ほんまに、仕様もないことばかりを考える―――
宵待
姉と弟
「あんた、家に戻らんの?」
9月の三連休、件の事件からまだそんなにも時間が経ったわけではないが、坊と子猫さんと俺は、何故か京都にいる。霧隠先生なのか、理事長なのか分らないが、とにかく上のお達しで気を遣われた、らしかった。新幹線の代金が出ているあたりそんなもんだろう、という推測だが、あるいは塾を休みにしたいという下心満載かもしれない。霧隠先生ならありうる、と思う。
そんなこんなで京都に戻ったはいいが、家に帰るのが少々億劫で虎屋の番頭部屋近くの縁側に出ていたら、後ろから声をかけられた。
「おっとお、蝮姉さん。どないしてん?」
「それはこっちのセリフ。こないなところでどないしてん?」
せっかく帰ってきたんに、と続けられたから、俺は言葉を濁す。
「いやー、まあ」
「子猫は一緒やないんか?」
着物姿の彼女は俺の隣に腰を下ろす。
「子猫さんは部屋持ってはりますやろ。そっち」
俺も虎屋に部屋欲しなあ、なんて、冗談めかして続けたら、隣の蝮姉さんは、可笑しそうに笑った。
「ほんなら、あてと一緒やな」
「へ?」
ふと横を見遣ったが、彼女はやっぱり可笑しげに、だけれど静かに笑っている。
「家に帰りたないんやろ?」
「……まあ、そーいうことになりますわ」
うちの熱血漢や阿呆とは違うて、この人に隠し事をするのは少々難しい。だから、少しぼかすに留めて言ってしまうと、蝮姉さんは微笑んだ。
「そんならやっぱりあてと一緒」
私も帰りたないの、と、涼やかな声が続けた。涼やかな彼女の声で言われるには、あまりにも重たい言葉だった。
「俺、蝮姉さんほど深刻と違うわ」
「ほうか?」
「ていうか!宝生の家いるの嫌なんやったら、うち来たらええよって何遍も言われてるやろ?そら、いろいろあるんわ分かるけど、別にうちおったから柔兄と結婚せなあかんっちゅー決まりあるワケやないし…」
「そんなら虎屋におってもおんなしやろ」
正論で返されると、言い返しようがなかった。というよりそもそも、自分が帰りたくないところに行け、というのは、我ながら、というか、思った以上に、というか、理不尽な言い様だった。
「ええやん。蝮姉さんこと、誰も怒らんよ。錦姉さんも青姉さんも、蟒様かて、怒るわけないやん」
「ますますあてと一緒やないの。八百造様かて、志摩も金造も、あんたが家におったからって怒らんやろ」
「……」
俺はまた黙ってしまう。別に、俺も彼女も、怒られるのが嫌だから家に帰りたくない訳やない。そんなにも簡単な理由やったら、こんなにも悩むはずがなかった。
「蝮姉さん、柔兄と結婚すんのまだイヤ?」
それとなく話題を変えたら、蝮姉さんは困ったように視線を坪庭に投げた。話題を変えた、といっても、どうしてか、大して変わっていないようにも思われた。
「悩み中」
「ほほう、悩む程度には視界に入っとるんか。柔兄良かったなあ」
「あんたは相変わらずやね」
ずっとバレバレな態度だった柔兄に気付いてへんのは蝮姉さんと周り数名くらいで(それが兄弟姉妹という悲劇だ)、まあ予想通りだったというか、何というか、だったが、蝮姉さんとしては、そう簡単に了解できることでもないのだろう、と思う。先日の件が、尚々それを強くしているように思われた。
「ちなみに訊くけど、柔兄のどの辺が駄目なん?」
「あんたなあ…」
「ええやん。モテ男の駄目な部分聞いといたらそのうち役に立つかもしれんやろ!」
「ほんまにこの子は…」
呆れたように息をついて、彼女はだけれど微笑んだ。
「志摩に駄目なところなん、あらへんよ」
「……え」
ちょっと悪い予感。当たりそうなちょっとだけ悪い予感がした。当たらなければいいけれど、多分当たってしまう予感は、ずっと柔兄の、あるいは隣に座るこの人の弟だったからかもしれなかった。
「私がいかんの。ええ訳ないやろ。志摩と結婚なんぞしたら、宝生どころか志摩の家にも泥塗ることになる」
(ほら。やっぱし)
予感がびったり的中して、俺はなんとも言えん気持ちになる。志摩だの宝生だの、明陀だのと、彼女は言うのだ。だからなんとも言えん気持ちを通り越すと、何とも言えず攻撃的な気持ちになった。彼女に対して、というよりか、自分の親兄弟や、周りの大人たちや、幼馴染に対して、攻撃的な気持ちになった。
「そない体面大事なん?イヤやわー、ほんまイヤやわー。明陀だの僧正血統だの」
跡取りやのうて良かった、と大仰に続けてやったら、座っている蝮姉さんがちょっと伸び上がって俺の頭を撫でた。
「廉造は、明陀嫌いか?」
そうして、彼女は静かに問う。体面がどうの、跡取りがどうのと啖呵を切ったはいいが、彼女に向かって言うべきことではなかった、と、今更のように思い至った自分が阿呆らしかった。俺もやっぱり、兄弟と大差ない頭の出来らしかった。
「えーっと……」
俺は何とかごまかしの言葉を探る。啖呵を切ったくせに、蝮姉さんが命を懸けて守ろうとした組織を、嫌いだ、と一言言い捨てるのは、流石の俺でも憚られた。
「嫌いでええんよ」
「ちょっ、タンマ!待ってや!」
そんな俺の思考を読んだように、蝮姉さんは庭にまっすぐ一つになってしまった目を向けて、横顔で微笑んだ。
「だあれも、怒ったりせんわ」
「……」
「嫌やったら、逃げてええんよ」
じゃあなんで、という言葉は、声にはならなかった。
―――じゃあなんで、蝮姉さんは逃げへんかったの?
―――じゃあなんで、蝮姉さんはまだ逃げへんの?
声にならない言葉たちが霧散する。残暑の厳しい昼過ぎの庭には、熱気が篭っていた。
ほんまに、仕様もないことばかり考えるお人やな、ということだけが、いつまでも宙に浮いていた。
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