傾く




「俺かお前が部長かあ」

 間延びしたふうに、神尾は言った。伊武は、興味がなさそうにくるりとラケットを回す。

「妥当じゃない?全国で勝ち進んだんだ、新入部員も増える。全体のレベルそのものを上げる必要がある。ある程度の実力のある人間が上に立たなきゃならない」

 彼はやはり、興味がないという体でラケットをくるりともう一度回す。狭い部室にいるのは二人だけだった。

「なんだよ」

 伊武が、本当にどうでもよさそうな声をしていたから、ねめつけるように神尾が視線を巡らせたら、彼は、少しだけ困惑したような顔をした。困惑――と言うには、それは少々凶暴だったが。

「なに?」

 もう一度訊ねたら、彼は大仰に息を吐いて見せた。

「お前は能天気でいいなあ。ほんと、うらやましい限りだよ」
「んだよ」
「分かってんの?」
「なにが?」
「この部活を、纏めるってのがどういうことか」
「は…?」

 神尾はいっそ軽薄に思えるほど、単純に返した。だから伊武は深く息を吐く。

「俺たちじゃ、どう足掻いたって橘さんにはなれないってこと」

 彼はそう言うと、ユニフォームから着替える神尾を後目に、玩んでいたラケットをバッグにしまうと、部室の壁にもたれかかった。
 狭い部室。各人のロッカーと、必要最小限のものしかない。―――必要最小限のものを置くスペースしかない部室だった。

「橘さんみたいにはなれない。カリスマって言うの?考えれば分かることだけど、無理がありすぎる。橘さんは0どころかマイナスからこの部を創った。俺たちは、その素地を使って、‘何とか’するしかない」

 彼は目を閉じて言った。それは呼吸するのとほとんど同じスピードで落ちた言葉だった。だけれど、その一つ一つは喫緊の課題だった。だから神尾はその目を細めて半袖のシャツに袖を通す。
 季節は夏の終わり。全国大会の激戦は、もうとっくの昔に過ぎているように思えた。その後で様々な懊悩が各人にあったことは否めないが、橘は伊武か神尾を部長の後任に推薦したい、と言った。異論は出なかった。もちろんだろう。この二人が、橘を除けば不動峰の実力者ナンバー1と2なのだから。
 異論が出なかった理由はそれだけではない。この部活にいる人間は、少なすぎた。少なすぎるゆえに、あまりにも強固な結束があった。
 伊武も神尾も、部長らしく振舞えるか、というと、前任が橘であることを考慮に入れずとも、少々無理がある。伊武は少々口が悪い。思ったことを口に出してしまえば、部内に不和も生まれるだろう。対する神尾は、少々猪突猛進がすぎる面がある。思慮深くないと言えば言いすぎかもしれないが、エースというより部長らしい思慮を出来ない場面が容易に想像できた。そうして、両者に共通するのは、融通が利かない、という点だった。何だかんだということはあるが、二人とも、我が強いというか、自身が決めたことに対する柔軟さがない。よく言えば中学生らしいのかもしれなかった。
 だが、それでも現在の不動峰において、それらは全く以て考慮に入れるべき事案ではなかった。
 何せ、前任である橘自身が、試合のオーダーや実力を測る面において、全く以て非道で、融通が利かず、部内に不和が全くなかった、などと言える訳ではなかったのだから。
 だが、それでもこの部活はその頑強なまでの意志と堅固でありながらどこか脆い結束でもって保たれてきた。だから、多少強引でも、‘その強引を貫いても許される’者が上に立つのが、多分、この部における暗黙のうちの了解なのだ、と伊武も神尾も知っていた。もちろん、他の部員も。

「でも、新入りの部員も来る。全国で名が売れたんだぜ。今まで通りって訳にもいかないのは全員承知済みだろ」

 橘さん含めて、と神尾は呟くように付け足して、ガタンとロッカーを閉める。

「だからだよ」

 だが、それにも冷静に伊武は返した。そうしてテニスバッグを軽く揺する。もう少しここにいるか、歩きながら話すか、という提案に、神尾は手近なボールを拾い上げて、夏服の制服姿でラケッティングを始める。もう少しここで、という意味だった。それは、外には或いは他の誰かがいるかも知れず、その誰か、というのが、近かれ遠かれ自分‘たち’に係わる人間かもしれない、という思考がわずかに働いた結果だった。

「……いくら新入部員が増えたとして、公立のこの学校で、俺たちと同じレベルのクオリティとスキルを扱える才能の人間が何人集まるか、ってこと」
「は?」

 今度こそ不思議そうに、だけれど、その奥の真意をどこか測りきってしまったように、剣呑な声で神尾は返す。

「別に自慢したい訳じゃないけどさ、俺とかお前だけじゃなくて、石田も、桜井も、森も、内村も、何かしらの才能とスキルがあって、それを一定のクオリティで扱うことに長けてる。確かに、全国で通用しないってこともあるけどさ、少なくとも地区大会、関東大会では通用するレベルだ。そうじゃなきゃ勝てない。それにはかなり研鑽がいるうえ、そもそもの才能も必要って話」

 それを言われて、そんなの伸ばせばいい、という熱血よろしい思考に、しかし神尾もなれはしなかった。分かっている。分かってしまう。『そうじゃなきゃ勝てない』と彼は間違いなく言った。

「つまり、新入部員に何をどう強いるかって意味か」
「……まあね」

 それに、二人は自分たちで言いながら押し黙るしかなかった。オーダーにおける理不尽を橘が許されていたのは、圧倒的な才能と能力、実力を持って、かつ自分たちを救った存在だったからだ。それでも、全く不満が出ない、というほど妄信めいたものを全員が全員抱いていた訳ではなかったけれど、それは噴出しない。噴出しないだけの理由が、少なくとも今までのこの部にはあった。

「……こういう考え方もいると思わない?俺とお前、どちらから、理不尽に切り捨てられても許せる?」
「……は?」
「逆もあるな。オーダーを組む時、理不尽、っていうかまあ、実力と人員不足な訳だけど、理不尽と分かっていてオーダーを組む時に、どちらがより平然を装える?」

 彼はそう言って、わずかに乾いた笑みをこぼした。皮肉なものだ。今まさに要を失おうとしているこの扇の要になることは、想像以上に難しい。その橘という要は、感情と理論のバランスを上手く保った存在だった。
 どうしたらいいだろうと思わないはずがない。彼の行動は、感情を多分に含むにもかかわらず、常に論理的だった。そのロジックには、正論と、正義的な正当性と、感情的な理不尽が同時に含まれていた。矛盾すら、利用していた感がある。彼は、感情を露わにする時があるのに、同時に何の感情も感じさせずに、平然と振る舞うこともできた。

「深司…お前…」
「まさにカリスマ。誰かを理不尽に切り捨てた場合、周りが許せるのは多分俺じゃなくてお前だ。だけど、誰かを切り捨てる時、平然とした顔を出来るのは多分お前じゃなくて俺だ。補い合うことはできない。そのくらいは分かるだろ。一人の存在が、両端を持っていたから、最終的に俺たちは纏まれた」

 皮肉げに笑う彼に、神尾は怒ったようにバチンとラケットでもってボールを床に叩きつけた。その乱暴な所作に反して床から跳ね返ったボールは綺麗に彼の掌中に納まった。

「そういう言い方しかできないワケ。俺は深司がそんなヤツだと思ってねえよ」
「……俺はお前の沸点が理解出来ない。俺に対するそれは、‘俺たち’っていう狭すぎるコミュニティの中でしか発揮されない理解だよ」
「その狭すぎるコミュニティ内の理解が得られるからお前か俺って推薦されてんだろ」
「……たまに正論吐くお前が俺は嫌い」
「そうかよ」

 真実嫌いでも、苦手でもないのに、嫌いだと毒吐く彼のことを、少なくとも神尾を始めとする現在の部員は理解している。だが―――

「理解できるのは俺たちまでだよ、多分。その先はどうにかこうにか‘和解’するしかない。理解できるはずないから」

 冷めた声で伊武は言った。冷めているのに、それはひどく熱い何かをはらんでいるように神尾には思われた。
 ―――理解できるはずない。
 その通りかもしれない。理不尽に虐げられる経験を、これから入ってくる新たな部員たちはしないだろう。暴力になど遭うはずもない。だが、その結果として、それに起因して生まれた結束を、理解できるはずがない。
 だが、それとは違う理不尽を、彼らは新たな「仲間」に強いることになる。そうなった時、そこに必要なのはもはや理解ではなく和解だった。
 橘が、その理不尽を直観的に理解させることが出来たのは、救世主であり、同時に圧倒的な才能と実力、求心力を持っていたからだ。だが、それを再現することはほとんど不可能だった。
 理解させることが出来ないなら、和解するしかない。その道を、どう辿ればいいのか、考えなくてはならない。


「暑ィな」


 呟くように神尾は言った。夏はまだ終わっていなかった。


「ていうか、こんな狭苦しくて暑い部室でお前の着替え待たされる俺の身にもなってよね。スピードのエースってなに?飾り?」

 いつも通りにぼやきだした伊武に、神尾は適当に生返事を返して、ボールとラケットを仕舞う。よくよく考えたら、着替えなんて終わっていたのにだらだらボールを玩んで、どうしようもない会話をしていた。

「じゃあ、保留な」

 神尾は、現在の副部長だから、という理由だけで持っていた、部長会に提出しなければならない役職表をひらりと部室の端のベンチに投げ出した。
 秋の文化祭まで活動する文化部もあるから、全て決めて提出する部長会までの期限はまだ長くある。
 だけれど、部長と副部長の欄だけが埋まらない紙一枚のそれが、今はひどく疎ましかった。