「あ」
大学の講義の後に、日常の延長線上のように一言呟く。いや、実際に日常の一環なのだから別段どうでもいい、と思ってしまった自分は、自分自身そのものに対してさえ淡白なのだろう。
そう客観視しながらも、予定よりも二日早かったな、と少しだけ苛立って講義で使うノートやら文具やらとは別に弁当だのメガネだのを適当に突っ込んでいるトートバッグの底の方を漁る。
「はいはい」
自分に言い聞かせるように、自分の中の何かに言い聞かせるように言って、処方された錠剤と飲みかけのペットボトルを取り出した。……ペットボトルのコーヒーだが、無糖だし別にいいだろう。そのシートに収まった錠剤をプチプチと一枚分取り出して、2錠ずつが6連で計12錠、ザラザラと口に放り込んで、それからそれを苦みも感じないような薄っぺらいコーヒーで体内に流し込んだところで厄介な相手に見つかってしまう。
「オイ」
「あー承太郎? ぼく明日から休むから。明日の講義って君と被ってたよな? 周りに適当に言っておいてくれないか。あとポルナレフも煩そうだけど連絡入れられるか分かんないから言っておいてくれません? 大学の方の休みについてはちゃんと自分で届けておくからさ」
へらりと言ったが誤魔化しきれずに処方薬の袋を手から奪われた。握り潰して捨てておけば良かった。ああ面倒くさい。
「何度も言ってるが、俺の目にはこの薬の注意書きに『一回一錠、水またはぬるま湯で服用』と書いてあるように読める」
「気のせいじゃあないのかい? もう包装だって破けてて読みにくいだろ?」
「それはお前がお構いなしに用法容量を守らず飲んでるからに思えるが?」
「相変わらず煩い男だな」
小さく呟いたらすごい剣幕で睨まれた。気持ちは分かるし有難いんだが、こっちはこっちで気が立ってる、のかもしれない。この時期はどうしてか承太郎のこの気遣いがお節介どころか苛立たしく思えるのは贅沢というものなんだろうと毎度毎度反省するのに、どうしても反抗してしまうのも、いい加減放っておいてほしいと思うのも、どうにもやめられない。
――分かっているのに。
ただの苛立ちだ。一時的な感情だ。
……ただの嫉妬だ。
「分かってるのに」
「分かってるなら」
「……うるさい」
「おい」
「黙れ。分かりもしないくせに毎回毎回煩いんだよ君は。黙っててくれないか、ぼくは君みたいに生まれつき優秀じゃないんでね」
そう言ったら承太郎が驚いたような顔をした。少し傷ついたような顔をしたような気もしたし、こんなことが言いたい訳じゃあないけれど、ぼくだって傷ついてる、なんてのは虚勢でしかないけれど、だけど。
「帰る」
短く言って彼の横を通り過ぎた。
『優秀な』彼の横を通り過ぎても、まだ何も感じない。
まだ大丈夫だ。早く帰って、寝てしまおう。
*
「……ま、今のは花京院が悪いが、承太郎も悪いわな」
「ポルナレフか」
構内の一画で、というよりかはいつも通り三人で帰るのに、学年が違うおれが今日はいろいろと待たせていたのもあり、二人が先にいた所に向かってみれば、見事に喧嘩している花京院と承太郎に行き当たった。二人ともおれには気付いていないようだったが、毎月毎月ようやるわ、と思いながら眺めていたが、それにしたって二人とも成長しねぇのなあ、と思ってしまう。
「前提としては花京院が悪いがな。あんな薬の飲み方してたら体ぶっ壊すぞ」
「それもそうだが、それ以前にだ。また薬の効き目が弱くなっている」
「……分かるのか?」
「まだ俺が分かる範囲でも微かにだがな。耐性が付き始めてやがる」
短く言って舌打ちした承太郎にため息が出た。
……花京院の第二の性はオメガだ。偏見だのなんだのはだいぶというかほとんど解消された、と言って過言ではない世の中にはなったものの、体質そのものが解消された、という訳ではない以上、周期的なフェロモンの波というのはどうしようもない。
特にそれが強いのがオメガの特徴でもあるから、そういう時期(あの呼び方嫌いなんだよね)には抑制剤を飲むのだが、花京院の場合はその時期の症状が重すぎた。
それが始まった頃からの知り合いだから、というのもあるが、周りに発するフェロモンもそうだが、発熱だの頭痛だのと、場合によっちゃあ失神までするほど重篤な身体症状まで出始める始末で、最初に処方された抑制剤ではどうにもならずにどんどん強くなる処方薬と、それに加えて。
「なんであの馬鹿は用法容量が守れねぇんだ。ラムネじゃねぇんだぞ? だからどの薬を飲んでも耐性が付く。そうすりゃ次に飲む薬はどんどん強くなる。どんどん体への負荷が強くなる。そんなことも分からんほど馬鹿じゃないだろうが!」
承太郎に叫ばれたが、言ってやるべき相手である花京院はもう帰った後だし、そういうことはもうおれたち二人で何十回と言っているからどうしようもない。
「ま、アルファのお前が感じ取ったんだから確実に耐性が付いて効き目が落ちてるのはそうだろうが、それは薬学的な問題だわな」
「だから!」
言い募る承太郎の肩に手を置いた。これも何度か言ってはいるが、だが今回ははっきり言っておくか、と思ってしまった。
はっきり言っておくか。
そうだな。今までだって花京院の過剰摂取みたいなことを咎めてきたことは何度もある。おれだって何度も止めた。だが、今回に限らずってワケでもないが、今回は承太郎自身が効きが悪くなっているのを感じたって言うんなら、コイツも分かっておいた方がいいんだろうな、と思ったら何だかんだと考えてしまう。
「おまえはそれ花京院に言うなよ、絶対に」
「……あ?」
「ていうか今回の件はこれ以上連絡すんな。これは薬学的な問題じゃなくて心理的な問題だ」
睨まれたが仕方がないだろう、とも思う。おれはベータだからね、と逃げを打つワケではないが、逃げというよりまだマシだし分からん、というのもあって適当にショートメールを打っていたらまたひどく睨まれて怒鳴られそうになったが関係がない、というふうにしていたら、察しが悪いわけではない彼はどこか少し悲しそうな顔をした。
そういう顔を承太郎にも花京院にも互いにさせたい訳ではない。ないんだが、仕方がない。
「周りが怖いから必死になって飲むんだろ。それが一番近くのおれとか、それどころかアルファのお前に気付かれる程、なんてなったら、怖いなんてもんじゃねぇよ」
俯いた承太郎に、精一杯の強がりだったのか本音だったのか、帰り際に聞こえた花京院の声が蘇った。
『分かりもしないくせに』
承太郎だっておれだって、別にそんなこと言わせたい訳じゃあないんだけどな。
*
承太郎に捨て台詞を吐いて、逃げるように構内から出てから、いつも通りにひどく後悔した。
「馬鹿なんじゃないのか、ぼくは」
いや、考えるまでもなく馬鹿だ。あんなに心配してくれている相手になんであそこまで言えるんだ、謝らないと、いけないのに。
謝らないといけないのに、怖くて仕方がない。
薬の飲み方を間違っているのだって、そんなことしていたら体を壊すのだって、薬が効かなくなるのだって、言われなくても分かっている。
分かっているし、言ってくれる相手がいるのはとてもありがたいことなのに。
「あやまら、ないと」
それなのに、怖くて仕方がない。
アルファだからとかじゃなくて、それで言ったら同じ様に叱りつけてくることがあるポルナレフはベータだ。
ただ単純に、承太郎やポルナレフから線引きされるのが、怖くて。
そう思っていたらマナーモードのスマートフォンに着信があって、ポルナレフからのショートメールだと気が付いた。この時代にショートメールというところがいかにも彼らしい、といつも通りに思ってしまうだけの余裕はまだあるみたいだ。
「なに?」
小さく口に出して、立ち止まって開いたそれには明日から一週間くらい休みなのは了解とかなんとかと、飯は食えの一言だけ。
承太郎から聞いたんだろうから、どうせぼくがまた薬を大量に飲んでいたのも知っているだろうに、当たり前のことのように言ってくる彼は、やはりどこか何か年上なのか、と思ったら安心からなのか、それとももっと違う何かなのか、力が抜けた。
「ごめん」
小さく呟く。謝らないと、治ったら、終わったら、ちゃんと二人に謝らないと。
今は薬が効いているから、早く帰って、寝て、治ったら謝らないと。
そう思って歩き出そうとしたのに、なぜか前のめりに倒れそうになって思わず近くにあったブロック塀に掴まっていた。あれ、これブロック塀? こんなとこにあったっけ?
ああ、そっか、ここ住宅街? あれ、ってことはアパートの近くまで来てるのか?
そう見当違いなことを考えてはみたが、これはおかしいと脳のまだ冷静な部分が考える。
「まず、い」
大学で、ちょっと微熱があるなと感じた。その後に直感的にこれは発情期だと気が付いた。周期的に少しずれがあったし、もっと言うならアルファの友人である承太郎を見ていても何も感じなかったが、確かに発情期だ、という確信があって、そのまま抑制剤を飲んだ。
確かにその通りだったそれが何故分かったのかは自分でも分からなかったが、それくらいキツイやつが来るんじゃないか、という予感はあった。だからいつもよりもひどい言葉で承太郎との会話を切り上げて、ポルナレフが来るとかなんとか考えずに逃げてきたのはその通りでもあった。そのアルファである承太郎の目の前で飲んだわけだけど、特に何も言ってこなかったから変化には気付かれていないはずで……?
「いや、彼はたまに、重要なことでも口にしないでいることが、あるから……」
こんなことならポルナレフを待って、タクシーでも、よべ、ば……。
「そんなことを言っている場合でもない、な」
石の継ぎ目に爪が食い込む。血が出そうだと思ったがどうでも良かった。
フェロモンは抑制剤でどうにかなるかもしれないし、そもそもぼく自身にはよく分からないのが本音だ。だが、身体症状は明らかにいつもよりひどい。薬を飲んでいるのに、だ。
「薬剤耐性? この薬はまだ大丈夫な、はずだ」
こういうことになるから、と頭の中でで二人に叱られた気がしたが、それにしたってさっきガバ飲みした薬はかなり強いし、最近処方され始めたやつだし、と思っているうちに、自分が立っているのか、それとも浮かんでいるのか分からなくなってくる。
「嘘だろ……」
こんな眩暈なんて久しぶりどころの話じゃあない。視界が回転する。熱があるんだ、とそれから気が付いた。軽く測ってみたが脈が速すぎる。
「吐きそう」
小さく呟いても意味がない、とにかく、いかない、と。
部屋、帰って、帰らないと、あぶ、ない、か、ら――
「何をやっている」
ほら、こういう、ふうに、
「どうせ」
世の中とか、りかいとか、かんけいない
「何をやっているのかと聞いている」
「捕まって終わりだよなあ」
友達の言うこと聞かないから、こうなるんだよ。
憧れたって、嫉妬したって、どうせぼくはオメガなんだからさ。
*
「……」
「……」
「……あの?」
気が付いたらベッドに寝ていた。明らかに普通のサイズではない、というか安アパートに住んでるぼくみたいな大学生では想像することが不可能なサイズのキングサイズとか言うのか? ダブルでもきかないサイズのベッドなのは分かる。
そこまでは良くないがいいんだが、そこで見下ろされているのはなんでなんだ、なんでぼく、そこで当たり前みたいに医者? 医者だよな、白衣だし? 金髪に赤目? の外国の方に見えるが、そういう人から滅茶苦茶に見下ろされて睨まれているし、そのうえで腕に違和感があるからちょっと触って見上げてみたら点滴? 点滴だよなアレ? というのに繋がれていて、点滴ってこういうベッドでも付けられるんだ、と意味不明なところに感心していたら、すごく苦々しい顔のままででかいため息をつかれた。
「一応聞く。体調は?」
「あ……なんとも、ないみたいです?」
「なんで疑問形なんだ、やはり馬鹿なんじゃあないのか……」
呆れたように言われたが、確かにかなり激しい発情期の発作だったのに何ともない。あれ?
「あの、すみません? あ……」
そこで言い澱んでしまったのは仕方がないというか、そこまで思考が回ってからぼくは思わずガバっと飛び起きて首筋に手をやったが、ハイネックのセーターの下にいつも付けているチョーカーのロックはそのままで、そこから考えられることに大きく息を吸い込んで、そのでかいベッドの中で後退ろうとしたらまたため息をつかれた。
よく考えずとも、ぼくを見下ろしている人はどう見たってアルファだ。気配で分かる。気配? ちがう、何故か感覚で分かる。この人はアルファだ。
だから、手遅れだ。
だから、仕方ないだろう。
だって、仕方がないだろう。
オメガの発情期を抑える方法なんてたかがしれてる。
薬でなんとかコントロールするか、それが出来ないなら適当なアルファと番とやらの契約をするしかない。それでも発情期自体が収まる訳ではなく、というか究極、アルファの精液を取り込むのが最短だ。
だから、あの発作がこんなにも簡単に収まっているのなら、倒れる直前に考えた通りに。
(ほら、やっぱり)
オメガなんて簡単に適当なアルファに捕まって性欲のはけ口になる程度しか使い道ないんだから、と顔を俯けていたら、ここで目が覚めてから何度目か知れないが、本当に機嫌が悪いと一発で分かるため息をまた聞かされた。
「そこまで大仰に怯えられたり絶望されたりすると面倒だから言っておくが、私は薬剤を投与しただけだ。噛んでもいないし、そもそも医療目的だとしても誰が貴様みたいな生意気そうなクソガキを好き好んで抱くか」
そう吐き捨てられて、そのまま点滴を指差される。
「え?」
「あ・れ・は! 貴様が馬鹿みたいに乱用したうちの会社の薬剤をもっと真っ当な形で投与しているものだ! ついでに貴様が飲んだものの血中濃度をまともにするための生理食塩水だ! このご時世にオーバードーズまがいのことを抑制剤でする馬鹿がいるだと!? 信じられん! 目も当てられん馬鹿だな、馬鹿すぎて頭が痛い!」
初対面の人に馬鹿だ馬鹿だと怒鳴りつけられ、その上でかなり頭に来ているらしいその人はそう怒鳴るだけ怒鳴って座っていた椅子を蹴って立ち上がる。
「起きたならもういい。気分が悪い」
「あの?」
「大人しくしていろ。投与と抑制期間が終わるまでここから動いたら殺す」
「……ハイ」
問い掛けに振り返って言われたその鬼気迫る言葉に小さく返したところで、バタンと入り口の扉が閉まって、そのだだっ広い部屋にぼくは取り残された。
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