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 彼が私を連れてきたのは、普段行く鰻屋ではなかった。少なくとも私の知らない店だった。私が知っている店よりもずっと格式ばっていて、多分、私が持ってきた財布の中身をひっくり返してもお勘定が払えないようなお店。

「カード使えるの」

 だから、席について最初に出てきた言葉はそれだった。それは、なんというか自分自身に確認するような言葉だった。どうせ使えやしないだろうと思った。現金で払わなきゃならないんだわ、と思ったら、今すぐコンビニのATMに走ってやろうと思ったけれど、個室の扉側に彼が座っているから、たぶんダメだと思いなおして、じゃあなんにも食べなきゃいいのよ、と極論めいたことを考えた。

「え、多分使えんのとちゃう?」

 払う気やったの?と、今気がついた、という風情でぽかんと答えた彼は、基本的になんでもキャッシュで払う。そんな、どうでもよくて、細かいことばかりが、彼に対する知識として増えていっている気がした。
 そうしてそれから、彼が某かの方法で、給料明細以上の金銭を上げていることに思い至った。投資だと思う。株か何か。似合わない気がするけれど、かなり堅実に、コンスタントに利益を算出するもの以外選ばないだろうという確信があった。それもまた、彼に対するどうでもいい知識だった。

「競馬じゃないでしょうね」

 そんなこと、全然思っていないのに、ねめつけて言ったら、彼は笑った。

「ちょ、ひどいやんか。ワシが金は賭けんの知っとるくせに!」

 学生の時分から変わらない彼のひどい趣味である競馬には、学生の時分からお金を賭けないのを知っている。学生の頃は、賭けてはいけないから賭けないだけだと思っていたが、どうやらお金は「賭けない」というより「掛けない」ようだ。
 だから、予想はするし、暇が出れば競馬場にも行くが、どの馬が勝っても別段気にしないらしかった。どの馬が勝つか、外したことがないから気にするまでもないのかもしれなかったけれど。

「今日は奢るよって」

 彼は笑った。底の見えない笑い方で。


 ―――私は、その笑い方が嫌いではないの。


 言ってしまおうかと思った。
 言えやしないと知っているのに、そう、思った。




***

 ひどい奴だと自分でも思う。本当にそう思う。
 ルームシェアの決めごとを先に破ったのは、結局私だった。
 最初の決めごとに含まれていないから「別にええやん」と、彼は言った。私に助け船を出したそれは、だけれど詭弁以外の何物でもなかった。




『どないしたん?』

 独りの寝室が寂しくて、枕を抱えてリビングにいたら、ゼミの飲み会でもう少しは帰ってこないはずだった彼―――今吉翔一が現れた。図ったようなタイミングだったが、そのとき彼は、たまたま風邪を引いているのに昼間気が付いて、酒を飲めずに烏龍茶を飲むくらいなら薬を飲むことにしたらしく帰ってきたのだった。彼は、風邪を引くとお酒が飲めなくなる。少量でひどく酔って、二日酔いで起きられなくなるから、自制するのが常だった。
 ……風邪を引いていて、彼が早く帰ってくるのを知っていたら、そんなふうに女々しくリビングにいるような真似はしなかっただろうと思う。だけれど、タイミングは最悪だった。
 適切な言い訳が思いつかなくて、私は掠れた声で言った。

『お帰りなさい』

 言い訳どころか、適切な言葉すら思いつかなかったから、そう言った。言ってしまってから、ここに帰ってくる人間が、自分以外にもいるのだと気が付いてしまった。彼と棲み始めて2年目の初夏だった。

『ただいま』

 彼は、困った様子もなくうずくまる私に視線を合わせて言った。それから私ではなくて枕を撫でて言った。

『部屋来る?』

 それには、色事とか、下心とか、そういうことが全く含まれていなくて、同時に、私がその時一番に望んだことだった。とにかく独りが嫌だったのだと思う。軽くうなずいて立ち上がった彼に、私はとぼとぼついて行った。行き先は、二つある寝室のうち、彼の寝室の方だった。
 ベッドを示されたので、大人しく入る。彼は荷物を片づけながら他愛もない今日の出来事を話してくれた。ベッドからは、私以外の人間の…間違いなく彼の気配がして、私は気が付いたら眠っていた。
 朝起きたら、フローリングにクリーニングに出しそびれたらしいコートで申し訳程度の枕を作って寝ている彼がいた。当然ながら、私は自分の枕を抱えて、彼の枕を占拠して、ベッドで寝ていた。
 彼がフローリングで寝ている時点で、手出しの仕様がないのだが、そういうことは一切なかった。大学に行く必要のない日曜の朝。揺すぶったらその巨躯を伸ばして、大きいのに猫のようなしなやかさで彼は起き上がった。眠そうな目で凝ったらしい肩を回している彼は、やっぱりフローリングで寝たことが響いている数値を示していて、私ははっとした。気が付いたら、昔みたいに身体の数値を測定してしまっていたからだ。なんだか馬鹿馬鹿しかった。
 でも、それ以上に馬鹿馬鹿しいのは、彼のベッドで寝た私だ。寝室は二つ。そーいうことはしない。ただのルームシェア。一つ一つの条件を呑んだのは自分のくせに、先にそれを破ったのも自分だったことに気がついたから。
 でも、取り繕う適切な言葉はやっぱり出てこなくて、私は仕方なく言った。

『おはようございます』

 その日から、互いの寝室のベッドで寝ることは許可された事項になった。
 その日から、互いに適当な挨拶を言うのが不文律になった。
 ―――その日まで、私は、おはようも、お休みも、ただいまも、お帰りも、一方的に聴く側だったのだけれど。


 それでも未だに寝室は二つある。
 違う。
 それだから寝室は二つあるのかもしれなかった。
 行き来する場所が、私には必要だったのかもしれなかった。

 それは、ひどく怖くて、不安定で、そうして優しいものだった。
 だけれど、彼の中には私がいるのに、私は未だに、彼という存在を、私の中から排斥しようとしている。
 それは、驕りにも似たそれしか、私が彼と暮らし続ける理由も、方法も、私の中にないからなのかもしれなかった。