弟と兄
「柔兄ーおってんかー」
日が暮れる前に、西日の中を虎屋から出張所に向かう。そうそう部外者が立ち入れる場所でもなかったが、案外すんなり入れた。今日は早番だったくせにまだ帰っとらんかったから出張所まで来た訳だが、ちょうど帰りしなの一番隊の人から、隊長なら一人残って残業中、と言われたため、デスクに向かう。相も変わらず書類捌きは苦手らしかった。
「あ?廉造か?何しとんのや、こないなとこで」
遊び場ちゃうぞ、と、ぴったり終わったところらしく、荷物をまとめて書類を確認している柔兄に言われた。
「……え?てかなんで居るん?え、ほんまにお前こんなとこで何しとるん?ついに退学させられたんか!?お前、そういうことはもっと早う兄ちゃんに相談せえや!お父がハードル高いんは分かるから、そういう大事なことはせめて最悪の事態になる前に俺には相談せえ!嘘やろ、金造かて卒業できたんやぞ!?」
「ちゃうわ!幻想繰り広げんな!連休やから帰ってきただけや!金兄以下とか、柔兄、なんちゅー失礼なこと考えとんの!?」
さっきのはとっさに出てきただけらしい。我に返って俺を認識した柔兄のひどい幻想に噛みついたら、ぽかんとされた。柔兄も、だいぶ阿呆なんちゃうかな、とぼんやり思った。
「じゃあ、ますますなんでこないなとこおんねん。お母キレるえ」
「ええねん、いっぺん顔出したし。家行ったけど、早番やのに柔兄おらへんからこっち来てん」
「は?用事か?」
「そうそう、用事よーじ。コーヒー奢ってや」
「そういうしょーもないたかりは金造にせえ!」
「逆にたかられるわ!」
「知っとるわ!」
「ヒドすぎる!」
ギャーギャー言い合っていたが、柔兄はちらっと時計に目をやる。そろそろ夕飯時だが、まだ日は長い。それに、多少遅くなるのは日常茶飯事だったから、多分家族も気にしないだろう。というか、所長である父はまだここに詰めているはずだった。
「出張所の裏の自販機でええか」
「えー、サ店連れてってやー」
「お前の語彙も年代どないなっとんねん。金造と変わらへんやんか」
ぶつぶつ言いながら、柔兄は荷物をボスっと投げてよこす。
「荷物持ちかいな」
「奢ってやるから文句言うなや」
「やった。一番高いやつ頼んだろ」
「調子乗んなや」
(…お?)
鉄拳が飛んでくるかと思ったが、調子に乗るなと言っただけで兄はすたすたと廊下に出る。
「何してん?行くえ」
掛けられた声に、間延びした返事をして、後に続く。自分から声をかけたくせに、その背中が、ひどく疎ましかった。
「授業どうや」
「んー、ま、ぼちぼち?」
連れてこられたのは、結局喫茶店ではなく、どこにでもあるような駅前のコーヒーショップだった。まあ、男二人で喫茶店、というのも少々いただけないものだから、妥当だろう。
授業がどうか、なんて、当たり障りのないことを言う兄が、やっぱり少し疎ましい。
(疎ましい、か)
本当は多分違う。
本当に疎ましいのは、
たぶんじぶん。
だけれど、この兄が、というより、今の兄が疎ましいのは、たぶん、それはそれでほんんまやった。
「ていうか柔兄、よくホットなんて飲めますなあ。残暑でっせ?あ、心頭滅却とか坊みたいな説教はナシな」
「アホ。エスプレッソでアイスなんぞあるわきゃないやろ」
「苦ぁ…」
「ちゅーかお前こそキャラメルマキアートってなんやねん。甘すぎるわ」
「ええー、こういうんが女子受けすんねんて」
ジュウッと、その冷え切った液体を行儀悪く音を立ててすする。確かに、少々甘すぎるかもしれなかった。
「柔兄さあ」
「なん?」
疎ましい
だけれど
羨ましい
息苦しくない場所があることの、なんと羨ましいことか、と思う。
息苦しさを感じない男の、なんと疎ましいことか、と思う。
「あんた、明陀好きやろ?」
思った以上に冷たい声が出た。氷でいっぱいにされた甘ったるい液体のせいだ、と心の中で言い訳する。
「そう見えるか」
短気な兄とは思えないほど静かに返された。それは、俺の声が冷たかったからもしれず、それを兄が『本気』と取ったからかもしれなかった。
「んー、まあ、金兄ほど熱上げとる感じには見えんけど、わーりーとー?好きそうやんね」
僧正家とか、血統とか。と俺はイヤミのように続けた。それは、ほんまは厭味ではないのだけれど。
「嫌いや」
だから、俺はその応えに息を呑んだ。
答えの内容に、ではない。その応えの気迫に、だ。
スツールに座る兄が発しているのは、底冷えするような気配だった。
至極真面目な声で、「嫌い」と言った兄の声が、頭の中でわんわんと警報みたいにこだまする。それに、ひどく、己が疎ましく思えた。理由は知れない。
「ほんまに嫌いや。明陀とか、血統とか、跡取りとか、僧正とか、祓魔師とか」
兄の口からは、兄の現在の立位置を構成する、ほとんど全ての条件が吐き出された。心底、それらを憎むように。
「明陀さえあらへんかったら、なんも奪われんかった」
(嗚呼―――)
その一言に、俺はもう一度息を呑む。兄の言いたいことが、殆ど解ってしまった己が、やっぱり疎ましかった。
日々の全てを、奪われなかった。
奪われなかったはずやった。
普通に学校行って、就職して、結婚して。
死が隣にあることも、恐怖が隣にあることも、
無い、はずやった。
「なんも、奪われんと思っとった」
呟くように兄は続けた。そこに、底冷えするような気配はもうなかった。
「そやけど、明陀があらへんかったら、好いとう女のこと、なーんも知らんで終わったんやろな」
拍子抜けするような、明るい、というか、軽い言葉に、俺はちょっとだけ、落胆して、そうして、大いに救われた。大いに結構なことや、と思った。
与えられるものがある分、こん人は幸せなのかもしれない。
与えるそん人の痛みを、背負おうとか、そういう気概がありそうだと、妙に静かな気持ちで思った。
「蝮姉さんがな」
「うん」
「明陀から『逃げてええ』って言わはるんよ」
「ほうか」
一言ひとこと言う度、心はひどく凪いだ。
「蝮姉さんは、逃げたないのかなーとか、柔兄は逃げたないのかなーとか、思うワケ」
キライなんやろ。と小さく付け足したら、兄は小さく笑った。
「逃げたい、な」
多分、蝮も。と兄も小さく付け足す。だけれど、多分二人は逃げ出さない。
「やって、そやろ。全部押し付けられてんぞ。跡取りも、祓魔師も―――明陀も」
蝮姉さんが、兄と結婚したら、多分、二人ともその明陀というものから逃げる機会を、一生失うのだろうな、とぼんやり思ってきた。
―――今も思っている。間違いなく、逃げられなくなるだろうと思う。
「羨ましなあ」
だけれど、口からこぼれたのは、全く違う言葉だった。
逃げられないのに。
逃げたくて仕様がないのに。
共に歩む人がいるだけで、今までを歩いてこられて、此れからを歩いていける兄が、ひどく羨ましく思えた。
「悔しなあ」
だけれどやっぱり、兄も己も、ひどく、疎ましかった。
一番仕様もないのは己かもしれない。
「蝮姉さん、いい加減口説き落としてや」
捨て台詞のように言ったら、可笑しげに笑われた。それは、いずれ姉になる人の、可笑しげに笑うによく似ているように思われた。
―――帰りたくない、という彼女を、早く家に帰してほしいと、他力本願なことを考えた。
「阿呆らし」
兄に聴こえないように、小さく、小さく呟く。
―――それで、自分の帰るべき場所が生まれる訳ではないのだけれど。
でもそれで今は十分な気が、少しだけ、した。
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