今宵は月が綺麗だ、と彼は思った。
 木の枝に足が触れるか触れないかのうちに、彼の足は次の枝を蹴る。

 ―――落葉がおかしいか

 蹴ったところで、木にとっては風が吹いたと変わらないのだが、彼はその木の上でわずかに眉をしかめた。

「虫か」

 この山まで来たか、という思いを込めて、彼は小さく呟いた。風の噂で聴いていた病害虫のことが頭を過る。

「仕方のないことではあるが」

 そう言って、彼はトンっとその木の幹を軽くたたいた。
 ―――案ずるな、なんて言うことは出来ない。
 この木を助けられる位置に己がいるとしても、それは仕方のない自然の摂理だ。
 この木を枯らす虫もまた生きているのだから。

「よく生きた」

 己と同じか、或いはそれよりも長く生きたかもしれないその木に一言言い置いて、彼はまた枝を蹴る。

 こんな夜は、山を降りるに限る。

 銀の月が彼の影を落とす。その影を見ることのできる人間は、ない。









 人がぽつりぽつりと行き交う道路を見下ろす電信柱の上で、彼は瓢箪から酒を飲んだ。
 人間は彼に気を留めたりしない―――気を留めない?そうではない。‘見えない’のだ。
 それを分かっていて、彼は悠然と、そこここを行き来する人間を観察していた。秋の初め。外套を着ている者と着ていない者が半々くらい。そんな、どうでもいいことを考えながら、彼は月明かりの下を歩く人間を見下ろしていた。




 そろそろ帰るか、と思い、くいっと顔を反らして、瓢箪の中に残る酒を全て呷る。そうして、道路から視線が逸れた一瞬の出来事だった。

「何よ……」

 道路から女の声がして、彼はぴくりと眉を動かす。何か面白いことが起こりそうだと思ったのだ。喧嘩か、色事か、いずれにせよ観察してやろうと思って、彼はその声の方を見遣る。だが、予想に反して、そこにいたのは一人きりだった。
 そうして、その双眸は、ひたとこちらを見据えている。

「何見てんのよ!」

 女が叫んだ。

「は…?」

 彼はそれに素っ頓狂な声を上げた。そんな声を出すのは、もう何百年となかった気がした。

「何よあんた!そんなとこ登って!変質者!?」
「……俺が見えるのか?」
「はあっ!?」

 おかっぱで色素の薄い色をした髪の女は、噛み付くように言った。見えているのが確実となったので、彼の喉からくつくつという笑いが落ちた。


 ―――面白いことが起こりそうだとは思ったとも。だが、こんなにも面白いことだとは思わなんだ。


 実に百十数年振りに、彼を見ることの出来る人間が現れたのだから。









 「降りて来なさいよ!」と女に叫ばれたので、彼は電信柱からスッと飛び降りた。

「きゃっ!」
「降りて来いと言った割に悲鳴を上げるとは、横柄な人間だな」

 笑いながら言ったら、女は一歩後ずさって、それから彼を上から下へ、下から上へ、ながめた。

「コスプレ…?」
「こすぷれ?」

 彼が聞き返したので、どうやらそうではないのだと知り、女はちょっとたじろいだ。

「人間…?」
「人間と見間違われるのは少々心外だな」

 彼が酔いにまかせてぱさりと黒髪を掻き上げたので、女の視線は知らず高い位置にある彼の頭に行った。そこにあったのは―――人間には付いていないと思われる、角だった。

「ツノ…?何それ…?」
「角くらいあってもいいだろう?」

 彼は面白そうに笑った。笑って、言った。


「鬼なのだから」









 『鬼』という単語を理解するのに、女は三十秒ほどの時間を要した。
 鬼。

「……鬼なの?」
「ああ」

 至極間抜けな問いに、彼は簡潔に応えた。

 鬼。

「昔話に出てくる鬼?」
「そんなところだ」

 混乱の極みに立たされた女に反して、その鬼は、愉しげに笑いながら、細腕一本でひょいっと女を抱え上げた。

「きゃあっ!なにするの!?」

 叫ぶ彼女に構わずに、彼が軽く地面を蹴ったら、女の視界がふわりと揺れた。
 月が近くなる。
 先程まで彼がいた電信柱の上にいるのだ、と気が付いたら、悲鳴や降ろせという言葉の前に、ため息が落ちた。月が近い。街々の灯りが低い。

「こんなこと、人間には出来ないだろう?」
「……そりゃそうよ」
「ほう、驚かないか」

 電信柱の上で、鬼がくつくつと笑った。

「さらわれるの、私」

 あんまり楽しそうに笑うから、女は呆れて言ってみた。さらわれるの?と。そうしたら鬼はやっぱり楽しそうに笑った。

「どうかな」
「怖い鬼」

 だけれど、綺麗な鬼。

 その言葉を、彼女は呑み込んだ。艶やかな黒髪、漆黒の瞳。
 月光の下にさらされた鬼は、ひどく美しかった。


 鬼なんて、半分信じていない。
 アパートに帰って、お風呂にお湯を入れて、コーヒーを飲んだら、全部消えてしまいそうだと思った。
 鬼なんて、全然信じていない。
 でも、信じていないから、こんな鬼がいればいいと思った。




 昨日提出したレポートを書くのに、どれだけ時間がかかったと思っているの?
 一週間前に別れた男は、どこにいるっていうの?
 鬼なんて、夢ならいいわ。
 鬼が、本当にいればいいわ。
 夢が、本当になればいいわ。




 鬼の腕の中で、彼女は様々なことを考えた。上手くいかない事共の狭間に現れた鬼は、ひどく美しかった。ビュウッと夜の秋風が二人をさらうように吹いた。色素の薄い髪がなびく。

「夢かしら」

 小さく呟いたら、鬼が笑った。

「夢かもしれない」
「夢なら本当になればいいわ」

 間髪いれずに言ったら、鬼が笑って言った。

「なら、名前を教えろ」
「どうして?」
「夢が真実になる。名とはそういうものだ」
「あなたの名前は?」

 訊き返したら、鬼が笑った。

「柳。もっと別の名もあったが、もう忘れた」

 もう忘れた。
 そう言ったのに、彼は多分、全ての名前を覚えているのだろうな、と訳もなく彼女は思った。彼には、全ての名前、というほどたくさんの名前があるような気がした。

「私には名前なんて一つしかないわ」

 そのことが、女にはひどく悔しかった。忘れるほど、忘れられないほど、たくさんの名前があれば、少しは違ったのかしら、と思うことが多過ぎた。

「杏。橘杏」

 だから、噛み付くように言ってやった。これっきりの名前をくれてやるように。

 そうしたら、ビュウッとまた風が吹いた。風が吹き終わった頃には、杏は電信柱の根元に降ろされていて、そうして、柳と名乗った鬼は、もうどこにもいなかった。









 アパートに帰って、お風呂を沸かして、コーヒーを飲んで、ベッドに入って、そうして、朝が来た。昨日のあれは、やっぱり夢だったんだと思ったら、杏の胸に去来するのは安堵と寂寞だった。

「寝過した」

 今日は日曜。大学の講義はない。バイトもない。だからか、寝過してしまった。


『柳。もっと別の名もあったが、もう忘れた』


 夢だと分かっているのに、その言葉が、頭の中を支配した。

「ばっかみたい」
「確かにな」

 おはようと笑い掛けるべき相手もいないベッドの上で、杏が呟いたら、それには何故か返答があった。

「え…?」
「錠も落とさず寝入るとは、なかなか馬鹿な女だ」

 くつくつと、昨日の晩と同じように笑う鬼が、そこにいた。

「え…は…!?何よ、あんた!?」
「鬼だが。お前、この書き物はよくないぞ。ところどころ間違いがある」

 来週提出の民俗学のレポートをひらつかせて、柳が笑っていた。
 ―――民俗学。単位目当てで取ったその講義にぴったりな、鬼が笑っていた。

「なんでいるのよ!」
「夢で終わるのも面白みがないからな、こちらとしても」

 脳内がぐちゃぐちゃになる。何だかいろいろなことが遠ざかっていく。昨日の夜に開けたベッドサイドのミネラルウォーターを一口飲んだら、それはぬるくなっていて、目の前の出来事が虚構でないことを示しているようだった。

「鬼って何でも出来るのね」

 妙な気分のまま言ったら、柳は笑った。

「何でもなんて出来るわけがない。お前が錠も落とさずにいたからだ」
「開いてたからって入る、普通?」

 怒りだとか、恐怖だとか、感じるべき感情が今一つ湧いてこない。
 まあいいか、という気分になった。

「まあいっか」

 だから、その感情にまかせて杏は呟いた。


 まあいいか。あんたが鬼で、私は人間。


 奇妙な出会いが始まった。