夏の日暮れは遅い。
 夏休み明け、一発目のテストが終わったその次の日は、定時退校日だったから、夏過ぎといえども、残暑厳しいこの頃、日が傾くまでにはまだ時間がかかりそうだった。
 休み呆けというには、課題テストが熾烈すぎたから呆けてもいられない。かといって、部活のない日が連続で続く、というのはこの夏から考えるととんでもなく珍しいことの様な気もして、テストや学校生活というものとは全く違うベクトルの呆け方をせざるを得ないのは、テニス部に限った話ではないのかも知れなかった。
 季節は夏の終わり、秋の始まり。運動部ならどの部活も三年生は引退し、今度は二年生を主体としたチームが新人戦に向けて諸手を挙げて練習を始める時期であって、この夏休み終盤から課題テスト期間、それから今日の定時退校は、そういった微妙な期間の中でも、特に微妙な時期なのかもしれなかった。

「おせーよ」

 自転車小屋からほど近い生徒通用門で、その微妙な期間と時間を浪費していた神尾は、ふっとイヤホンを耳から外して、自転車を引いてくる男に文句を付けた。

「ごめん、委員会長引いちゃってさ」

 定時退校なのに委員会ってなんだろうね、と続けて、森は笑った。
 テスト明けで定時退校なら、部活は休みだ。だけれど結局一緒に帰る相手も何も、同じになってしまう―――と言いたいところだが、今日同じクラスの森に一緒に帰らないかとわざわざ言ったのは、少々切羽詰まってのことかもしれなかった。言わなくたって、一緒に帰ることになりそうなものだったのに、わざわざ誘う神尾に、彼はごく自然に「委員会があるから、みんなとは帰れないよ」と返した。それが、神尾の望む応答だと知っていた。
 休み明けの定時退校日は、部活がないから、委員会の雑務を買って出るには非常にいい日だった。その分、他の部活がある日の放課後を削られずに済むかもしれないから。そもそもにして定時退校なのに委員会というのは、という意見もあるが、概ね許可された時間内なら怒られはしなかったし、せっかく早く帰れる日に委員会なんて、という者も多いから、定時退校日に適当に雑務をこなしておくのは得な面もあるのだった。

「それより、こっちなら最初からそう言ってほしいな。校門さまよっちゃったよ」

 小型の音楽プレイヤーをサブバッグに仕舞う神尾に、今度はそんなふうに委員会をこなしてきた森が文句を付ける。

「メール読めよな」
「校内では使用不可です。読んだけどさ」

 十分さまよってからね、と笑いながら付け足されたので、神尾は本当に思ったまま「真面目だな」と呟いた。校内で携帯を使わないなんて、真面目極まりなくて、信じられなかった。

「ひどい言いざまだな……行こう」

 彼は、そう言ってやっぱり自転車を引いた。自転車に乗ることは、しなかった。




***




 川音が近い。住宅街の道沿いに流れる小さな川の土手の上を、二人は自転車を引いて歩いていた。まだ明るいというのに、人影はまばらだ。小学生が歩くには遅い時間で、中高生が歩くには早い時間だったからかもしれなかった。もちろん、住宅街に戻る勤め人が戻るには早すぎる時間だったから、この時間に動く人間はほとんどいないのかもしれない、などという、ミクロともマクロとも取れる思考が、会話が途切れた一瞬、森の脳裏を過って、それから霧散した。

「文化祭の合唱さ、なに歌うか休み前に決めてたっていうのが個人的には驚きだった」

 呟くように森が言った。途切れた会話と、不毛な思考を埋めるように、キイッと小さな音たてて引いて歩いていた自転車を止め、歩みも止めた森に合わせるように、横を歩いていた神尾も立ち止まる。

「なに、お前聞いてなかったの?」
「多分、寝てた」
「お前、委員に恨まれるぞぉ」

 現在進行形で恨まれてるかもな、と神尾はふざけた調子で言った。

「そうかもね。アキラは案外真面目だから、いいよね」

 何が‘いい’とまでは彼は言わなかったが、それは長所として褒めているようにも、「得な性格をしている」という揶揄にも、どちらにも取れた。―――どちらだって同じな気もした。
 その真面目さ、というのは校内では携帯電話を使わないくせに、定時退校日に委員会をやって得をしよう、なんて少しばかり小狡いことを考える森とは、また別種の真面目さだった。

「お前、空気読めよ。文化祭、みんなわりとマジじゃん。副賞つくんだぞ」

 金一封、とやっぱりふざけて神尾は言う。公立の中学らしく出店などはないから、派手派手しい文化祭ではないが、各学年のクラスの合唱と、それから展示物にはそれぞれ順位がつく。うまく上位に食い込めば副賞としてクラス単位で使える賞金が出るから、その後の打ち上げだのなんだので騒ぎたい連中は、騒ぎたい故に真面目に取り組むことになる、という奇妙な図式があった。

「協力できんの、合唱だけだから恨まれるぜ」
「そうだね。俺は書道の心得もないし、絵心もないから。努力する」
「軽っ!」
「『努力する』とまで言ったんだ。軽いどころか引くほど重いよ」
「白々しいんだよ、お前」
「そんなの自覚済みだよ。……文化祭が終わったら、受験だね」

 誰のとは言わなかったけれど、大体のことは伝わった。大体のことは伝わって、だから神尾はわざわざ声を掛けた理由を彼が理解していることを理解した。
 そういう、気の回し方が出来る、というのはだいぶありがたくて、だから神尾は今度こそスタンドを立ててしまって広い川沿いの道端に自転車を本格的に止める。この時間人が通ることはやはりなさそうだったから、迷惑にはならないだろうと思われた。

「お前はさ、部長ってか、部活か。そういうもんに、何か求めちまうものあるか?」
「さあね。そんなの千差万別だから。俺の答えがこれからのテニス部の活動に何か影響を与えるとも思えない」

 ずいぶん突き放したように言って、それから彼もカシャンと自転車を止めてしまって、続ける。

「入ってくるのは『俺たち以外』だから」

 排他的だけれど、とさらに続けた森に、神尾は困ったように息をついた。

「俺に訊くのがまず間違いなんじゃない?桜井あたりに聞けばもう少し建設的な意見が得られると思うね」
「建設的な意見で納得出来たら安いもんだろ」
「ひどいね。出しにされた」

 出しにされた、と言える人間が良かった。そう言って、利己的でも、排他主義でもいいから、‘これから’をある程度の視座で、肯定も否定もしない相手だったからこそ、多分自分は相談相手に森を選んだのだろう、と、彼はぼんやり思った。それは過分に今更だったけれど。

「まあ、俺に相談するってことは、その分深司よりはマシかもしれないけど」
「なんだよ、それ」
「マシ?っていうか。なんだろ、なんとも言えないけど。深司は相談するまでもないだろ、多分」
「相談するまでもなく丸投げ、か?」
「はは、それも一理ある。自分が部長にならなければ丸投げ、自分が部長になっても『部長なんてお飾りだからね』とか言っちゃう感じかな」
「あり得るから止めてくれ。頭痛くなる」

 頭を痛めるだけ神尾の方が部長に相応しいかも知れなくて、だけれど逆を言えば、その程度ならば頭を痛めるどころか大きく出られる伊武の方が部長に相応しいのかも知れなかった。

「アキラと深司は一長一短だね、相変わらず」
「うるせえよ」

 悪態をつかれたので、森は少々肩をすくめてみせて、そうしてそれから神尾から視線をそらした。その視線の先では、傾きかけの日が川面を染めている。

「……脱却するしかないんじゃない。妥協しろ、とまで言えばアキラでも深司でも気分を害するだろうけど。脱却できる一点くらいはどこかに付けなきゃならないのかもね」
「つまり妥協点か」
「人の厚意を踏み躙らない」

 そう、たしなめるように言って森は苦笑した。

「まあ、アキラが妥協点と思うならそれで進めるけど。これは双方向から均等な点でなければならないと思う」
「双方向、な」
「新しいメンバーを受け入れる前提で話しているのが気に食わない?」
「いや…そういう訳じゃねえけど」

 それは、彼が言うから重いのであって、例えば同じことを伊武や神尾自身が言ってもどうにもならなかっただろうという、確信に近いものがあった。

「機会は均等であるべきだ、ということだよ。切り捨てるところは切り捨てる。その時に切り捨てられる候補に俺が挙がるから言えることだけれど。例えばこれをお前が言ったら俺は多分アキラを川に突き落とすね」
「それは嘘だな」
「例え話だと俺は言った」

 不服そうに、だけれど可笑しげに森は笑った。困り顔とも、諦めとも言える笑みだった。
 例え話。
 彼が自分を、あるいは伊武を、更に言ってしまえば橘を、突き落とす、という言葉は『嘘』と言えるだろう。嘘、というか、虚、というか。それは虚実に近いレベルの感覚だった。

「そこに俺が一番近いんじゃないか、と思う訳。近いどころか、アキラとか深司並みの才能の選手が入ったら、真っ先に落とされるのは相も変わらず俺だろ」
「言い方が良くない」
「そう?」

 森はやっぱり肩をすくめて言った。

「言い方が悪く聞こえるのは、それが良くも悪くも事実だからで、さらに言うなら今の部内における関係性にアキラが執着しているから、だと言えるんじゃない」
「……」

 黙ってしまった神尾が考えていることは、大体分かった。大体分かっているから、彼は今日ここに来たのだけれど。

「答えのない問と、答えの分かりきっている問の、どちらを望むんだ」

 アキラは、とも、深司は、とも、彼は言わなかった。ただ、その視線だけが夕暮れの川面に向かっていた。