T鈍磨
三学期、何て言うことのない休日。男子テニスのみんながカラオケに行くのに誘われた。兄だけでなく私にも声を掛けてもらったので、喜んで行くことにしたが、兄は受験勉強がどうのということで不参加。
『ハメを外しすぎるなよ』とのお小言を兄からいただいて、私は指定のカラオケの前に着いた。もう森くんと内村くんがいて「寒いよね」と、東京では珍しい雪混じりの空を指差す。
「寒い。やんなっちゃう」
そう言うと、二人は笑った。兄からのお小言を一応告げておくと、これまた二人は笑う。
「橘さん真面目だよなあ」
「推薦でしょ?スポーツ特待取らないって聞いたけど?」
「うん。普通の成績と、部活と見る普通の推薦」
「成績といやさあ、こないだの数学ヤバいって…」
お小言から、話はどんどん転がっていって、数学の小テストの話になった。何点だったとか、どの問題がとか言い合ううちに、他のメンバーも揃う。
カラオケはずいぶん盛り上がった。みんなは普段から部活で一緒のはずなのに、話題は次から次へと出てきて、誰かが歌っているうちも、お構いなしに話しが続く。
「えっ!?桜井彼女いんの?」
「いるなんて言ってねえよ!どこをどう突いたら今の会話で俺が彼女持ちになるんだよ!?」
桜井くんが赤くなりながらアキラくんに噛み付いた。男の子って案外分かりやすい。彼女ではなくとも、その子のことが好きなのだろう。そう思って、ちょっと笑顔になると、桜井くんはこちらを振り返る。
「杏ちゃん!違うからね!?勘違いしないでよ!?」
「うん、勘違いなんかしてない。何組の子?」
「ひどいよ!」
笑いながら言ったら、桜井君以外のみんなが笑い出してしまった。歌っていた森くんまで手を止めてしまい、BGMのように、声の入っていない曲が流れている。
「そういう杏ちゃんはどうなんだよ。彼氏、いるんじゃないの?橘さんに言いつけてやろうかな」
桜井くんに言われて、私は肩をすくめてみせる。そんなのいない、というのと、兄さんに言ってもムダという二つを込めたそれに、また笑いが起こった。
「そろそろお開き?」
「だな。杏ちゃん、送っていく」
「え、いいよ。まだ早いし」
石田くんの申し出を断ろうとしたが、「どうせ同じ方向だから」と、いつも通り言われてしまって、結局送ってもらうことになる。
「ごめんな、デリカシーなくて」
「え?なに?」
「桜井。女の子に彼氏いるかなんて聞くもんじゃないよなあ」
駅までの道すがら、石田くんは申し訳なさそうにそう言った。
「気にしてないよ。女子だけだともっとつっこんで聞かれるしね。それこそ根掘り葉掘り。そういうのも楽しいから好きだけど」
ちらっと舌を出すと、石田くんはちょっと笑う。
「女の子って、そう言う話好きだよなあ」
「そうよ。そのうち桜井くんから聞き出してあげる。何組の子かくらいなら聞き出す自信あるよ」
それこそ、デリカシーの欠片もない言い草だ。それに、石田くんは声を立てて笑った。
「杏ちゃんは彼氏いそうだけど」
ひとしきり笑うと、他意のない声音で、石田くんは言う。それに私は、ちょっと微笑んで応じた。
「いないよ、そんなの」
「うーん、熊本に残してきた彼氏がいるから、とか?」
それは、恋愛事に興味のなさそうな石田くんらしい、率直というか、純情な意見だったが、私は思わず返答に詰まる。
「あ、ごめん!気に障った?」
黙ってしまった私に、石田くんは焦ったように言うから、私も焦ってしまって、手をパタパタと振った。
「違う、違う。ちょっと思い出しただけ。そうだね、石田くんは勘がいいかも。残してきたワケじゃないけど、昔は私も女の子してたの」
そう言いながら、私は追憶に囚われる。彼氏、なんて呼べるのか分からないような相手が、それでも確かに、今よりもずっと幼かった私にはいた。
彼は、肝心なことを言わない人だった。いつも、肝心なことを言わない人だった。
彼は一度だって私を束縛したりはしなかった。私は彼を独り占めしたいと、それこそ人並みに思ったりもしたものだが、彼はそんなことなかった。束縛は恋には付き物だと思っていた私は、やはり彼は自分が好きではないのだろうか、と思っていた。
彼は、惜しみなく私に愛情を注いでいた―それが、恋人としての愛なのか、兄としての愛なのか、区別がつかないとしても。
そんな彼が、私に唯一恋人らしく振舞って見せたのは、その関係が破綻する直前のことだった。
ただ、一言だけ―
私を束縛するような言葉は、たった一言だった。その一言のために、私の感覚はいつも麻痺していて…
(麻痺…?違う)
鈍磨だろうか。唐突に全てが止まった訳ではない。徐々に徐々に、感覚は削ぎ落され、勢いを失い、そうして、どちらに進んだらいいのか分からなくなる。泥沼にはまってしまったようだ。進もうとするたびに足を取られ、終いには、どちらに進もうにも、足が動かない。―そもそも方角を見失ってしまってはいるのだけれど。
それは、甘やかな―甘やかな、呪いに似ている。
束縛だというのならそうだろう。離れられないように、彼が仕組んだものだというのなら、それでもいい。だが、彼は私を束縛などしなかった。たった一言だった。
人波に流されそうになって、一瞬、隣にいた石田くんが離れてしまう。日曜の夕方。思った以上に人がいて、彼は焦ったように手を伸ばしてくれた。私はというと、ギリギリのところでそれをかわして、何でもないことのように隣に戻る。
「ごめん。すごい人」
「いや。この駅使わなきゃよかったかなあ。新幹線通るだろ?この時間って出張帰りとか、そんな感じで人多いのかも」
申し訳なさそうに眉を下げた石田くんに笑い掛けて、私たちはまた歩き出した。
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