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朝、目が覚めたら、うなぎが食べたかった。
正確には、朝ではなく昼過ぎやったけれど、とにかくうなぎやった。
それは、言い換えるなら悋気やった。
(いつからこないに心狭くなったんやろ)
酒の残っている頭の中で、ワシはぼんやり思った。彼女のいない、彼女のベッドの上で。
彼女が先に寝床というか己の腕の中から抜け出した時に、思いっきり叩かれたかつねられたかした記憶はあるのだが、いかんせん、どちらだったか思い出せない。というのも、彼女の寝床に入り込んだ時点でどちらかをされていて、彼女が寝床から抜け出す時にどちらかをされているので、結論から言うと、両方されていることになるから。確か、抜け出す時に『仕事があるの』と、情緒のかけらもないことを言っとったのは覚えとるけど。
シーツからは、彼女の香りがした。香水とは違う匂い。洗濯に使っている柔軟剤の匂いだとしたら、自分の部屋のと一緒のはずなのに、それは全然違っていた。全然違っていて、断然甘ったるくて、だけれど断然心地よい。
だから、今日はうなぎしかなかった。店を予約してはいなかったし、第一、彼女は給料日前だったが、うなぎだった。だからこそ、飲み食いは折半がすべての彼女が、どうしたって払えないくらいいい店にしようと思った。ひどい悋気や。何に対する悋気か、分かっとる自分が、少々阿呆くさかった。
***
リビングに出たら、南向きの窓から初夏の日差しが差し込んでいるというのに、彼女はノートパソコンと書類にうずもれていた。ヒジョウに、不健康的な光景だったが、彼女―――相田さんが少なくとも自分よりは健康的な生活を送っているだろうことは、少なくとも一緒に生活しているワシが一番よく知っているだろうと思われた。
少なくとも一番よく知っている、という、奇妙極まりない関係こそ、ワシらの中にあるもののすべてなのかもしれなかった。
少なくとも相田リコという女性は、休日というものを有効かつ大切に扱い、また、旧友、あるいは戦友を相当に大事に思うので、少なくともワシよりは体を動かすことに余念がない。むしろ、一緒になって動くことがある分、監督業で座りっぱなしだった学生時代より、デスクワークの合間の休日に体を動かす今の方が、運動不足は解消されているのかもしれなかった。
曲りなりにも同棲しとるワシが競馬に誘っても来ないくせに、ストリートの賭け紛いのバスケットは許容範囲らしく、彼女の気質が少々判らなくなる―――などという嘘八百を並べてから、ワシはとりあえず「うなぎ」と言ってみた。
「おはようございます」
「おはようさん。うなぎ」
「語尾にそういうのつけるの流行ってるの?」
「違うけども。うなぎ」
「……行かない」
ちらりと一瞬だけこちらを見た彼女は、すぐまた書類に視線を落として、つぶやくように「行かない」ともう一度言った。呟くように、だけれどはっきりと。
「ええやん、うなぎ」
うなぎ、うなぎ、と繰り返していたら、心底煩そうな顔で睨まれた。ちょっと怖い。ウソ。そーとー恐い。
「給料日前!」
「知っとるけど!うなぎ!」
負けずに言い返したら、今度は心底面倒そうな顔をされた。これが、7、8年は同棲している相手にする顔だろうか。小さく「倦怠期…うなぎ…」と呟いたが、聞こえやしないだろう。それに、倦怠期なんていう公明正大かつ真っ当な事案は、そもそもワシら二人に起こりうるものではなかった。
「分かりました。うな重買ってきたらいいでしょう」
妥協案として彼女が示したそれは、予想の範囲内やったので即刻返答する。
「奢るて」
そう言ったら、彼女が何を言うか、どんな顔をするのか、全部分かった。全部分かっていた。全部分かっているから、言わなくてもいいと言うこともできたのかもしれない。でも、言わずにはいられないんや、と知っとった。
「出すからいい」
「給料、まだやん」
堂々巡りの会話は少しだけ続いた。会話を堂々巡りにするのは、出来ればその先を聴きたくないから。
‘聴きたく’ない。それは最早、‘聞く’ことではなかった。
「必要ないわ」
そうして彼女は、決定的で、聴きたくなくて、そうして、聴かなければ先に進めない全てを口にする。
だからワシは、黙っていることくらいしか出来んかった。
「私たちに必要なものは私たちが出す。だけれど、私に必要なものは、私が出すの。決めたでしょう」
私たち、なんていう、ふざけた区切りを振りかざした彼女に、ワシは透明な視線を向ける。彼女が、何を考えているか分らないだの、不気味だだのと言う視線を。
彼女や、かつての同輩が思うほど、この視線に深い意味はないということを、知る者は少ない。
それこそ、シンプルで、どうでもいいことしか考えていないのに。
ワシにしては驚くほど透明な視線の分、彼女の中の不安定な感情が映り込んでしまうから、多分、彼女は不安になるのだろうと思う。
―――もし、そうやって映り込むものを彼女が見るのなら、それでいいと思った。
でも、だから、今日は敢えて、その鏡像にひびを入れる。
小さな微笑み一つで、その透明な鏡は壊れるのだ。そのくらい、繊細で、乱雑で、どうでもいい透明さやった。
微笑ったら、彼女の中の不安に、驚きや揺らぎが加えられた。
「奢るわ。今日は相田さんの払えんとこに連れてったるよって」
反駁を聴く前に、ワシは立ち上がった。出かけるなら、昨日から着っぱなしでくたびれているワイシャツを脱ごう。
洗濯日和やな、なんて言ったら、観念したらしい彼女は、洗濯するのは私よ、と小さく呟いた。それもそうやな、と肩を揺らして笑ったが、それが彼女に伝わったかは、分からなかった。
***
『ほんなら一緒住む?』
『は?』
ワシと同じ大学に進学することになった相田さんに、突拍子もない提案をしたときの、あの、驚いた、というか、虚を衝かれた、というか、とにかくきょとーんとした顔を、ワシは未だに忘れられない。……これから先だって、忘れることなんないやろな、と思う。それは、彼女がその顔をしてしまう理由を忘れられないように。
ずっと知っていた。ずっと知っていて、だけれど近づき続けた。平凡な、あるいは突拍子もない距離感で。
知っていたとも―――彼女に、忘れられない恋だの、愛だの、そういうことがあるのだということは。
振り返るか振り返らないか、微妙な距離やった。だけれど多分、振り返らないだろう方に賭けていたのはずっとそうやったように思う。
『賭けの続きや』
『何言ってるんですか』
『「好きになったりしない」やろ?』
高校二年の冬あたりから彼女の繰り返していた言葉をちらつかせて、ワシは笑った。
『相田さんが好きになったら相田さんの負け。ワシが根負けしたらワシの負け』
『何よ、それ』
『家賃は半分。生活費も半分。キスはしない。そーいうコトもしない』
ただのルームシェア、と続けたら、彼女は至極不思議な顔をした。自信に満ち溢れていて、だけれどその自信を一瞬で吹き消す不安に駆られている、そんな顔。ひどく期待していて、それでいて、ひどく絶望している、そんな顔。
『今吉さん、本当に私のこと好き?』
『好きやなかったら1年以上付き纏わんし、一緒に住もうなんて言いません。そこまで阿呆と違うわ』
即座に言い返したら、彼女はやっぱり不思議な顔をした。今まで見た、どんな顔より綺麗だったような気もした。綺麗だけれど、見ていられない気がした。そんな顔。
『いいわ』
そうしてそれから、静かに彼女は言った。捨て鉢になって言うのとは、全然違ったように思う。
『好きになったりしないもの』
きっと諦めるわ、と彼女は唄うように続けた。囁くように、唄うように。
誰が、何を諦めるのかまでは、相田さんは言わなかった。
それでワシは、1Kの部屋から、彼女と住める、寝室の二つある部屋に引っ越した。部屋数の割に、家賃は安い部屋やった。
10年は経たないが、それくらい前の話ではある。
それからワシらはもう一度引っ越した。今の部屋。やっぱり、寝室の二つある部屋やった。今度は部屋数に見合った、それなりの家賃の部屋やった。
5年は経たないが、それくらい前の話ではある。
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