Lonely HERO


1


 兄がテニス部を引退した。杏にとってそれ自体はそんなに大きなことではなかった。だがそれを「橘桔平がテニス部を引退した」と言い換えると、それは途轍もなく大きなことになるのだ、ということも杏は知っていた。
 夏過ぎ。学校はまだ始まらない。桔平はU-17の合宿にも呼ばれているそうだが、今は互いに夏休みの宿題を片付ける方が優先だろう。……いや、桔平の方は宿題ではなく受験勉強だった。だけれど三年生の宿題がどういうものなのかまだ杏は知らない。いつだってそうだ。彼はいつだって彼女よりも一年先んじている。
 そんな夏の日に、階段を昇る音を背中で聞いて桔平はちらりと振り返る。そうしたらその足音は彼の部屋の前で止まった。

「はい、麦茶。スイカも食べる?」
「なんだ、杏か」

 そうして彼女はノックもせずに桔平の部屋のドアを開けた。振り返った桔平はそれを咎めようかとも思ったがそれを呑み込む。彼女の両手には麦茶の入ったコップが二つあって、無理やりドアを開けたことが分かったからだった。

「悪いな」
「いいえー。なんか母さんがスイカ買ってきたんだけど、夜と今どっちがいいって言ってるよ」

 座卓にコップを二つ置いて杏は言った。それに桔平は笑って応える。

「夜でいいだろ。昼に素麺食ったばかりだぞ」
「そうよね」

 したり顔で言った杏は桔平の部屋で寛ぐつもりのようだが、彼にそれを咎める気はなかった。

「兄さん宿題終わった?」
「宿題らしい宿題はないからな」
「そうなの?」
「受験対策のテキストを自分でやって自己採点するんだよ、三年は」

 そう言いながら杏の持ってきた麦茶を一口飲んだ彼を、杏はまじまじと見返した。

「兄さんも受験生なのね」
「当たり前のことを言うなよ」

 笑って言えば、そうれもそうねと杏も笑った。笑ってそれから、視線をコップの中に落とす。カランと氷が回った。

「みんなと千歳さんにはもう言った?」
「言ってない」

 躊躇いなく杏が訊いたから、桔平もためらいなく応えた。あまり脈絡がない会話ではあったけれど、二人とも気にしてやいなかった。

「だがテニス部は、部長を決める話し合いをしているところだ」
「アキラくんか深司くんだったよね、こないだの登校日の時、森くんと会ってね、少し聞いた」

 杏はそう応じたがやはり麦茶の水面に目を落としている。

「悩むだろうと思うが、それがあいつらのためだとも思う」

 正論だわ、と杏は心の中で思った。同時に詭弁だわ、とも思った。
 橘桔平がいない不動峰テニス部、新しい部員が入ってくる不動峰テニス部をどうするのか、それに兄が口を出すべきではなくて、それを考えることが新たな不動峰テニス部の一歩だ、と知っている。だから正論だと思う。
 だがそれは同時に詭弁だとも思った。自分で作って、自分で育てて、自分が終わらせたテニス部をみすみす捨て去るための詭弁だ、と。

「言い訳がましく聞こえるか」
「……そうね」

 返答がなかったのをそう解釈した彼に、杏はため息をつくしかなかった。本当は違うし、本当にその通りだったからだった。

「辞めるんでしょ、テニス」
「ああ。合宿が終わったら、辞める。高校ではやらない」

 それは、全国大会で桔平と千歳が再会し、再び戦ったその全てを見て、実の兄とその親友と、そうして不動峰の友人たちに何を言えばいいか分からずに立ち尽くしていた杏だけに告げたことだった。
 再びそれを聞いても、杏の中に驚きは生まれない。初めから、驚きやしなかった。
 呆然と立ち尽くすしかできなかった。だけれどそれは驚きからくるものではなかった。
 彼女は兄がテニスを辞めるつもりなんだ、とすぐにわかった。
 そうでなければ「不動峰テニス部部長」の肩書を背負ったまま千歳と試合をするはずがないと、少なくとも杏と、そうして桔平は知っていた。理解していたのではない。知っていたのだ。それは理解からは程遠い。
 知っているのに理解できないから、彼女は立ち尽くすしか出来なかった。
 テニスをしない兄、というものを杏は一度見たことがあった。それは取りも直さず千歳千里という彼の親友を傷つけたことに起因している。そうしてその彼ともう一度戦い、今度こそ彼がテニスを辞めることを、彼女は知っていた。知っていたのに理解できない。理解したくない。
 だってそうだろう、と杏は思う。一度テニスを辞めた理由と、もう一度テニスを始めた理由がそこにいて、そうしてもう一度そのテニスを辞めた理由と戦ってしまったら、全部全部御破算になってしまう。実際に、桔平はその彼を傷つけた技を使った。
 きっと千歳や不動峰テニス部の目には、いや、あの試合を見ていたあらゆる人たちの目には、彼が全てのしがらみを断ち切って、元の姿に戻ったのだと映っただろう。だけれど杏はそう思えなかった。ぐっと目をつぶるしか出来なかった。これが、最後だと覚悟しているから彼は元通りにテニスをやるんだと分かってしまったから。
 だけれど杏は、桔平が自分にそのことを言うのに、不動峰のメンバーにも、千歳その人にもその「テニスを辞める」という選択を言わないことを責めることなんて出来やしなかった。自分ですら理解できないのに、彼らがその理路を理解できるなんて思えなかった。

「いつか、言う?それとも、言わない?」
「……どうだろう」

 桔平は言葉を濁す。言うべきなのだろうと思う。だけれど彼も分かっていた。
 テニスを辞める、という選択が、誰にも理解されないことを。
 なにもプロになれ、という訳ではない。
 ただ単純に、テニスという方法で繋がって、テニスという方法で接してきた彼らにとって、彼がテニスを辞めるというのはきっと受け入れ難いことだ。
 千歳は、親友としてもう一度コートに立つことを望むだろう。
 不動峰の二年生たちは、一度拾い上げた自分たちを捨て去るように思うだろう。

「そうだね。言わない方が、いいかもしれない。いつかはみんな知ってしまうけど、今はまだ言わない方が良いのかもしれない」

 杏は呟くように言った。だけれど、いつ、どのタイミングで言ったって、誰も受け入れられやしないのを彼女は感じていた。
 それは、彼の全てを理解しているとかそういうことではない。彼女は近すぎた。橘桔平とも、不動峰テニス部とも、千歳千里とも。だけれどその全てを勘案して、最後は桔平についてしまうのだ。
 歪んでいると知っていた。
 確かに彼は不動峰テニス部を救っただろう。救ったけれど、その動機は周りが思うほど神聖なものじゃなかった。彼らにテニスをさせてやりたいという思いがあったのは間違いない。間違いないけれど、どこかに「千歳ともう一度テニスがしたい」という思いがあったのを桔平も杏も知っていた。

 歪んでいる。

 不動峰テニス部を通して彼が見ていたのは、親友を傷つけた彼自身であり、そうして千歳千里だった。
 それが叶ってしまった瞬間に、その歪みは顕現する。

「私、ダメね。どれだけいろんなことが起こっても、貧乏くじでも、最後は兄さんについちゃう」

 苦笑交じりに杏はそう言って麦茶を飲んだ。

「すまない」
「兄さんが謝ることじゃないよ。むしろ私が」
「杏」

 謝ろうとした杏を、桔平は制した。杏の静かな視線が彼を見返す。
 謝ってほしくなかった。
 そうだ。テニスを辞めるという選択肢は誰にも理解されない。
 理解?違う。誰にも了承されない。
 だけれど杏だけは、彼女が自分の妹であるために理解し受け入れ、了承してしまうことを彼は十分分かっていた。だから、彼女に謝られたらどうしたらいいか分からなかった。

「不器用ねえ、私たち」

 困ったように笑って、杏はもう一度麦茶を飲んだ。
 夏の宿題は、まだ残っている。