「蝮を、うちに連れてきたらあかんですか?」
蝮がそのまま眠ってしまったのちに、柔造は出張所に掛け込んだ。そこにいた八百造に、必死にそう告げる。
「どないした柔造?」
「あそこにおったら、蝮は、あそこにおったら、ほんまに削れてまう!すり減ってまう!うちやなくてもええ。詰め所でも、どこでもええから、とにかく、坊の目ェの届かん所に、蝮の目に、坊が映らん所に、動かしたってください。頼んます!」
それに、八百造は、ふうと息をつく。
「そん話か…実はな、坊が」
八百造が言い差したところで、所長室の扉が開き、勝呂が現れた。
「坊…!」
扉に背を預けて、勝呂は二人に視線を向ける。無言だった。その姿に、柔造はカッとなって叫ぶように言う。
「坊、蝮にはもう近づかんでくださいっ…!」
「柔造!お前、何てことを!」
八百造が叫ぶ。だが、いきり立った柔造は、今にも勝呂に掴み掛りそうだった。
それにも勝呂は無言だった。だが、その顔に、怒りともとれるような表情を浮かべていた。
それから勝呂は細く息をついて、振り向き、扉に手を掛ける。その後ろ姿を見ているであろう柔造に、ここに来て初めて声を掛けた。
「柔造、お前、ちょっと旅館に来ぃ。俺の部屋や」
それだけ告げて、彼はその部屋を後にした。
「来たか」
部屋に行くと、勝呂の顔には相変わらず怒りに似た表情がのっていた。それに、柔造も怒りでもって応じる。
「どういうことです。蝮に何をしたんです!」
後ろ手で障子を閉めて、柔造は勝呂に噛み付いた。
「なんでそう思う」
「坊しかおらんでしょう!?あないに蝮を追い詰めるんは!」
叫ばれたそれに勝呂はスッと顎で座るように示す。従いたくはなかったが、柔造はどっかりと腰を下ろした。
「…蝮は、この三日何も食べとらん」
「っ!?」
「薬も飲まん。水は無理やりにも飲ませてる」
そこで、勝呂は一つ息をつく。
「原因は俺や」
「な…!」
そこまであっさりと肯定されるとは思っていなくて、柔造は言葉を失う。
「俺が部屋に行くたび、段々蝮は動けんくなって、食欲ものうなって、今の状態や」
会ったんやろ、と言われて、柔造の中の感情は爆発しかけた。
「分かっとるんやったら、もう蝮には近づかんでください…!」
だが、押し殺すような声で彼は言う。このままでは、眼前の少年を殴り飛ばしてしまいそうだと思った。
「逃げてええんか」
それに反して、静かな声で勝呂は言った。その意味が分からなくて、柔造はまた噛み付こうとする。
「何が!」
だが、言い差したところで、遮るように、勝呂が大きな声で言った。
「逃げて、蝮の心を閉ざさせたまんまで、それでお前はええんかって聞いとんのや!」
そんなの!と、彼は思う。そんなの勝手だ、と。そんな、無理矢理彼女の心に入り込もうとして、傷つけたのはどちらだと、叫び出そうとする心を抑えつけて、それでも柔造は声を荒げる。
「それで蝮が傷ついてもええて言うんですか!?」
「傷つく、やと?お前、何言うとんのや!そんなん、初めっから、蝮はぼろぼろやったやないか。明陀の誰も信じられん、そういう顔しとったわ」
「え…」
虚を衝かれたように柔造は言葉を失った。頭の中で警報が鳴る。その先を、口にしないでくれ、とでも言うように。
「勘違いしとんのと違うか?俺が来んかったら、蝮はそのまんま良くなるとでも思っとったんか?自分には心開いとるとでも思たか?追い詰めてへんとでも思たか?」
「何…言うて…」
声が出ない。己に理があるはずなのに、目の前の彼を糾弾する声が出ない。
「少しは良くなっとるかと思ったら、全然良くなってなん、おらんやないか。お前、言うたよな?大丈夫やて。どこがや!少しも大丈夫なところなんてあらへんやないか!違うか?ほんまに大丈夫やったら、なんで俺の言葉にあないになるんや。大丈夫やて無責任なこと言うたお前の前ですら、なんでなんもできんのや」
怒声は、徐々に静かに諌めるように響いた。だが、その視線だけは、緩むことがない。そして、彼は、柔造がずっと避けてきた核心を口にする。
「蝮を盾にとって、自分守っとるのはお前や、柔造」
冷や水を浴びせられたような気がした。こちらを痛いほどに睨みつける少年の言葉が一つずつ突き刺さる。
心のどこかで分かっていた。『怖い』と言った彼女に、正面から向き合おうとせずに、綺麗な言葉を並べて、彼女の心から遠ざかって、彼女の心を遠ざけて、それで、まるで、彼女の体と精神が良くなっていると「勘違い」しようとして。
分かっていた。己に向ける顔が、諦めなのだと。だが、認めたくなかった。彼女は、自分に心を開いていて、心を許しているのだ、と、そう思いたかった。
どこまで勝手だったのだろうと思う。そんなこと、分かっていたのに、目の前の彼に言われるまで、全く知らなかったような顔をしていた自分が、たまらなく許せなかった。
紛い物の優しさなんて、彼女は要らなかったはずだ。そんな、自分を慰めるための優しさなんて、向けられても困る。
「お…れ…は、」
なんてことをしていたのだろう、という、冷たく暗い思考が落ちた。
彼女が、本心から恐れた『優しさ』を、勝呂は迷いなく向けた。だからこそ、彼女は、本心からそれを恐れた。だが、そうして恐れられることを、彼は恐れなかった。それは、傷ついているように見えるだろう。だが、本当の意味で彼女を追い詰めていたのは己だと、柔造は、畳に手をついた。
勝呂の向けた優しさを、彼女が理解できなくなったのは、間違いなく自分のせいだと思った。
何が彼女をこんなに追い詰めるのか。どうして知ろうとしなかったのだろうと、彼は今やっと後悔する。「何が彼女をこんなに追い詰めるのか」―その問に、彼は『優しさ』と答えを出していた。だから、不用意な優しさは、彼女を傷つけると。それは、理解には程遠い。もし、本当に優しさが彼女を傷つけるなら、今まで自分が手渡してきたものは何だったのかという、矛盾に彼は突き当たる。
彼女が傷つかないなら、それは優しさではないということになる。だが、彼は優しくしていたつもりだった。ひどい矛盾だ。
本当に、彼女を追い詰めて、傷つけていたのは、偽りの、紛い物の『優しさ』。頭のどこかで気がついていた。『優しさ』に、彼女が「傷つく」はずがないのだと。
「ずっと…俺が、ずっと…紛いもんの優しさでばっかり、蝮んこと、何とかできるて思っとったからや…せやから、蝮は、もう、ほんまの優しさに気ぃつかんかった」
そこで、彼は、一拍息を吸う。荒い息だった。
「ちゃう…蝮は、ちゃんと気がついとった。せやのに俺は、また、目、逸らして…」
ぼろりと、涙が落ちた。泣きたいのは、きっと彼女の方なのに、泣いている、泣くことが出来る己が、憎い。
蝮は、間違いなく勝呂の向ける優しさに気がついていた。『怖い』と言って泣いたのは、間違いなく本心だった。だが、大丈夫だと己に笑い掛けるそれが、偽って、偽って、作ったものだと、知っていたから、余計に目を逸らしたくなった。違うと言うように。そんなの、彼女の本心ではないと言うように。
「結局、俺は…自分が可愛かっただけか…!」
叫ぶように言って、畳を殴りつける。鈍い音がした。勝呂の、苛烈なまでの視線は、まだこちらを向いていた。
「どないする」
「…は…?」
「俺はお前に、蝮を任せてええんか」
勝呂の視線は、苛烈だが、同時に、真剣さを帯びていて、柔造は、ああ、と思う。この少年の方が、よっぽど大人になってしまった。
だが、柔造も逸らしていた視線を勝呂に戻す。それに、彼は一瞬、怯んだように肩を浮かす。それもそうかもしれない。柔造のそんな視線を向けられたのは、初めてのことだった。
己以上に苛烈で、そして、どこか焦燥を帯びた視線。
「お前なあ、ちょっとばかし盲目すぎんか?」
勝呂は、視線を逸らすと、ふうと息をつく。本当に、困ったものだと思った。己より十も年上の男が、たった一人のためにこんなふうになるなんて。
別に、彼が自分可愛さに彼女を蔑ろにしていたなんて思わない。ただ単に、少しだけ、見誤っただけだ。早く良くなればいいと思って、早く己を見てくれと思って。それはある意味盲目がそうさせたとも言える。
「『恋は盲目』て、言うけどなあ」
「…は?…えっ!?」
勝呂の一言に、柔造は、明らかに狼狽えて、サアッと顔を青ざめたかと思うと、顔を真っ赤にしてと、忙しい。赤い顔のまま、畳に視線を落とした彼に、勝呂は、僅かばかり呆れた視線を向けた。
(気づいとらんと、思っとったのやろか…)
追い打ちをかけるように、それを言ってやっても良かったが、勝呂とて、そこまで人が悪くはない。だが、少々哀れには思う。周りに気づかれていないと思っていたなど、これが知れたら、彼の末の弟など、どれだけ笑って、馬鹿にするか、想像するに難くない。
だが、そう考えてから、さらに重篤なことに気がついて、彼は息をつく。そもそもにして、周りがいくら気づいていようとも、その思いが向かう本人が、それに気づいていないなら、なんの意味もないのだった。
この一件が解決しても、先は長いぞと、他人事ながら思って、勝呂はもう一つ、長く息をついた。
「言うとくけど、次は助けんからな」
上手くやれよ、とは言わなかった。それは、今すぐのことだけではないのだから。
だが、その『次』という言葉に、柔造はハッとしたように顔を上げる。それから、次なんて、あるはずがないと思った。無理矢理にも引き留めてくれた彼女は、本当に危うい線の上に立たされている。
「もしかしたら、蝮は―」
「なん?」
「蝮は、坊がそうしてくれんかったら、戻ってこれんかったかもしれません」
「バカなこと言うな。まだ戻ってなん、おらんやろ。お前が連れ戻すんやろ!」
弱気な言葉を吐く柔造に、ギリッと言えば、真一文字に結ばれた彼の口許が、一音、落とす。
「はい」
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