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「お帰り……あの……」

 あああ、お帰りって響きいいなっていうか、ナガクラお姉さんからは「またな」ってお別れの挨拶しかしてもらったことないから、なんていうか手に入れた感がすごい。

「……ただいまくらい言え! 手洗いうがいしなさい!」
「はあい」

 ……これ。一人の部屋に帰らなくていいっていうそれをもらえたのが、嬉しかったのに、なんで大人はそういうことばっかりするの?

「寂しくない……」

 やっと新八が僕のこと理解してくれて、理解してもらえるとは思ってなかったけど、とにかく回収しなきゃってだけだったんだけど。

「夕飯、その……ぶっちゃけ斎藤の方が上手いけど、忙しいから」
「は? おまえの美味しいじゃん、どうした?」
「あ、あの……」
「ねこ……」

 作りたてのオムライスに猫描いてある。ちょっと歪んでるけど、たぶん猫! ケチャップで。

「やった! ネコ!」

 無邪気に喜んだら叫ばれた。

「恥ずかしいからあんま言うな!」

 変なこと言ってきた伊東の野郎に自慢してやろう!





「駄目だなあ、これ」

 洗濯物を畳みながら、ぼんやり考えた。藤田五郎と熱愛発覚、みたいに大大的な記事が出たみたいだけれど、こっちは既に一般人で、目立つ髪はしていたが、引退した教育番組のお姉さんでしかない。
 ゴシップなんてすぐに流れる。確かに藤田こと斎藤には女の子のファンが多かったけれど、むしろ歓迎ムードなのは最近の世情だろうか。斎藤自身がそういうアイドルっぽい路線じゃなくて、そうやって実力派っていうのか? 映画とかドラマを中心に出ていて、バラエティにはあまり出ないから、むしろ「彼女いたんだ」くらいの扱いだったと山南先生から聞いた。
 世の中にはいくらでもゴシップはあって、むしろ藤田サンはうまくさばいた方で。だからあっさり交際が認められた、らしい。

「何が不満っていうか。俺、斎藤のこと何も知らないし」

 だけれど、俺の番組を見て、そうやってひとりで頑張ってきたから、何とかして俺に会いたくてっていうのは確かに嬉しかったけれど。そうじゃなくて、さ。

「だって、それじゃあさ」

 顔の怪我にふと触れる。それから手、胸の辺り。傷はたくさんあったが、命は助かって、そうして普通の会社の事務とかなら、顔の怪我くらい化粧で誤魔化せる。それに営業とかでもない。いや、今は斎藤がなんかしたから休んでるけども。

「分かってたよ、別に」

 うちの事務所はミブロプロみたいにでかくなかったし、俺はお姉さん終わったら辞めるつもりだったけど、写真集一冊くらいって言われてて、そういう対象なんだなって思ったらなんとも言えねぇ気分にはなったけど。だから、余計。

「そんなに、綺麗じゃないのに、なんで斎藤の相手してんの、俺は」

 そんな子知らなかったのに。斎藤は俺のこと知ってて、レシピも歌も、覚えてて。

「嬉しかったよ。だから」

 だから嬉しかった。だから駄目だって分かってるのに嬉しくて。今日だって、オムライスにケチャップでちょっと何かしただけで喜んでくれる斎藤を見ていたら嬉しくて。だけど、そんなの。

「だから、そんなの」

 そんなの駄目だ。斎藤に対する義務感でも、斎藤が可哀想なのでもない。

「俺が可哀想だから、そうやって斎藤のこと使って」

 最低だよ、ほんとに。





「あの、さ」
「なに?」

 ベッドで横になる斎藤に、小さく訊いた。目の下のクマはメイクで消せる、と言っていたが、少しは真っ当な生活をしないと、と思ったのが始まりだったかもしれない、なんて、誘拐されるように、キスをされて既成事実を作られて、知りもしない俳優から関係を迫られた、なんていう、『一般人』になった俺にしてみれば夢のような、いや、夢であってほしいくらいには頭の痛い出来事は、結局。

「斎藤は、俺でいいの?」

 分かんねぇ、ほんとに。
 分かってるよ、沖田の知り合いで、昔俺の番組見てて、それで憧れて俳優になったけど会えなかったって。
 だけどさ。

「なんで、そんなに」
「……昔話でもする?」
「?」
「所謂鍵っ子だった、僕。だけど、学校楽しくもないし、中学生だから放課後は行くとこないし、でも家帰っても誰もいないから部活入って、でも面白くないし、暗くなってから自転車乗ってるの、死ぬほど嫌だった」

 そうぼんやりと斎藤は言って水を飲んだ。様にはなるんだが……

「たまたま、そん時おまえがテレビに出てて、なん、か……ずっと寂しかった、から」
「……」

 そうぽつんと言ってぽすっと枕に顔を埋めた斎藤が、いつもならこっちに物理的に突っ込んでくるタイミングだったのに、そのまま枕に頭を押し付けて言われた。

「分かってるよ、知り合いでもない、業種の方向性も違う。だから、ほんとはどっかのスタジオで一言挨拶して、そんで『お姉さんのおかげで大きくなれました』くらいに言えたらそれで良かった」
「あの……」
「だけど、新八もういなくて、怪我したのは、分かったけど……」

 ただの我儘、いつもの。と思ったのに、改めてぼんやりと、自分の短かったその時間と、そうしてその時間で誰かを笑顔に出来たのか、それとも何かを狂わせてしまったのか、と考えた。

「それだけなら、仕方なかったかもしれない。だけどさ、商品、だけど僕らは」

 ああそっか、斎藤、泣いてるんだ、と気が付いたら何とはなしに空しくなった。

「だって、おかしいだろ。もし新八が怪我しないで売られてて、そうやって、そうしてたら僕はたぶん、一生忘れて、一生関わらないで、だけど知っちゃったから、おかしくなって」
「そうか」

 なんか、駄目だな。
 そうかもしれない。
 俺が、悪いんだよ。





「……え?」

 次の日の朝、目が覚めたら、隣で寝ていた新八がいなくなっていた。
 書置きがあって、そこには綺麗な文字で書いてあった。

『そういうのは駄目だよ。大人にならないと。じゃあな』

 またな、じゃないお別れの言葉。なんだろう、僕、やっぱりまた間違えた?

『警察にでも相談すれば? 僕は失踪人探すのとか嫌だけど、さすがに後味悪いエンディングにはしないでね。ミリ単位で関係ないけど』

 伊東からメールが入っていて、冷や水をぶっかけられたように体が冷えていく。だけれど冷静な頭では、本当は分かっていた。
 これが当たり前。新八には最初から、どこかにいなくなる権利も、逃げ出す理由もあった。

「おかしいのは、やっぱり僕だよな」