女が篭められないのを彼は知っていてそうしたのだから、覆われた顔はすぐに露わになった。
「ま…むし…?」
だが、その先は、言葉にならなかった。
露わになった彼女の隻眼からは、止めどなく滴が流れていた。彼女は、放心したようにただただ涙を流す。
それは、後悔や恐怖、そういう類の涙だと気がついて、柔造は本当に言葉を失う。
「…竜士さま…」
彼女は呟くように、だけれど泣き叫ぶように、また勝呂の名を呼んだ。こんなに傷ついた姿を見るのは、もうずいぶんなかった気がして、柔造は本当に何があったのか分からなくなる。例えば、勝呂に罵倒でもされたのだろうかと、酷い考えまで浮かんだが、もしそうなら、彼女は勝呂の前で眠ったりできるはずがない。それに、勝呂がそんなことをしないのは分かっている。だから余計に、彼女がこんなふうに涙を流す訳が、彼には解らなかった。
彼女は、嗚咽すら漏らさずに、静かに泣いていた。彼女がこんな悲痛な泣き方を出来るなんて、柔造は思いもしなくて、目を逸らすこともできずに、だが、何とか彼女を落ちつけようと震える腕をさする。
その合間に、彼女は何度も「竜士さま」と、苦しげな息遣いで、勝呂の名を呼んだ。
涙に濡れた頬が、凍ってしまうのではないだろうかと、柔造は訳もないことを考えて、ゆっくりと手を伸ばす。温かな滴に濡れた頬に触れると、やっとその存在を思い出したように、涙を流したままの彼女が柔造を振り仰いだ。
「…志摩ぁ…」
囁くように、掠れた声で名前を呼ばれて、柔造はハッと我に帰る。
「どないした、蝮?」
その焦りや驚きを覚られないように、なるべく平静に声を出すが、そんなことは蝮にとってはどうでも良かったのかもしれない。こちらを見ているはずなのに、彼女の目には自分が映っていないように柔造には思われた。
「竜士さまが…」
「うん」
彼女の言葉を待つしかなくて、短い韻だけを返すと、やっと彼女の視線が柔造を捉えた。
「竜士さまが…あてに優しく…しはるのや」
それがまるで、命を奪う事象であるかのように彼女は言う。だが、それを聞いても、柔造には、何がそんなに彼女を苛むのか、分からなかった。返答がないのを知ってか知らずか、彼女はまだ続ける。
「あての髪を撫でて、目を撫でて、眠り、て、言うたんや」
その一つ一つは、彼女を慈しむ事柄のはずなのに、彼女は、それをひどく恐れているように語った。彼にしてみれば、何を恐れることがあるのだろうと思うような内容なのに、彼女の瞳からは止まることなく涙が流れ、その頬に当てられた彼の手を、蝮は縋るように掴む。
「どないしたらええの?」
それは、まるで親に叱られて途方に暮れる幼子に似ていた。また怒られるのではないかという恐怖と、もし見放されたらという恐怖が入り混じるような色を帯びたそれに、柔造は何と応えていいのか分からなかった。
とにかく「思い違いだ」とか「考えすぎだ」と、的を射ているのか分からない言葉で彼女をなだめすかして、彼女は彼女で泣き疲れたのか、蝮はそのまま眠ってしまったので、濡れた頬を拭いて、腕を布団の中に入れてやって、柔造はその一室を後にした。
だが、彼はそのことを恐ろしいまでに後悔することになる。
大きいというほどでもないが、関西圏の仕事に駆り出されて、柔造は三日ほど京都を離れていた。戻ってすぐに、蝮の顔を見ておこうと思って、彼は虎屋に足を向ける。
何の気なしに入り口で声を掛けると、彼の顔を見た女中がわらわらと走り去ってしまう。どうしたことかと思っているうちに、女将が廊下を走ってきた。
「どないしました?」
特に意識もせずにそう言うと、女将は、柔造の法衣の袖を握って、震える声で告げた。
「ああ、どないしよ…蝮ちゃんが…蝮ちゃんが…!」
その言葉に、柔造は弾かれたようにその場から駆けだした。
何が起きたのか、初め、彼には分からなかった。
起こされた上半身。蝮は茫洋とした視線を柔造に投げかけた。その顔は、紙のように白く、身体は、仕事に出る前よりも縮んでしまったように思えた。
たった三日だ。たった三日で、人はここまでやつれるだろうかと、柔造は愕然とした。
だが、それだけでは済まなかった。
「蝮、お前、どうし」
「ああ、志摩。お帰り」
茫洋とした視線のままで、そうだというのに、彼女はにっこりと微笑んだ。怖気が彼の背中を駆け抜ける。視線は、少しも彼を捉えていないのだ。それなのに、彼女は作り込まれた顔で笑う。
何がおかしいかと問われれば、全てがおかしかった。
何一つ噛み合っていない。微笑むのも、「お帰り」などと言うのも、全てが全てちぐはぐだった。そのどれも、今の彼女に沿うものではない。
「蝮、いいから横になりい!何考えとるんや、そんな身体で、そんな顔して…!」
「何のことや?志摩は心配症やな」
くすくすと彼女は笑った。本当に、可笑しなことを言っているとでも言うように。
柔造は、蝮に駆け寄ってすぐに布団に倒す。触れた彼女の身体は驚くほど熱かった。何の抵抗もない。…ないのではない。出来ないのだ、ということを、彼は瞬時に理解した。こんなに高熱を出しているのに、彼女の肌は、死人のように白かった。
だが、無理矢理横にならせたそこで、彼女は不機嫌そうに、だがどこかからかうような笑顔を作る。作る。そうだ、作っただけだ。彼女は何一つ分かっていない。ただ、適当に、その場に合うような表情を張り付けているだけ。だが、その表情一つ一つはその場に合っていないのは元より、あまりにも作り事めいていた。
(めいて…?…ちゃう…)
冷たい汗が背中を伝う。もしかしたら、と、恐ろしい考えが脳裏を過った。作り事めいているなどと、彼女は知らないのではないか、と。自分が、作り事で全てを塗り固めていることにすら、彼女は気づいていないのではないかと。
「蝮、まむし、やめ。頼むから、頼むからもうやめ」
ひたと彼女の頬に手を当てて、柔造は懇願する。やめてくれ、と。すると、彼女の顔にのっていた表情が、すっと、音を立てるように消えた。それは、先ほどとはまた違った恐怖を齎す光景だった。やはり、全て作り事だったのだと分かったのに、それは少しも安心というものに結び付かなかった。
「蝮…」
辛うじて名前を呼ぶと、頬に当てた手に、つうと滴が伝う。泣いているのだと、気がつくのにひどく時間がかかった気がしたが、彼女は、何の感情もこもらない顔で、ただただ静かに涙を流していた。
「蝮、どないした?なんも怖いことなんてない」
怖いこと。そう自分で言って、彼は三日前の事を思い出す。彼女は、恐怖に震えていた。恐怖に震えて、ちょうど今のように涙を流していた。ドクンと心臓が鳴る―その恐怖の根源が理解できずに、結局適当なことを言って、この部屋を後にしたことが、もしかしたら大きな失策だったのではないかと。
「どうしたら、ええのか…もう、わからんの」
彼女はぽつりと言った。それこそ本当に、途方に暮れる幼子のように。「何が」と聞こうとしたが、のどがからからに乾いて、声が出なかった。
「竜士さまは、あてに何を望むんやろ?」
「?」
「なんで、許すなんて言わはるの?どうして、どうして、どうして」
どうして、どうして、どうして、と、彼女は途切れることなく言い続けた。呆然とそれを聞いていると、やがて彼女は笑おうとした。―笑おうとしたのだと思う。だが、それは、口の端が歪んだように引きつっただけだった。
忘れていた。もう、ずっと昔のことのように思っていた。彼女が、何一つ受け容れることが出来なくなってしまっていたことを。声に、手に、少しずつ反応するようになったから、もうきっと大丈夫だと、どこかで高を括っていた。
全てが片付いて、初めて彼女の許を訪れた時の言葉を、もう忘れていた自分に、彼は、少しずつ身体が震えるのを感じた。また繰り返せというのだろうか、と。だが、眼前に横たわる彼女は、もう、少しずつ上向いてきた彼女などではなかった。それこそ、己にその恐怖を告げた時よりもずっと酷い。
『怖いんや。贅沢やって知ってる。せやけど、あては全部を裏切った。だから、怖いんや』
彼女はやはり泣きながら、そう柔造に告げた。荒い息のまま、動けもしないのに、柔造から逃げようと身をよじって彼女は言った。
『そん優しさが、怖い』
それは、彼女の恐怖の根源に近い。不信、それが彼女を裏切りに駆り立てた全てだった。だから彼女は、明陀の中で、誰かを信じることが出来なかった。―本質的な問題だ。蝮にも分かっている。彼女を守ったのは、和尚であり、柔造であり、明陀であって、誰ひとり、彼女を裏切ったりしない。だが、裏切りを働いた彼女自身の心には、誰しも、簡単なことで、何より大切なものを裏切ることが出来るという、それが深く染みついて離れなかった。
「坊の…優しさが、怖いんか」
彼女はそれに、頬に当てられた柔造の手にすり寄った。だが、その顔には、まだ歪んだ笑みのようなものが張り付いている。そして、柔造の手に頬をすり寄せる、それ自体が、肯定なのか、否定なのか、それとも、何一つ分からなくなってしまった故なのか、それは判らなかった。
歪んだその口から、ふふと、小さく空気を震わせるような音がこぼれた。それがもし、乾いた笑いのつもりなのだとしたら、彼女はもう、全てを失ってしまったのかもしれない。
ああ、と、柔造は、どこか他人事のように嘆息をもらす。
壊れてしまった
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