U壊れた鏡
何か飲もうと思って、キッチンに降りると、コート姿の杏がいた。
「帰ったのか」
「石田くんに送ってもらった」
石田には、礼を言っておかなければ。家の方向は一緒だが、俺が行かない時にはいつも気を使わせてしまう。そう考えながら、杏の赤くなっている頬をするりと撫でてやる。
「外は雪か?」
「雪。寒いわ」
ふうっと彼女は息をついた。頬は冷たく、雪なんてめったに降らない土地から越してきた身としては、ずいぶん珍しいことに思える。東京とて、雪などちらつく程度なのだが。
「積もるかもしれない」
杏は、窓の外に視線を投げてそう言った。
「そうか?」
「少なくとも、私が知ってたどこよりも、ずっと寒いわ」
『どこよりも』という、微妙な色合いを含んだ言葉は、まるで郷里を懐かしんでいるようにも聞こえた。どこよりも、というよりも、杏も俺も、東京以外に知る場所など一つきりしかない。
「ねえ」
「なんだ?」
「大阪って、雪は降る?」
唐突だった。大阪?熊本ではなくて?違和感は拭えなかったが、彼女は問い掛けておきながら、視線一つよこさない。大人びて見えたが、同時に、まるで途方に暮れる子供のようにも見えた。
「分からないな。行ったことがないから」
「……そうね。降るとしても、私達には関係のないことだわ」
そう言って、杏はするりと俺の脇を通り抜ける。その会話一つ一つが、どこか奇妙な気がした。
机の上で、携帯が震える。時刻は11時。メールならいざ知らず、これが通話の着信となると非常識極まりない。だが、その箱の向こうの相手を確認して、俺は若干脱力しながら通話ボタンを押した。
「千歳か」
『よっ!起きとった?』
あっけらかんと言われて、苛立ちも何もなくなってしまう。
「どうした、急に?」
彼は、そもそも携帯を頻繁に使うタイプではなくて、わざわざ電話を掛けてくること自体が珍しく、何かあったのだろうか、と思う。
『いや?別段』
普通の電話だとしたら、それはかなり珍しくて、俺はちょっと目を見開く。
「何も無しに電話なんぞかけてきよるなん、槍でも降るか?」
驚きに、口からは郷里の言葉がこぼれた。それに、彼はカラリと笑った。
『まあ、何もないちゅうたら嘘になるかもしれん。ちょっと用事でな。こん週末は東京におったとよ』
「へえ?」
『さっき…ちゅうても、9時過ぎな。やっと寮に着いた』
「そりゃ御苦労さん」
『ほんでなあ、駅におったら、杏を見かけたとよ。ほんなこつ驚いたあ。男連れ。お前、知っとる?』
笑い含みに言う彼に、俺はつられて笑ってしまう。駅、男連れ。とんだ偶然もあったものだ。彼は杏を見間違えたりしないだろうから、多大な勘違いをしていることになる。
「彼氏に見えたか?」
『え?違うんか?』
「違うに決まっとる。ありゃ俺の後輩。ちゃんと見たら分かるとよ?四天宝寺との試合にも出とる」
『師範の弟な』
彼は相変わらず笑いながら言った。師範、というのは、石田の兄のことを指していて、分かっていたからこんなに笑うのか、と思うと、余計におかしかった。
「分かっとるならからかうな」
『悪い悪い』
全く悪びれた様子もなく、彼はそう言ったので、俺も少しだけからかいを口にする。
「似合いかもしれん。石田は、杏のお転婆くらい許せる度量のある男たい」
『ずいぶん買っとるな』
「まあな」
『でもまあ、そういうええ男が、杏を好きになるかが最大の問題ばい』
「ひどかあ」
その言葉に、俺は思わず声を立てて笑う。我が妹のことながら、ひどいものだ。だがまあ、石田とは良い友人にはなれても、そういった雰囲気になることはないだろうと思う俺は、笑ってしまう。
『元カレとしては、気になる事案たい』
彼は相変わらず笑いながら言った。元カレ、か。懐かしいことを言う。あんなもの、『恋』のうちには入らないと思っている身としては、その元カレという単語が、ひどくむず痒かった。
『背の高か男やね』
「杏は小さか。大抵の男は高か見える」
『ばってん、俺よりは低か』
「千歳。何が言いたか」
『なあんでもなかよ?』
どうでもいい話題のはずなのに、彼にしてはずいぶんと話を続けるので、俺は苦笑に似たものを落として、諌めるように言ってしまう。
「兄貴気どりは、もうやめとかんね」
『……兄貴?』
「知っとう。お前はどうせ杏のこつ妹ぐらいにしか見とらんかった。我儘可愛さに付き合っただけばい」
彼らが付き合っていた半年ほどのことを思う。彼は確かに言っていた。「杏の我儘は断れんなあ」と。破顔して言ったそれに、きっと長くは続かないだろうと思った。飯事のようなそれを、彼はいくらでも続けられるだろうが、きっと杏が耐えきれないだろうと思ったから。
よく持った方だ。ただ我儘に付き合うというだけでなく、俺が知る限り、半年も続いた女は、多分杏が初めてだった。その全部が作り事だとしても。来るもの拒まず、去るもの追わずだった彼が、一時とは言え杏に集中していたのも、優しさの一つだろうと思った。
「兄貴と付き合っても、楽しくなかよ」
苦笑混じりに言う。『そげなこつ言うたら、杏が傷つく』とか、やはり兄然とした返答がくると思ったのに、携帯越しの彼は突然押し黙った。
「千歳?」
問い掛けにも彼は応えなくて、そうだというのに、その沈黙は、まるで鏡を叩き割るその音に似ていた。
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