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 店が違うだけで、頼むものはいつも通りやった。
 白焼と、日本酒二合、それにうな重。
 それだけだったが、今日の彼女の持ち合わせでは一人分も支払えない額やった。
 白焼に箸をのばしながら、小さく彼女の手元をうかがう。奢られることをずいぶん嫌がっていたが、結局観念したように白焼を丁寧な箸遣いで食べていた。

 酷い悋気や。

 彼女がワシにものを奢られて、一銭も出せずに食事をするのは、多分ワシらの有史(などという大仰な言葉を使いたくなるほど珍しいことだと言うておく)で初めてのことやった。

「美味い?」
「美味しいですよ、流石に高いだけあって」
「一言よーけーいー」

 そんなん、普段ワシが連れてくところが美味しゅうないみたいやんか。次があれば、次から連れてくるのはここだけにしようと思うてまうくらいには、妬けた。やっぱり、一つ一つのことに悋気する程度には、今日の自分は可笑しかった。

「次はいつものところにしてください。払えないから」

 やっぱり余計なことを彼女は言った。彼女の白焼も一口分くらいしか残っていない。そろそろお重が来るだろうと思っていたら、いいタイミングでうな重が運ばれてきた。彼女は、自分の前に置かれたその重箱を見つめながら言った。

「こういうところには、独りの時に来て」

 今日の相田さんは饒舌だった。彼女が饒舌な時、というのは、何か隠したいことがある時で、今日隠したいことは、公然の事実である「今吉さんに奢られる」ということだというのくらいはすぐに分かる。

「一人じゃ、不味いやろ」
「……美味しいですよ、独りだって」

 ひどく哀しげに笑って、彼女は呟くように言った。
 ……昨日は、知らぬ顔をして酔った振りをした。一昨日の夜、枕を抱えた彼女が自分の寝室の前まで来ていたのを知っとったから。でも、結局彼女はそのままリビングで徹夜をした。朝、リビングにおった時には、枕は仕舞ってあった。だから、別にそんな予定なかったのに、『今晩飲み会やった』と言った。そうしたら、彼女はあからさまに目を輝かせた。それから、それを覚られないようにか、『そういうことはもっと早めに言ってください』と最もすぎることを言った。彼女の中で、ワシは酔うと彼女を抱きかかえて寝る癖があることになっているらしい。確かに、酔って相田さんを抱きかかえて眠ったことは何度かあるが、一回目は無意識で、二回目から四回目くらいまでは反応が面白くて酔いに任せて抱きかかえてみたりしたと思う。でも、五回目くらいからは、彼女が望んだ時にしかやっていない。


 だからか、呼び出された諏佐はだいぶ迷惑そうだった。

『毎回言うのもなんだが、脈ナシじゃないのか。そんなに続くと思わなかったけど』
『ほうか?』

 そうしてそれから、彼は今までずっと言わなかった、だけれどずっと言うつもりだっただろうことを口にした。




『そろそろ相田さんを放してやれよ』




 一番言われたない言葉やった。だから、笑ったら『ブザービーターでも決めるつもりみたいだ』と懐かしいことを言われた。……考えが顔に出ていたらしい。

『第四クォーターのブザービーターのつもり』

 だから、ワシは考えていた通りのことを言った。第四Qのブザービーター。泣いても笑ってもゲームセットだった。

『最終なら勝算あるワケか』
『そんなん、ないわ』

 種も仕掛けもあらへん。
 今も昔も。
 たまたま入ってもうただけ。
 ちょっとツイとるだけ。
 昔も今も。

『今回はどやろな』

 そう言いながら、奇妙な気分になった。
 シュートだったら、放った瞬間に入るかどうか分かってしまうものなのに、こればかりは、分からなかった。だからこれは、シュートより勝敗に似ていた。どうなるかは、その時にならないと分からない。


 いくら全てが上手く行っても、ワシはあの時、少なくとも彼女に勝てなかった。
 高校最後の冬、ワシを負かしたのは間違いなく彼女たちだった。
 違いなん、彼女と自分が一対一なことくらいで、それは多分に些細なことやから、そやったら今回も、負けてまうかもしれん、なんて思った。


 彼女を好きでいることについて、‘根負けする’気は、‘ルームシェア’の最初の取り決めの時から、否、それ以前から更更なかった。
 ただ、根負けするとしたら、それは彼女をいつまでも縛っておくことが出来なくなる時やろうと、ぼんやりあの日から思うてきた。……彼女が枕を抱えて己のベッドで寝て、フローリングに横になってそれを眺めていたあの日から。
 自分は良いとして、彼女が今吉翔一という存在に縛られることを苦に思うなら、これはもうやめた方がいいと思ってきた。だって、同じやないかと思うから。
 彼女をずっと、縛り付けて、苦しませて、嘆かせてきた、どこかの誰かと同じに成り下がるのは御免だった。


 その存在に成り代わりたい訳ではない。
 そんな存在から救いたい訳でもない。


 そんな、正義感とか、優しさとか、そんなものは生憎持ち合わせがない。
 ただ、違う形で唯一に成れないのなら、そこに己がいる意味など、互いに見いだせないだろうと思う。
 だから、同時にワシの中に生まれるのは嫉妬心やった。いつもいつも、酷い悋気ばかりが生まれる。
 それは彼女の寂しい時に、頼られて、一緒に眠ってくれる『今吉翔一』という、自分自身に対する悋気やった。そんなん、ぶち壊してやりたいなどとばかり思う。
 もし、ぶち壊して、ぶち壊されたワシの方を彼女が嘆くなら、それこそ全部失敗だろう。成り代わりたかったのなら成功かもしれないが、初めっからワシは、その恋だか、愛だか知らないそれをぶち壊すことを前提にしていたのだから、今度は己自身を壊されて、更に彼女が嘆くならそれこそ大失敗だ。

『そんくらいなら今回で最後にするわ』

 呟くように言ったら、諏佐が困ったように笑った。本気だ、と、知れたのだと思ったら、妙に可笑しな気分になって、莫迦みたいに酒を呷ってしまった。


 それでも酔いは、一向に回らなかった。
 そうして彼女は、昨日も「酔った今吉さん」に、抱きかかえられることを望んだ。




「最後にしようと思うワケ」
「……何が?」

 一瞬、彼女の瞳が揺れた。何が最後なのか、彼女は分かっているのかもしれなかった。