朝食を蝮に届けるように言われて、柔造の緊張と苛立ちの狭間でその膳を持つ。
 持って、入る部屋に蝮がいるのだ、と思ったら、ひどく怖かった。昨日、すぐには分からなかった。だってそうだろう?得度をせがんでいた女の子が、まさか殿を一つ持つほどになるなんて思いもしなかった。
 それに、あっちだって、と思う。憶えていなかったから、あんなふうに反応したんだろうと思った。だから、多分何を言ったって遠い昔の幼馴染なんてなかったことにされるのだろうと思った。

「失礼します。粥坐ですわ」
「おおきに。どうぞ」

 適当に声を掛けたら、了承の声があって、その声は丸きり昔と違って落ち着いていたけれど、確かに彼女の声なのだ、と思った。
 障子戸を開けたら、微笑む彼女がいて、その美しい銀糸の髪と、頬に掛かる刺青は、どうしたって彼女のものだったから、柔造は膳を置いて思わず言った。

「けっこう、ひどい女や言われません?」
「……やっぱりあんた、柔造やね」
「な!?」
「憶えてへんのはあんたの方やったろ」
「お前、憶えて…」

 呆然とする柔造に対して、蝮は素知らぬ顔でその膳の前で偈を上げる。慣れた声音だった。

「昨日、」
「食事の最中は無駄口利かん」

 ぴしゃりと言われたのは、上山して最初の頃に叩きこまれたそれと同じ作法だった。

「すっかり殿主様やな」

 思わず嫌味を言ったら、やっと視線を戻した蝮が可笑しそうに、そうして寂しそうに笑った。

「得度してん、あても」
「良かったやんか。蟒様にせがんどったから」
「せがんでさせてもらえるもんと違うの分かっとらんかったけどな」
「俺もや」
「あんた、会社行ってたんやて?」
「ああ」
「兄様が本山行かはったから連れ戻されたんか」
「そういうこと」

 一頻り近況を話して、柔造は彼女の執務用だろう文机に頬杖をつく。勤行は終わっていて、朝食の後に所用で出かける蝮の供をすることになっていたから、特に急ぎの用事はなかった。

「お前は?」
「あて?無理矢理うっとこの大学行って、得度して、資格取って、そやけどこの殿住まい」
「なんや、不満か?」
「修行行かれへんのよ」
「へ?」

 殿主までしていて、過去ではなく現在の兄のことを良く知っているようで、修行僧からの信頼も篤そうな彼女が修行に行けないとはどういうことだろう。ここの殿の殿主なのだから、それが修行で幹部なのではないか?という疑念で彼女を見たら、蝮はやっぱり力なく笑った。

「ちゃんと修行してここに戻ってくるつもりやったけど、父様が修行には出せんて」

 そう言われて、柔造の中に呼び起こされる記憶があった。それは幼い彼女の詮無いような希望だった。


『あてな、ちゃんと修行して、ててさまの跡にふさわしいんになるん!』
『俺かて、矛兄とおとんに負けんのになる!』

 そんなことを言い合う二人に、「気張りや」と笑ったのは兄だった。だけれど、それをたしなめたのは蟒だった。

『矛造さんと柔造さんはええ。けど蝮、あんたはならんでええのや』
『なんでです!?』
『あんたは誰かええ人見つけて、寺とは関係あらへんところに嫁いで幸せにならなあかん』
『あては、寺が一番ええもの!』


 その遠いやり取りをふと思い出して、まさか今でもそう言われているのだろうか、と思い、柔造は蝮を小さく振り返る。

「蟒様に怒られてん?」
「そやなあ」

 そうしたら、話は仕舞いや、と言って、蝮は黙々と膳を食べた。