弐
「蝮様、私がしますから」
「ええのよ。うっとこの住処くらい自分で出来んでどないするの」
転役の挨拶をして、寺の敷地の中の蛇白殿と呼ばれる広大な建物の中に部屋であったり仕事内容であったりの説明を受けて、その部屋に行こうとした時のことだった。何やら廊下に面した中庭から女の声がした。
この山内に尼僧はいない筈で、柔造は首をひねって数歩進む。角まで行くと中庭が見えて、陽光にきらきら光る銀色の髪を背中まで伸ばした、白衣に黒衣を重ねたすらりとした女性がいた。
「う…あ…」
柔造は思わず変な声を上げてその横顔を見つめる。
「ああ、柔造か。ええとこに」
柔造に声を掛けたのは先程仕事内容などを説明した古参だった。それにつられる様にその女性もふと彼の方を見る。
(うああああ!)
二ヶ月、男しかいない環境にいたこともあるが、柔造は女性にモテはしてもあまり興味がなかった。だけれど、振り返った彼女は一目惚れしたって可笑しくない容姿の女性だった。……要は一目惚れした訳である。一目惚れの思考の後ろで、だけれど見たことがある彼女がちらつくのだ。
「蝮様、昨日お話した転役の柔造和尚です」
「ああ、うっとこに来てくれた人な。よろしゅう」
ぺこり、と蝮様と呼ばれた女性に頭を下げられて、柔造は働くことを拒否しかけていた思考回路を繋げることに成功した。
「蝮……?」
「呼び捨てにする奴があるか!」
「えっと、先パイ、その?」
「蛇白殿殿主、宝蝮院様!」
「はあ!?じゃ俺、その人の行者なんです!?」
先程受けた説明は、じゃあ何だったのだ、と柔造は思った。蛇白殿、この寺のトップで昔は父とのよしみで遊んでもらったこともあるが、今は最高上司である宝生蟒の子供が殿主を務める殿だと聞いていた。そこの殿主の行者、と言われて、柔造の‘めんどくさい指数’はぐんぐん上昇した。山の力を使って殿一個持ってる幹部なんていい御身分やな、と。
「法名で呼ぶことあらへんのよ。宝生蝮や。行かず後家で山に置いてもろてる放蕩娘ですわ。よろしゅう」
「えっと…」
「蝮様は結婚もまだの女性なんや!下手なもん近づけられんから、新参からお前が抜擢されてんぞ!期待されてんのや、気張りや」
古参が言ったら、蝮はほほほと笑った。笑って言った。
「気にすることあらへん。ここはあての殿やけど、殿の和尚様たちが一等大事な修行の殿や。あてのことは二の次三の次」
気張って修行してや、と笑った蝮に何か言わなくては、と柔造が口を開き掛けたところで、彼女は笑顔で言った。
「ほんま、兄様にそっくりやなあ」
「え…?」
「新参の中じゃ有名や。矛兄様の弟なんやろ?」
言われて、柔造は目の前が真っ赤になるのを感じた。一目惚れして何が悪い。ただの一目惚れじゃなかった。どこか記憶の内にある奇妙な一目惚れだった。そうだと言うのに、その彼女は、その彼女すら、兄を引き合いに出すのだ。
柔造は、気が付いたらガッと障子を殴っていた。
「まあ俺は、兄よりずっと不出来ですが、どうぞよろしゅう」
「柔造!」
すたすたと歩いていった柔造の背中を、蝮はぼんやりと眺めた。
「蝮様、あれには私からきちんと……」
「じゅうぞう、か」
「は?あ、ああ。そうです。柔造和尚と」
「ほうか。おおきゅうなったなあ」
互いに、と蝮が懐かしそうに、その背中を視線で追っていたから、その古参は困ったように彼女から竹箒を取り上げた。
「掃除は私がしますから」
「悪いなあ」
「矛造和尚のこと、あんまり言わはると、怒られますえ」
普通ならここで、柔造は気にしているから、と続く筈だったのに、その古参が続けたことは全く違うことだった。
「猊下…お父様に怒られるのは、もう十分でしょう」
「そうやねえ」
その言葉に、蝮は力なく笑った。
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