隊に戻って一週間。総隊長に呼び出された結果として、偶さかの休みは、隊首室を片付けることで半日を費やすことに相成った。
 片付けるも何も、隊首室は伽藍堂だった。あの人の私物は、一つ残らず運び出されていて―いや、そうでなくても、東仙の私物は、いやに少なかったように思う。それが、彼の性格や嗜好ゆえのことなのか、それとも、何れの日にか瀞霊廷を裏切ることを前提にして、物を置かなかったのか、そんなことすら、もう俺には知る術がなかった。
 だが、ここはもう、本当の意味で東仙のものではない。俺が、彼に『隊長』という呼称を付ける日も、もう来ない。この部屋は、新たな主のために在るのだから。


「…副隊長!」
「ッ…!」

 唐突に肩に手を置かれて、俺は我に帰る。部屋の真ん中、俺が勢いよく振り返ると、彼は即座に距離を取って頭を下げる。

「失礼しました!何度呼んでも御答えがないので、入ってしまったのですが…大丈夫ですか?ずいぶんお疲れのようですが…」

「あ…ああ。悪い。大丈夫だ」

 恐縮したふうの三席に軽く手を上げて、自分が、この部屋の真ん中で長いこと呆けていたことに気がつく。片付けには三十分もかからなくて、床を拭いて、床の間や机のほこりを払って、新たな花入れや湯呑を配置しても、そうそう広い部屋ではないから、小一時間で済んでしまったはずだが、そこからの記憶がない。

「何か用か?」
「はい。更木隊長がお呼びとのことです」
「更木隊長が?」
「隊首室にいらっしゃるそうで、いつでもいいとのことでしたが…」
「分かった。すぐ行く」

 もう片付けは終わっていて、三日後のどこの誰とも知れない隊長の就任を待つだけとなった隊首室を後にしようとしたところで、三席が躊躇いがちに声を掛けてきた。

「その…せっかく御休みまで取られたのに、よろしいのですか?」

 そう言われて俺は、改めて自分の服装を思い出す。紺の着流し、黒の帯。刀は持っていない。少し考えて、それから、俺はにこりと笑う。

「更木隊長は怒っけど、俺の用事の相手は怒らねえから」

 困惑したような三席の瞳に映ったそれが、思うより上手く出来ていたことが、少しだけ可笑しかった。




「更木隊長は」

 十一番隊の隊舎は、相変わらずうるさい。大声で所在を聞くが、大した返答は帰って来なかったので、適当に中に入る。席官のいるあたりまで来ると、厄介な男と目が合ってしまった。

「なんだよ、檜佐木。非番か」
「悪いんだが、更木隊長に用がある」
「んだよ、付き合い悪ィな。刀も持ってねえとこ見ると、女かァ?」
「るせーよ」

 にやにやと笑った斑目に食って掛かるほどの気力が、今日はない。

「てめえなあ!付き合いとかあんだろうがよ!まあまあ、檜佐木副隊長殿に愛想なんてもんを求めた俺が悪かったのかもしれませんがねえ?」

 相変わらずの挑発に、付き合いきれないと一つ息をついた時だった。

「うるせーぞ!」

 部屋の奥から怒号がした。

「げっ!隊長!」

 ガラリと引き戸を開けて現れたのは、俺を呼んだ更木隊長だった。

 彼は斑目に一瞥をくれて、それから俺の方に向き直ると、一言言う。

「来い」

 それだけ言うと、彼はまた引き戸の向こうに消える。引き戸は開いたままでそこに入らざるを得ないことが窺い知れた。

「だとよ」

 斑目は、興味を失ったように顎で隊首室の方を示すと、ツイと視線を逸らす。俺は、それに従うつもりではなかったが、そのまま隊首室に向かい、後ろ手で開いた戸を閉めた。




「非番だったか」

 俺の姿をゆっくりと眺めて言われて、俺は居心地悪く掴んできた風呂敷包みに手をやる。

「ええ、まあ」

 歯切れ悪く応えると、彼は目を細める。彼が、そう簡単に忘れるはずがないということを分かっている俺は、ますます居心地が悪くなって、声を上げた。

「草鹿は」
「…今日だったな」
「ッ…」

 だが、俺の言葉を無視して、彼は低い声で言う。言い当てられた俺はというと、どうしたらいいのか分からずにぐっと包みを持つ手に力を込める。

「邪魔したのは悪かったと思ってる」

 彼の口に似合わない謝罪が出てきたことにも、俺はどんな顔をしたらいいのか分からなくて、絞り出すような声しか出なかった。

「隊長は、行かなきゃ怒りますけど、二人は…あいつらは、行かなくたって怒りはしませんから」

 笑おうとして、俺はそれに失敗した。口の端が歪んだだけのそれに、彼はますます機嫌が悪くなったように目を細める―それが決して機嫌が悪いからそうしている訳ではないと、知ってはいるのだけれど。

「律義なもんだ」

 彼の言葉に、俺は今度こそ乾いた笑いをもらす。別に、からかわれた訳でも、馬鹿にされた訳でもないのに。分かっている。彼は、俺がそこに行くことを良しとしない。

「俺は、あなたのように強くはありませんから」

 口許には乾いた笑みが張り付いているのに、俺の手はかたかたと震えた。

「まだ怖いか」

 指摘に返答しないのは、何よりの肯定だろうと思う。恐怖―それは、俺の留金であり、同時に俺のよすがだった。刀を抜くのが怖い。戦うのが怖い。それは、今でも変えようのない事実だった。その全てを見透かしながら、結局彼は何も言わなかった。




「…九番隊に隊長が就任することは知ってるな」
「ええ」
「誰かは聞いたか」
「聞いてません。俺、ちょっと心配なんですよ。阿散井とかだったらどうしようと思って。だって、あいつ卍解できるでしょう?器云々は別として、可能性としては十分あるなって思ったら、何て言うか、ほら、あいつのこと隊長とか呼ぶの、ちょっと抵抗あるし」

 俺はいつになく饒舌だった。解っている。阿散井ではなくても、他の誰でも、きっと俺にとって、その『誰か』を隊長と呼び、慕うのは、ひどく難しいことなのだと。受け容れがたいことなのだと。だが、その思考を知ってか知らずか、彼は淡々と切り出す。

「今ここで聞いたことは、隊長就任の正式発表まで口外しない。いいな」
「何をです?」

 返答した声は、思ったより冷めていた。多分、彼は、九番隊の次期隊長のことを、気を利かせて教えてくれるつもりなのだろうが、それは俺にとって、殊更興味のあることでもなかった。

(誰だって…一緒だ)

 俺は、新たな隊長が誰だって、愛想よく笑い、付き従い、忠誠を誓える。それが受け容れがたいことだとしても。それが上辺だけのことだとしても。

「聞け、修兵」

 彼は珍しく俺の名前を呼んだ。それは、束縛の力を持っていて、俺は宙に浮いた思考を戻す。名前にしろ、名字にしろ、俺の名を呼び、繋ぎとめるものは、もうこの世に数えるほどしかいなかった。

「俺も忙しいんです。手短にお願いできますか」

 それでも俺は、憎まれ口を叩いて居直る。だが、眼前で彼は微動だにせずにその片方しか開いていない目で俺を見据える。

「今なら、まだ後戻りできる」

 先ほどから、彼の口からこぼれるのは、彼に似合わない言葉ばかりだった。

「どういう意味です」
「今ならまだ、そいつを殺すこともできるって意味だ」
「馬鹿にしてんですか。別にいいですよ、誰だって。誰だって俺は従う。それが副隊長としての責務ですから」

 彼の目に、俺はその程度にしか映っていなかったのだろうか。そう思うと、沸々と目の奥に赤い光が見えた。

「俺ももう、ガキじゃない」

 そう言って、踵を返す。付き合いきれないと思った。彼にではない。彼の目にそう映る自分自身にだ。引き戸に手を掛けたところで、俺の背中に声が刺さる。

「六車だ」
「……は…?」

 その一言に、俺の思考と動作は停止した。

「六車拳西だ」

 ばさりと包みを取り落とす。だが、そんなことに気を留める遑もなく、俺は身体ごと振り返る。

「ウソだ…!」

 しかし、振り返った先で、彼はその糾弾に肯定しなかった。その瞳一つ。その視線一つ。嘘の介在する要素はなくて、そもそも彼が俺に嘘をついたことなど一度もなくて、俺は、先ほどとは全く違った意味で体が震えるのを感じた―違った意味で?違う。これもまた恐怖の一種だと、頭のどこかで警報が鳴っているのを俺は感じ取っていた。

「どうする」
「どう…って…?」
「今ならまだ、あの男を殺してやることができる」

 いやにきっぱりと彼は言った。もし望むのなら、彼は間違いなくあの人を殺すのだろうと思った。そんなことを、俺が望めないと知りながら。
 頭の中はぐちゃぐちゃだった。現世で偶然感じた気配。目に映った姿。過去。別離。一つ一つが鮮明に想起される。その中には、あの人のことだけではなくて、例えば『隊長』と呼ぶことを止めた人の姿や、失った友の姿も含まれていた。全てのことが押し寄せて、頭の中を掻き乱す。

「……ウソじゃ、ないんだな」

 その混乱した思考に逆らって、俺の口からは囁くような声が出た。それは肯定を前提とした問いで、思考に一応の区切りを付ける程度の作用は持っているかもしれなかった。

「ああ」
「それは、あの人が望んだこと?」
「それは本人に聞かねえと分からん」
「じゃあ、もういい」

 もういい、なんて、嘘みたいな言葉だ。本当は、まだ聞きたいことがたくさんある気がした。だけれどその一方で、何を聞いたらいいのか分からなかった。


 俺は落とした包みを拾い上げて、今度こそ本当に、百年以上主の変わらない部屋を後にした。