あはあはと、沈黙がその場を満たそうとしていた。
 しんしんと、読経の声がその沈黙の間を縫おうとしていた。

 じわり、じわり、と、身の内に熱いものが流れるのを、二人は感じていた。
 同時に、じわり、と、身の内に冷たい液体が流れるのも、彼らは感じていた。

「こんな経が、なんになる」

 さざめきのような陰鬱な読経の合間に、柔造か蝮か、どちらかがつぶやいた。つぶやいたのだ。間違いなくつぶやいた。どちらがつぶやいたか、分かりそうなものだった。
 声音も、調子も、二人はまるで違うはずだった。
 そうだというのに、その一言をどちらが言ったのか、二人には分からなかった。
 分からないほどに、それは互いが、どちらもが、今まさに言わんとしていることだった。

(確かに、我らは―――)

 ここで生きねばならぬのだ、と、二人は暗いそこで思った。声を聞かずとも、目を見ずとも、その心のうちは同じだった。

 ……同じだったはずだった。

 彼らを守った一人きりの兄が死に、今まさにその別れを告げる経が、深々と降り積もっていた。
 二人の間を、今まさに淡々と不安定な不信が満たそうとしていた。





 淡々とした色の桜が開こうかという時だった。

「じゃ、俺帰るよって」
「精々リストラされんようにきりきり働きや」

 卒業、というごく普通の事象は、しかし祓魔師を目指し卒業した志摩柔造にとっては即刻、京都出張所、つまりは自分の父が上司の許への帰属、帰属というよりも帰参を示していた。
 見送りにも素気のない嫌味を言われて、柔造はその幼馴染である宝生蝮に負けじと言い返す。

「あいっ変わらず可愛げっちゅうもんがないな、この蛇女が」
「うるさいえ、申のくせに」

 いつも通りの言い合いだが、柔造の顔には笑みがあった。祓魔師として戻れる自信か、それとももっと単純に家へ帰れる、そうして力をつけた自分への喜びのようにも思われた。
 そう思われたから、蝮はグッと奥歯を噛んだ。
 その表情に悲哀が、絶望が、諦念が浮かばぬように。

「お前もはよ来いよ。留年すなよ!」
「あんたにだけは言われたないわ!!」
「俺ちゃんと資格取って卒業したもん!」

 子供のような言い合いに、柔造の周りの同期から笑い声が上がった。明陀の幼馴染二人と言えば有名だった。
 二言三言、言葉を交わして、それから彼は駅の方へと向かっていく。その後姿を目に焼き付けるように蝮はいつまでも見つめていた。
 彼の背中を見つめるその目には、その顔には、今や柔造が振り返ることはないと知るゆえに、悲哀が、絶望が、満ちていた。

「愚かな、柔造」

 見送りの者も、旅立った者も、もうそこには蝮の他に残っていなかった。もちろん、柔造も、もう彼らの住むべき家へと向かう電車に乗っただろう。

「愚かな、あて」

 震えののちに、その震えのままにガチリと奥歯を鳴らす。
 誰もいないそこには、深々と沈黙が降り続いていた。その沈黙を裂くように、ガチリと乾いた音が綻んだ。

「必ず、必ず終わらせる」

 この愚かなる児戯を。
 我らから、愛すべき兄を奪ったすべてを。
 私から、愛するただ一人の男を奪おうとするすべてを。


 彼女の決意は果たして実る。
 彼女の最も望まぬ形で以て。

 愛する男と別れることが、こんなにも苦しいと、その時の彼女は知るとも知らず、知らぬとも知らず。


あはあは
しんしん
愛する者と別れる苦しみ