安心
「お兄さんたち、今平成後期どころか令和に入ってますよ?」
ナンパというよりほとんど誘拐だなあ、なんていうおそらく同じ大学の後輩かな、そんな女の子が他の大学だかなんだか知らないが、そんな男どもにしつこく飲み会なんだかお持ち帰り前提の合コン何だか知らないが、そんなもんに誘われている現場に出くわして、ふと口を衝いて出たのはそんな情緒の欠片もない言葉だった。
「今時もあんな馬鹿な輩がいるものなんだな……災難でしたね。気を付けて帰ってください」
「は、い……ありがとうございます」
優男に見える、とよく言われるが、それは構内で一緒にいるのが承太郎とポルナレフだとかいうだけで、ぼくだって一般的な日本人の男よりは身長が高いし、ガタイもいい方だとは思うが、それでもガンつけただけで怯んだあたり、結構肝は小さいんだな、と思った。それに元々の境遇もあって自己防衛用……武術、とまではいかないが、それなりの運動神経もあるから、それを使って少しだけ……少しということにしておこう。一人の鳩尾に軽く一発見舞ってやっておいたら素直にお引き取りいただけたので、まあ当分この大学周辺にはこないだろう。結構痛いらしい。ディオとポルナレフが言っていたから間違いないだろう。
「……どうしました? 大丈夫ですか?」
「あ、すみ、ません」
呆気に取られていたのだ、と思っていたその執拗に男どもに集られていた子は、だがどんどん青ざめていって震えが大きくなっていき、ついにはしゃがみこんでしまう。
「ちょっと、君!?」
「すみま、せん、あの」
「あ、違う、大きな声を出し過ぎたね。大丈夫かい? 真っ青だし、体調が悪かった?」
そう言いながら、まだ二月で外は寒すぎる、と考えて構内に戻って適当に座れる場所に移動しないと、と支えようとして肩に触れて気が付いた。ハイネックのセーターを着ていた彼女の首には、しっかりとチョーカーが嵌められていて、そうやって近づいてみれば甘いような微かな香りがすることに。
*
適当な空き教室に移動させて、空調を入れる。震えてはいたが『慣れている』様子でもあって、きちんとバッグからピルケースを出して抑制剤を飲んでいる姿を見てほっとした。
「そういう時期にあんな奴らに捕まっちゃったんだ……怖かっただろ」
「すみません、その……」
「いや、別段。狙ってたんだとしたらアイツら最低だとなとしか思わないから、君は悪くないですよ」
そう言いながらふと首許に手をやってしまう。これがなければ、と思ったらゾッとしてしまって、それからふと考えて、駄目だと分かっているの思考回路が変になっているのに気が付いてしまった。
「あの」
「ああ、気持ち悪いとか頭が痛いとかないかい? 薬が効いて落ちついたらベータの友達がいるからそいつに送らせるよ。ぼくもオメガでさ、こんな奴じゃあちょっと心もとないだろ?」
そう言って、今はコートも脱いでしまったし、とシャツの首許を引っ張って噛み痕を見せてみたら、その子は驚いたようにこちらを見た。
「先輩は、相手がいらっしゃるんですね」
「一応ね」
そう答えてからポルナレフに車を出すかタクシーを呼んでくれとメールを送る。承太郎じゃあ、いくらまっとうな男だといってもあの雰囲気のアルファだ、かえって怖がらせる。そう思ってからやっぱり自分の思考回路が滅茶苦茶になっているのに気が付いた。
(ディオは駄目だ、アルファだし、承太郎と変わらない。じゃあテレンスは? テレンスはベータだから、テレンスに頼めばいいじゃないか)
でもここは大学だから。
でもポルナレフがすぐに来られる保証もないし。
それならむしろテレンスの方が確実かもしれない。
「分かってる、けども」
思わず唇を噛んだところでその空き教室に軽い声がした。
「花京院クーン? ナンパ?」
「違うッ! 断じてッ! ぶちのめされたくなかったらその軽薄な態度を改めろッ!」
「分かってるって。災難だってね、お嬢さん。送るよ」
それにその子は頷いてくれた。助かる。ぼくよりもずっと落ち着かせることが出来るのはポルナレフの人当たりとかそういうのもあるし、何より。
「ほら、彼はベータだし。弱っちいオメガのぼくより安心だろう? なーんてね」
……あれ? なんで二人とも微妙な顔してるんだ?
*
「そういや昨日の子、ちゃんと送ったぜ? ていうか途中で彼氏君に引き渡したってかな」
「え?」
次の日、休日だったのもありポルナレフと承太郎と出かけていて、昼を食べていたらそう言われた。用件が用件なのもあり、昼を奢ることになっていたから適当な店に入ったのだが、やっぱり二人はガタイがいいなあ、なんて思ってしまう。男子大学生に飯を奢ると金が飛ぶ、とか考えていたんだが、不意に言われた思ってもみなかった内幕に呆気に取られてしまう。
「なんだ?」
「いや、昨日な。花京院が、あー、体調不良になった後輩の女の子を保護したのよ、ナンパかと思ったんだけど」
「うるさい、君じゃあないんだ、あり得ないだろポルナレフ」
「そんで、送ってやってくれって言われたからよ。花京院はさっさと帰るし、とりあえずタクシーでも呼ぶかねえって思ってたら、その子が友達呼びますって。ならいいけどもってことになって待ってたら来たのが彼氏であわや大惨事……にはならなかったから良かったけども」
「……すまん」
「謝れて大変よろしい」
ポルナレフに後を丸投げして、自分でもよく分からないままに半分逃げる形で彼女のその後のことや状況も考えずに帰ってしまったことを素直に謝れば、彼はそう言って笑ってくれたが、承太郎は少し怪訝な顔をして言う。
「話が見えん」
「あー……そのなあ。後輩のコをナンパっつーか、お持ち帰り前提の飲み会に連れていこうって馬鹿に絡まれてたところを花京院が助けたみたいな? んで体調崩してたから少し看病して、つーか」
言葉を濁したポルナレフに、ああ、そういえば理解が進んだとか、偏見が減った世の中、というのはそうなんだけれど、そうであっても彼はその中の微細なこと、言われて嫌なことというのに気が付くタイプだ、と感心してしまう。逆に気にしすぎだ、という人もいるかもしれないが、だけれど理解とか世の中っていうのは結局制度上のもので、中身は変わらない。そうなれば個人の考え、というのでこうもはっきりと誰かに、ぼくたちみたいな誰かに寄り添えるのは彼の美徳だろう。
「いや、いいよ。ありがとう。昨日そうやって絡まれていた女の子がオメガでね。ちょうど発情期で体調を崩していたんだ。それもあってあの男どもに絡まれていたのかもしれない。空き教室まで保護して抑制剤を飲んで落ち着いたようだったから、ベータのポルナレフなら安全かな、と思って送ってもらおうかと思って呼んだんだ。でも付き合っている相手がいたのか……彼女にもポルナレフにもかえって迷惑だったな……先に確認すれば良かった」
そう言ったら納得がいったのか、承太郎が頷く。
「やれやれだ。そんな連中がまだいやがるのか。時代考えろよ」
「そーだよねーって承太郎クンも彼女いますもんねー」
「結婚を視野にな」
「ムカつく、おれだけいないみたいな……あーあ、昨日のコもその彼氏君もずーっと将来、大学卒業したらって約束してるんだってお話ししてくれましたよ! チクショー、羨ましーぜ!」
そう言われてどくんとなぜか脈が速くなった。
「あれ?」
将来、約束していて。
「おい、花京院?」
だけれど、ちょっとしたことで他のやつに。
君のものになるって約束したのに。
「お前どうした、顔色悪ィぞ?」
「だめだよ、そういうのは」
「は?」
そうだ、オメガだからってだけで、本当に一瞬のことで、甘い匂がして、それは誰でも、そうだから、そのへんにいくらでもアルファがいて。
ぼくはオメガだから、どうしても。
だけどいやだ、彼以外は。
「駄目だってば」
ディオ以外のアルファがいる。危ない、だめ、約束した。
ぼくは全部君のものだって言ったのに、約束を守れないのはいけないことだから。
「やめろ、だめだ」
「待て、何をしている? 落ち着け花京院」
承太郎の声が遠くに聞こえて、それからぼくは何となく席を立った。
「大丈夫、ちょっとだけ席外すね。すぐ戻るから」
「いや、それ大丈夫なやつが言うセリフに聞こえねぇっていうか?」
ポルナレフの声もした。だけれどぼくはそのまま中座して、さっきまでいた席からは影になるあたりでショルダーバッグの底に手をやった。
(駄目だ)
こんなことをしては。
だけれど。
(駄目だ)
アルファがいる。ディオ以外のアルファがいる。駄目だ。
やくそくをまもらないと。
そのままピルケースではなくて、いつもお守りのようにバッグの底に入れていた処方薬の一袋を取り出して、そこにあった最後のシートを一枚取り出す。
2錠ずつが6連で計12錠、ザラザラと口に放り込んで、そのまま持っていたペットボトルの水で飲み下した時だった。
「何をやってる」
「……え?」
「チッ、遅かったな。もう飲んでやがった」
「マジか……12錠だな。すぐ連絡するから承太郎、ちょっとそいつ抑えとけ」
「言われなくとも」
承太郎に押さえ付けられて、そうしたらガタガタと震えが這い上ってきた。
「や、めろ」
「それはこっちの台詞だ。何がトリガーかはだいたい分かるが、急に過剰摂取なんぞしやがって。まだ持ってたのか」
「やめ、ろ、やめて、こない、で」
ディオ以外のアルファだ、捕まる、約束、駄目だ――
その辺りで視界が暗転して、それから。
*
寝ている典明の青ざめた顔を撫でて、それから口付けてみる。発情期でもないのに甘いその口から文句の一つも出てこないのが不満で不安だった。
「私……俺以外のアルファ、か」
典明が抑制剤の過剰な摂取を行って倒れたと、ポルナレフからテレンスが連絡を受けたのが3時間ほど前。そのまま回収に行ったテレンスが、説明もあるだろうし二人も心配だろから、とか何とかで、意識のない典明と承太郎とポルナレフの三人を邸に連れて帰ったのが2時間ほど前。
『その後輩のオメガの話をしていて、急に典明が抑制剤を過剰に摂取して意識を失った、と』
今は発情期ではないから、血中濃度を下げる目的だけで生理食塩水やそのほか必要なものを点滴につなぎながらそう言えば、二人は頷いて友人である典明を心配そうに見ているから言っておく。
『私と番になってからは抑制剤についても必要最低限か場合によっては使用していないし、そもそも私は医師だ。見ている範囲で薬剤の用法容量を守らせない訳がない……のだが、こんなものまだ隠し持っていたとはな』
そう言ってしまって彼が飲んだという薬の袋を投げたら、承太郎に気遣われるようにため息をつかれて少々業腹だが、それにしたって私の監督不足だろう。
『なあ、花京院の過剰摂取ってのはよ、結局のところ元々はお前以外に見つかるのが怖いってのが』
『言ってくれるな。後悔はしている。後悔というか……やはり駄目だな。あの頃の私は弱すぎた』
『だからあんま怒ってやんな、と言ってやりてぇが言えねえとこ、というか。さすがに体にわりーし、精神的にもねぇ』
そうポルナレフに言われて、承太郎よりも典明よりも年上なのが分かる視点だ、と思ってしまってため息が出る。根幹的な部分よりも、典明をよく見ていて、情緒的な部分があってのアドバイスだ、と。そうしてこれは、様々なことが解決している現在においては、情緒の方に重きを置いてもいい段階もしれない、と。
『とにかく今回は助かった。体調については休み明けには何とかなるようにしておく。精神的なものはすぐにとはいかないだろうが、すまん』
そう言って二人を帰して、そうやって番の寝顔を眺めて考えた。
『本当にすまない……あんな約束を……』
だから、お前は……。
*
触れる手の温度。
柔らかい感触と、確かにぼくを撫でてくれる安心感。
大丈夫、安心。
そう思って軽く頬を寄せたら優しく撫でてくれた。
こうやって撫でてくれるのが好きで、でも、もっと好きなのは安心してくれることで。
もしかして、なんて思っていた。
もしかして、ぼくがこうしていることで。
もしかして、ぼくをこうやってなでることで。
少しは安心したり、安心させたり、気がまぎれたり、寂しくなくなったり、してくれないかな、なんて。
*
すり、と懐くように典明が寄ってきて、ずいぶんよくなっている顔色に安堵した。癖のようなその仕草は寝ていても健在だ、と思うとホッとする。
こちらの手や肌に寄ってきて、撫でられて、安心しているようにしている姿を見ていて、その実一番安心しているのは私だ。
手の届くところに彼がいる。そう思うだけで安心する。
「私以外、か」
典明が抑制剤の過剰摂取を始めたのは、彼の両親に聞いてみても、大学だけでなく中高も一緒だという友人の承太郎やポルナレフに聞いてみても、具体的な理由は分からないと言われた。ただ、発情期になると周りとの距離、特にアルファを過剰に避ける傾向があったのは確かだったという。むしろアルファに誘引される、誘引しようとする、という特性さえ踏みにじるほどに、それは抑制剤の摂取とは相反するようで、性格というよりどこか決めている部分があったように見えた、と友人であり自身がアルファである承太郎に言われれば納得も出来た。
そうして考えていたことは、実際に記憶の戻った典明の口から聞いてしまえば泣き出したくなるような理由だったから困ってしまう。
そう考えていたら懐くように手に寄ってきていた典明が少し動いて、それから目が薄らと開いた。
「ん……?」
「典明、分かるか?」
「……? ディオ、ですか?」
額や頬を撫でてやれば、目を開けて微笑んだ彼に軽く口付ければ嬉しそうに笑うから、薬の件を咎める前に不安だった気持ちの方が先に立って、点滴も終わっていたし、バイタルを測定することも忘れて思わず抱き締めてしまう。
「わっ」
「馬鹿者」
「すみません、ちょっと、いろいろ。あ、薬、怒ってます、よね?」
「怒ってはいるが怒っていない。そんな理由で飲ませる程度にしか安心させられない私が悪いのだから」
そう言ったらやはりそろそろとすり寄るようにくっついてきて抱き締め返してくる典明に言われた。
「そんなこと、ないです。話を聞いていて、約束しているって。だから、その。ディオ以外のアルファになんか、見つからないようにって思い出してしまって。すみません。ぼくはほら、弱っちいし、駄目なとこがいっぱいあるから」
「そんなことはない。今もきちんとここに帰ってきてくれて安心した。ずっと約束を守っていてくれて、守ろうとしていてくれて、私のところに帰ってきてくれた」
「あんしんしてくれてる?」
そう驚いたようにぽつんと言われて、そのまま抱き締める手に力を籠める。
「お前がいないと安心できない。いてくれないと安心できない」
「ぼくで、いいの?」
こんな当たり前のこと、と思いながらその輪郭をなぞって、その大切な約束を確かめるように触れる。
「お前でないと駄目だ。お前以外に誰がいる?」
そう言って口付けたら、ぽろぽろと泣き出した典明に言われた。
「本当に? 本当ですか?」
「典明に嘘はつかない」
「安心させられる? ディオのこと、少しでも寂しくない相手になれる? ずっとディオのこと、ひとりにしてしまったから、約束したのに、ずっと」
そう言って泣いている彼を抱き締める。
「約束は、おれもお前も守っただろう? だからもういいんだよ。これからはその約束の通り、傍にいてくれ」
そう言ったら腕の中でこくんと頷いてくれた。長い長い時間。必死になって守ろうとしてくれた約束、必死になって果たした約束。
「ディオがいるから、頑張りました」
「よくやった。偉いぞ」
迎えに行くのも、待っているのも、互いにすべてを渡すのも、約束だからな。
*
「あの、薬、すみませんでした」
やっと落ち着いたら、点滴はもう終わっていた。それでも点滴しなきゃいけないほどのことをして、そうして意識がなくなっていたんだ、と思ったらやっぱりなんだか落ち着かなくて、針の跡に貼られていたガーゼのあたりを撫でながら言ったらその手に重ねるように触れられて言われる。
「それはきちんと反省してもらわなくてはならないが、お前を安心させられていない私も悪い」
「そんなことない、ディオが悪いはずない!」
そう言って腕を撫でたり、髪を撫でたりしながら言ってくれたディオに言ったのだけれど、上半身を起こしたそのまま、ベッドに乗り上げてきた彼に抱きかかえられてしまって、言い訳のような反論を封じるように口付けられてしまう。
「薬をあんなふうに飲んではいけない。せっかくここまで回復したのに、また体調を崩してしまっただろう?」
「ごめん」
そうして唇を離してから優しく言い含めるように言われて、小さく答えれば微笑んで撫でられた。子供にするようにされているのに、反発するよりも安心してしまうのはディオが相手だからだろう、と思っていたら、そのまま髪を梳かれて、頬や唇を撫でられる。
「怖かったな」
「う、ん……」
そう言われて、また不安や恐怖を思い出す、というのも少しはあったが、それ以上に目の前にいて自分に触れているのがディオだと思ったら、もっといろいろな感情が流れ出してぽたぽたと泣き出してしまった。
怖かった。ずっとずっと、彼との思い出が記憶から抜け落ちてしまっていても、それだけは忘れられなかった。
『他の誰かに見つからないように。他の誰かに捕まらないように』
無意識のうちに増えた薬の量。増えたというよりも、彼の存在も、彼との約束も、それ自体の記憶は抜け落ちているのに、彼以外から噛まれることへの恐怖から、ただただ自分の気配を消そうと必死になった結果、繰り返した過剰摂取は、だから本当は、ディオと再会できて、ディオと番になった今はもう必要のないことなのに。
「少しずつでいい。だが、今はもうお前に触れられるのは私だけだし、お前の番であるのも私だけだと分からせてやれるように努める」
そう言われて、抱き込んで撫でられていたそこから本当に包み込むようにして口づけられた。それは違うと、それはぼくが弱いせいだと言おうとしたのに、唇が離れたときに間近にあったディオの顔に何も言えなくなってしまったのは、やっぱりぼくが弱いからだろうか。その瞳があんまりきれいで、この人を独占できるなら、なんて思ってしまうのは、ぼくが弱いからだろうか?
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