肆
「柳さん、あの子見つかったの!」
祠で言った彼女の前に、いつも通り木から飛び降りようとして、柳はわずかに足をふらつかせた。
「柳さん…?」
「なんでもない」
転びかけた身体を杏が受け止めて、何でもないと言ったその顔をのぞき込んだら、左目が青みがかっているように思われた。よくよく見れば、その変化は顕著だった。漆黒の双眸は、今はまるでカラーコンタクトを入れたか、オッドアイのようだった。
「目…どうしたの?」
「なんでもない」
杏の腕の中で、柳はもう一度『なんでもない』と言ったが、杏はわずかに青ざめた。伊達に大学で講義を受けていやしないのだ。そういう術には代償が付きものだ、という怪しいことばかり言う教授の一言が、脳裡を過った。
「まさか、本当に?あの吹雪が止んだのって、柳さんが…」
(杏は敏いな…)
そう思ったら、なんだか可笑しくて、彼の口許は緩く弧を描いた。
「よかったな」
だから、敢えてその問には答えずに言ったら、杏は泣き出してしまった。
「ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
「だって…」
なんてことをしたのだろう、と、何が起こったか分からないのに彼女は思った。まるで、重大な何かを犯してしまったようだった。
同時に、この鬼が住む世界は、己が済む世界とは違うのだということを、彼女ははっきりと認識した。背筋に粟粒が走る。怖いからではない。決定的な差異を知った瞬間だったからだ。
まあいいか、なんて、そんな言葉で済ませてきた。
だけれど彼は、そんな言葉で済ませられる存在ではなかった。
始まりは、些細なことだった。
彼氏と別れて、レポートに忙殺されて、そうして、不思議で綺麗な鬼と出会った。
そんな夢が。
ただの夢が。
現実として初めて杏に迫る。焼けつくような感覚だった。
「忘れないから」
気が付いたら彼女は言っていた。忘れない。このことを?人智を超えた力で彼が助けてくれたこのことを?―――そうではない。住む世界が違うと判った瞬間に、別れを予期してしまった。腕の中の気配が、遠ざかるのを感じた。
(嗚呼―)
駄目だ、と柳は思った。駄目が詰まる。駄目が詰まると、死なないはずの石が死ぬ。駄目が詰まる。千年の上は昔に、水干を着た男が言っていたのを彼は思い出した。
たった一つの、その、彼女には絶対に出来なくて、彼には容易く出来るすべが、結局二人を分かつのだ。
忘れない。その言葉が如何に脆いかを、彼は知っているから、だから、言う。
「俺も忘れない」
ずっとそうしてきた。何十、何百という人間が、彼の存在を忘れる中で、彼はその一人一人を覚えていた。忘れられてもいい。忘れないという約束を違えられてもいい。
そのうちの一人に、彼女も含まれていくのだと思ったら、少しだけ哀しかった。
春が来る。すぐそこまで春が迫っていた。
いずれにせよ、彼女の視界から己が消えることは、避けようのないことだった。
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