「蝮!」
「うるさいお申やな」

 本当に、何事もない様に蝮は読んでいた本から目を上げた。結局、彼女のところに行けたのは夜の行が終わってからだった。

「寝んと体力持たんえ、新参者」

 笑った蝮の部屋に、柔造はずかずかと入る。入って言った。

「明日、見合いか」
「子猫からでも聞いたんか。ほうや。ええ人みたいでなあ、決めてまおうと思って」
「今まで散々断ってた癖にか?」
「……それは…」

 歯切れ悪く言った蝮を、柔造は強い力で睨みつけた。

 捕まえた子猫丸が言うに、破談になったのはもう十近い縁談だったという。大学教授だったり、経営関係だったり、はたまた政治関係だったり、とにかくこの寺の婿に遜色ない相手ばかりだったが、寺に関係する縁談だけは一つもなかった。そうして、蝮は父親との意地の張り合いのように全ての縁談を断ってきた。決まらぬのではないか、などというささやきもあったが、今回で決まるのなら、ということだった。
 聞き出した大学教授の名前が、彼女の手許の本の表紙にあって、柔造の目の前は赤くなる。

「尼、諦めるんか」
「諦めるもなにも、得度もしたし資格もあるわ」
「お前は好きでもない男に嫁ぐような女になったんか。変わったな」

 こんなこと言いたい訳じゃないのに、と柔造は思う。
 たった二日。たった二日で、昔の彼女と今の彼女が変わってしまったその現実が圧し掛かった。圧し掛かっても、それでも彼女が好きな気持ちだけは変われないというのに。

「あんたには分からん」

 突き放すように、だけれど助けを求めるように、蝮は言った。

「賭けに負けただけや」

 あんたには分からん、ともう一度だけ彼女は言った。

「どうせ分かりませんよ、お前に寄り添ってくれはった優秀で仕方ない兄様と違って」

 どうして、こんなに傷つける言葉を言ってしまうのだろうと思いながら、どうしてか、‘あんたには分からん’と言われて思い出されたのが、昨日彼女が出会い頭に言った兄に‘そっくり’というそれだった。……詮無いことではない。今日の晩の話題は、彼女が縁談を決めることで持ちきりだった。方々から出てきたそれに、柔造は持っていたペンをへし折りそうになった。


『やっぱりあれですやろ、蝮様も矛造和尚が本山に行かはったから』
『そやそや。ほんまに矛造和尚に懐いてはったから』
『本山行かはったらさすがに諦めついたんやろ』
『寂しゅうなるけど、蝮様のためやから』


 そんなことを古参たちは口々に言っていた。彼女が縁談を断っていたのは、矛造に操を立てていたからだ、などと、古い歌舞伎か浄瑠璃のように言う者もあった。

(そういうことか)

 柔造の中に沸々と苛立ちにも、寂寞にも似た感情が呼び起こされた。

(結局俺は、矛兄には敵わん)

 初恋の女すら、と、彼はその本人を目の前にして思った。だから、口から出てきたのは兄のことだった。

「兄様は、これでええって言うたわ」

 蝮は、その柔造の罵倒に微笑んで言った。薄氷のような微笑みで。

「初恋の男にも分かってもらえん女は、もう意地張らんと結婚するんよ」
「初…恋…?」
「あんたはあてに気付かんかった。あてが変わってもうたってことやろ」

 話しは仕舞いや、と蝮は哀しげに言った。

「ちょ、待てや!どういうことや!」

 思わず肩を掴んで言ったら、蝮は驚いたような顔をして、それから静かに言った。

「……あんたには、種明かししとくわ」
「種…?」

 もし、と凛とした声がその部屋に響いた。

「もし、初恋の男がこの山に来ることがあって、もし、あてがこの山におって、もし、その男があてのことを一目で分かったら、絶対この道を諦めんつもりやった」

 仮定だらけのその賭け事の末に、彼女は結婚すると言う。

「ちょお、待てや…」

 蝮は、兄に操を立てているのだと皆言っていた。だけれどそれは何か違った。

「初恋は、墓まで持っていきたいやろ?」

 寂しそうに笑って、蝮は一瞬だけ近づいた彼の額に唇を寄せた。


「さようなら」


 私の初恋の人―――