「柳さん、あの子見つかったの!」

 祠で言った彼女の前に、いつも通り木から飛び降りようとして、柳はわずかに足をふらつかせた。

「柳さん…?」
「なんでもない」

 転びかけた身体を杏が受け止めて、何でもないと言ったその顔をのぞき込んだら、左目が青みがかっているように思われた。よくよく見れば、その変化は顕著だった。漆黒の双眸は、今はまるでカラーコンタクトを入れたか、オッドアイのようだった。

「目…どうしたの?」
「なんでもない」

 杏の腕の中で、柳はもう一度『なんでもない』と言ったが、杏はわずかに青ざめた。伊達に大学で講義を受けていやしないのだ。そういう術には代償が付きものだ、という怪しいことばかり言う教授の一言が、脳裡を過った。

「まさか、本当に?あの吹雪が止んだのって、柳さんが…」

(杏は敏いな…)

 そう思ったら、なんだか可笑しくて、彼の口許は緩く弧を描いた。

「よかったな」

 だから、敢えてその問には答えずに言ったら、杏は泣き出してしまった。

「ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
「だって…」

 なんてことをしたのだろう、と、何が起こったか分からないのに彼女は思った。まるで、重大な何かを犯してしまったようだった。
 同時に、この鬼が住む世界は、己が済む世界とは違うのだということを、彼女ははっきりと認識した。背筋に粟粒が走る。怖いからではない。決定的な差異を知った瞬間だったからだ。


 まあいいか、なんて、そんな言葉で済ませてきた。
 だけれど彼は、そんな言葉で済ませられる存在ではなかった。
 始まりは、些細なことだった。
 彼氏と別れて、レポートに忙殺されて、そうして、不思議で綺麗な鬼と出会った。




 そんな夢が。
 ただの夢が。




 現実として初めて杏に迫る。焼けつくような感覚だった。




「忘れないから」

 気が付いたら彼女は言っていた。忘れない。このことを?人智を超えた力で彼が助けてくれたこのことを?―――そうではない。住む世界が違うと判った瞬間に、別れを予期してしまった。腕の中の気配が、遠ざかるのを感じた。

(嗚呼―)

 駄目だ、と柳は思った。駄目が詰まる。駄目が詰まると、死なないはずの石が死ぬ。駄目が詰まる。千年の上は昔に、水干を着た男が言っていたのを彼は思い出した。

 たった一つの、その、彼女には絶対に出来なくて、彼には容易く出来るすべが、結局二人を分かつのだ。


 忘れない。その言葉が如何に脆いかを、彼は知っているから、だから、言う。


「俺も忘れない」


 ずっとそうしてきた。何十、何百という人間が、彼の存在を忘れる中で、彼はその一人一人を覚えていた。忘れられてもいい。忘れないという約束を違えられてもいい。
 そのうちの一人に、彼女も含まれていくのだと思ったら、少しだけ哀しかった。


 春が来る。すぐそこまで春が迫っていた。
 いずれにせよ、彼女の視界から己が消えることは、避けようのないことだった。