女夫日和
1
「うーなーぎー」
昼過ぎからずっと鳴いている男に、私はちょっとうんざりした。だけれどそれから、それが自分の同棲相手なのだ、と思って、うんざりを通り越して、私は呆れにも似た感情を覚える。
―――土曜の昼過ぎ。私はコンビニで買ってきたサンドウィッチと、インスタントコーヒーと牛乳で作ったカフェオレを片手に、ノートパソコンとにらめっこだった。会社も建前上、仕事の持ち帰り云々という規定を定めてはいた気がするが、そんなの、平日で片付く仕事量ではない時期に通用するものではなくて、じゃあ、休日出勤するか?と言われると、個人的にはそのくらいなら自室に仕事を持ち込んでやってしまった方が効率がいいから、今日のリビングには、持ち込んだ書類が広がっていた。私の寝室にパソコンを置けるほど大きい机はない。彼の寝室にも。私たちはそんなゆとりのある部屋を借りられるほど潤った生活をしていた訳ではない頃から一緒に生活していた訳だ、と思ってから、その頃からずっと、寝室は二部屋あったな、と私はぼんやり思った。
私たちは二度ほど引っ越した。一度目は、大学生同士のルームシェアを始めた時。二度目は私の就職が決まった時。その二度とも、だけれど寝室は二室だった。そこだけが拘りのようなものだった。拘りのようなもので、線引きのような、ひどく曖昧で、ひどくはっきりした意思表示のようなもの。
「うーなーぎー」
カチッとマウスをクリックしたら、また鳴いた。久しぶりに土曜が休みだから、と朝寝を決め込んでいた彼は、私がリビングに持ち込んだ仕事を始めた時、まだベッドで寝ていた。私の寝室のベッドで。そうしたら、二部屋ある寝室はなんて無意味なんだろう、と、訳もないことに思い至った。
昼過ぎ。昼食を作る気にもなれず、コンビニから調達した昼餉を食べながら仕事をしていたら、やっと起き出した彼は、先ほどからずっと、うなぎうなぎとそればかりを繰り返している。給料日前だというのに、ひどい鳴き方だ。
「分かりました。うな重買ってきたらいいでしょう」
私は少し強くエンターキーを押して言った。だって、給料日前だもの。うなぎを食べに行こうなんて気分にも、財布事情にもなれなかった。
「奢るて」
そうしたら、ごくごく当然のことのように彼は言った。ああ、うなぎを食べに行くことは確定事項なのだな、と、私はぼんやり思った。
「出すからいい」
「給料、まだやん」
ワシはもう給料出たもん、とクッションを抱えた大男が言ったので私はちょっと頭にきて、ワイヤレスのマウスを投げる振りをしてみた。投げる気はない。ぶつけるにはちょっともったいないから。
そもそもにして、彼と私の金銭感覚はだいぶ違っている。私は、給料が出たってうなぎを食べに行こう、と軽く思える人間ではない。だが、これは言い訳めいているが、手取りは大して変わらないのだ。同年代の男女としては、努力している方だと思う。たぶん、諸々を考えると変わってくるものもあるのだろうけれど、私たちの給料明細は大して変わらなくて、私は家賃を半分入れていて、生活費も半分入れていて、外で食事をするのなら自分の代金は自分で払う。そうやって、私たちの生活は回っていた。だから、奢られるのは御免だった。
「出すわよ、そのくらい」
「給料まだのくせにぃ」
ふざけ半分に語尾を伸ばした彼を、私は静かに見つめ返す。それ以外に、どうしたらいいのか判らなかった。
「必要ないわ」
「……」
「私たちに必要なものは私たちが出す。だけれど、私に必要なものは、私が出すの。決めたでしょう」
静かに彼を見据えたままそう言ったら、彼は黙ってひどく複雑な顔をした。複雑そうな顔、ではなくて、複雑な顔。何か言いたげな顔、ではなくて、何も言いたくないらしい顔。最近彼はこういう顔をまたするようになったな、と思う。それこそ、学生時代にバスケットでポイント・ガードをしていた時のような、肚の読めない複雑怪奇な顔。
だけれど、彼が何を考えていたってこれだけは引けなかった。
引いてしまったら、引き返せなくなるのを知っていた。
家賃も、生活費も、ご飯の代金も、全部、ぜんぶ。
勘定は合っているの。
ぜんぶ、はんぶん。
ぜんぶ、ひとりぶん。
それが、ふたりぶん。
それは、私の中に彼を入れないための最後のよすがだった。
それは、彼の中に私を入れないための最後のとりでだった。
じゃあ、どうして金曜日の夜に酒を飲んで帰ってきた彼は、浮ついた言葉を繰り返しながら私の寝室で、私のベッドで、私を抱きしめて眠ったの?
私たちに必要なものというのはなあに?
お酒の匂いの奥の方に、彼の匂いがしたのを、どうして私は覚えているの?
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