いやだわ、と、女の声がした。いやだわ、ともう一度声がする。今度は違う声だった。
鬼の花嫁
「身寄りがないのは分かっているけれど、厭だわ」
「仕方がないだろう」
「厭だわ。妙に敏いのだもの。それに、上のあれが帰ってきたらと思うと」
杏は、大人たちの思慮が大体分かっていて、その襖の向こうで行灯の火の中こそりこそりと交わされる大人たちの言葉に息をついた。
今年十四になった杏には身寄りがない。唯一の肉親だった兄は、都に奉公に出ている。村の、父母が遺してくれた小さな家で、兄の送ってくる些細な米や銭を支えに糊口を凌いでいた。
「悪くないわ、誰も」
杏はぽつりと呟いた。村の誰も悪くなどない。身寄りのない兄と杏に、みんな良くしてくれた。兄の奉公先を見つけてくれたのも村の何某だったし、独りになった杏のこともみな気にかけてくれた。だが、仕方がないことが起こってしまった。飢饉だった。この村では長らく不作が続いている。
それで、稲を枯らす山瀬を止めるには、もう誰かを贄として出すしかなかった。山には鬼が住んでいて、その鬼に贄を出すしかないと大人たちは考えている。だけれど、誰だって自分も自分の子供も生贄になんかしたくない。身寄りのない自分が選ばれるのは仕方がないような気もした。
「誰も悪くないわ」
その鬼ですら。
杏は一晩眠らずに、大人たちのざわめきを聴いていた。
次の日、奇麗な紅い着物を着た彼女は、山の祠に放られた。
***
奇麗な男だった。
済まない済まないと繰り返しながら、村人に放られた祠でぼんやりとしていたら、不意に奇麗な黒髪の、着流しの男が現れた。
最初、杏は彼に気がつかなかった。ただ、ふわりふわりと甘いような煙たいような香りがしたのだった。何かしら、とぼんやりその香りが流れてくる方を眺めていたら、それは煙だった。火を掛けられたのかしら、そこまでは聞いていないわ、と僅かに眉をひそめたけれど、火の手は一向に上がらない。
そうぼんやり思っていたら、いつの間にか着流しの男が現れた。男は、ずっとそこにいたように、祠の古びた扉を背もたれにして座っていた。煙草盆の上に載せられた煙管が、その煙をたゆたわせている。
「運のない娘だ」
クッと男が笑った。運のない娘。その言葉に杏は、じゃあこれが鬼なのね、と思い至った。
「思ってたのと違うわ」
だから、言葉は自然と出た。これが鬼だなんて信じられないほど、奇麗な男だった。小奇麗な武家の跡取り、と言われたって全然不思議じゃない。着ている着物だってこのあたりにはなさそうな品物だった。杏だって、あの村に出来る精一杯の絹糸で織った着物を着ていたが、そんなの全然敵いそうもない。
そんなふうに思いながら、杏が見つめていたら、その心を読んだように、男はさらりと髪を掻いた。
「角…」
「少なくとも、もう人ではないな」
「じゃあ食べられるんでしょうね、私」
「俺はそんなに悪食じゃない」
「困るわ」
「なぜ」
男は可笑しそうにしていた。鬼というより、狐狸の類のようだ。化かされているような、そんな気がした。
「私が鬼に食べられて、それで村は豊作になるの」
村の大人たちが示した計画を、杏ははっきりと言った。その目を見て、鬼はほうと思う。
「ほう」
そうしてそのまま彼は口に出した。杏は、そんなこと微塵も信じていないようなのに、大人たちが言うようにするのだ、と思えた。
「そうでしょう。悪食でも何でもいいわ。村を助けて」
「嫌だと言ったら」
「……仕方がないし、知らないわ。あなたみたいな鬼一人で何とか出来るなんて思わないもの」
その言葉に、鬼は口の中で再び「運のない娘だ」と呟いた。敏い娘。聡いのではない。敏いのだ。大人たちの妄信するそれは、最早出口の見えない妄信だった。鬼に願って飢饉を逃れる。その時たまたまこの娘が目についた。身寄りもないのだろう。村人にとっては一石二鳥だ。居るかも分からない鬼に贄を出して、村では抱えきれない育ち盛りの子供を一人減らせる。彼女はそれを知っている。
「村には帰れないの。みんな困るもの」
「そうか」
煙が途絶えた。杏は、煙管に息を入れなければ煙が出ないのを知っていた。誰が吸っていたのだろう、誰が教えてくれたのだろうとぼんやり思ったけれど、祠の中にたゆたっていた煙は散り散りになって今はもうない。
「吸わないの」
「吸わない。不味いからな」
「じゃあ、どうして」
そう問い掛けたら、鬼は面白そうにも、哀しそうにも見える笑い方をして、背もたれにしていた扉をキィっと開けた。
「え…?」
その先に広がるのは、広い庭だった。奥の方に母屋が見えて、そこに連なる建物もあった。傅く者もある。屋敷だ。武家のような、いや、武家だってこんなに大きな屋敷は持っていないだろうと思われた。
「御覧の通り、人を食す趣味はない」
鬼が笑った。
***
「天界?」
広がる屋敷の廊下を、鬼は杏を引き連れて歩く。傅く者たちには逐一「拾いものだ」と言って回っていて、その度に怪訝な顔をされたが、杏の紅い着物を見て、ああとうなずくばかりだった。それから杏は、『鬼は紅を好むの』と遠慮がちに村の女衆が言っていたのを思い出した。つまり、贄に出された娘と気がついたのだろう。
「そういうことになっている」
鬼が言うに、あの祠と煙草の煙を媒介にして、彼は住いである天界と人間界を行き来する者らしかった。厳密には鬼ではないが、鬼でいい、と言っていた。
通されたのは広い衣裳部屋だった。綺麗な着物が詰まっている。
「それは好かん。着替えてくれ」
「えっと…ごめんなさい。あの村にはこのくらいしかなくて…」
貧相な身形で歩くな、ということだろうか、と判断して杏が謝れば、鬼は眉をひそめる。
「そこが好かん」
「え?」
「お前を贄にするために誂えたものだろう?そんなもの、捨ててしまえ」
存外に優しい言葉を言って、彼は着替えたら突き当たりの部屋、とだけ言って出て行った。
***
着替えながら、杏は泣き出してしまった。『贄にするために誂えたもの』。その言葉がひどく辛い。辛いなんて、思ってはいけないのに、と何度も思った。都で兄は何をしているだろう。何も知らないのだろう。その兄のためにも。こんなに栄華を誇る鬼なら、もしかしてその兄と、自分の故郷である村を救ってくれるのではないだろうか、と。それでも涙が止まらない。
「何を泣く」
そうしたら、衣裳部屋の襖があいて、ばさりと羽織を掛けられた。鬼は分かっていた。娘は殊更に心を鎖して、生贄にされた自分の身の上から目を背けていた。怯えるよりもなお悪い、と彼は思う。
「だって、私…私…!」
「村は助ける。人一人もらった代価は払わねばならない」
そういう問題ではないのを知りながら、彼は淡々と言った。
「兄は助かるぞ、杏」
「どう…して…」
私のなまえ、と呟くように続けたら、鬼は笑った。
「お前の名は預かった」
「え…?」
「お前が十八になるまで、俺が名を預かる。名を預かる間は、村に厄災ないことを約束しよう。だが、それまでお前の自由は俺が奪う」
奪う、と言ったくせに、そんな残酷さを全く感じさせない声音で彼は言った。
「えっと…それで、村が助かる、なら…」
涙を抑えるように杏が羽織の陰から言ったら、鬼はやっぱり笑った。
「では、とりあえず着替えて夕餉を食え」
そんな命令、自由を奪ううちには入らないわ、と、杏は可笑しな気分になった。
「あなたはなんて呼べばいいの?」
「そうだな。蓮二でいい。ハスに、二つ」
「れんじ…さん…」
杏はその名を口の中で転がすように言った。多分、百も二百もある名のうちの一つなのだろうと思われた。そんな、途方もないことを覚らせるくらいには、彼は人間と異なった。だって、この屋敷で傅く者全員が、違う名を呼ぶのだ。蓮二、というのは、杏のために宛がわれた彼の名らしかった。
「夕餉を食べて、今日は眠れ。明日は読み物を出す」
「……機くらいなら、織れますけれど」
可笑しくなって杏は言った。読み物。それは彼の考える命で、仕事らしかったから。
「そうか。ではそれも入れよう」
蓮二が微笑んで言った。鬼なんて、嘘だわ、と杏は心の隅で呟いた。
***
「鬼なんて嘘だわ」
「いきなりだな」
カタンカタンと奥方が機を織る横で書を読んでいた良人は笑って言った。彼の室は今年十八になった娘である。
「あなたが鬼だなんて、やっぱり嘘だわ」
「そうかもしれない」
カタンと機が鳴る。織っているのは紺の上布だった。もうすぐ織り終わる。一反織り上げるのに三月掛った。三月のうちに、彼女は十八の年を通り越した。預かられた名は、もうない。
「私は人かしら」
「択べ」
良人は、室が択ぶことを望んだ。室の兄は、都で取り立てられて、商家の若旦那になった。室には、それが空の上から見えていた。
「今更帰っても」
カタン、と機が鳴る。
「兄さんの枷にしかなれないわ」
カタン、と糸が通る。
「そんなことはない」
そんなことはなかった。都の商家の若旦那は、妹がこの男の室に出されたことを四年経ってやっと知らされ、取り戻さんと山の祠に向かっている。
「お前がここに来なければ、お前の兄が立身することはなかった」
「だったら尚更、ここから出て行けないわ」
出て行く気など更々ないくせに、室は笑った。夏に着るに丁度いい布が織り上がる。それを確かめて、彼女はその布を煙管の載った煙草盆に掛ける。火は、燃え移らなかった。代わりに、するすると布が消える。
「人ではないのよ、もう」
静かに室は言った。煙で布を消すなど、成程化生の術の類かもしれぬが、彼女には人の兄があった。
「お前はこちらを択ぶのだな」
「蓮二さんが択んだようにね」
ふふふと彼女は笑った。彼女がそうであるように、彼に、後悔がない訳ではない。だが、彼女は彼女自身が捧げられた代価として村を救い、化生と成る道によって兄を救った。そうさせたのは彼だったけれど、彼女はそれを望んだ。だって―――
「いくら兄さんでも、良人と私の仲を裂くなんて、駄目よ」
笑った室は、新たな杼を出した。カタンとまた機が鳴る。
「次は蓮二さんの分を織るわ」
「頼む」
良人は笑った。捨ててきた世のことを思いながら、二人は静かに笑い合った。布を掻き消した煙は、もうない。機の鳴る音と、二人の静かな笑い声だけが、その部屋に満ちていた。
***
神楽が祠を巡る。
『消えてしまった』『亡き骸もない』という、村の者たちの言葉が信じられぬまま、四年振りに戻った村の山で、彼はその妹が放られた祠の周りを囃す神楽を呆然と眺めていた。
不作もなくなった、お前も立身した、きっとあの子のおかげだ、と言われた。理不尽なそれを、信じる信じない以前の問題として、彼は呆然とするしかなかった。どこぞに奉公に出したとか、嫁に出したとか、そう突然妹の話が舞い込んで、矢も盾もたまらず村に戻ったら、そうではなかった。彼女は、鬼に捧げられたのだと言われた。
神楽は、祠を一巡すると村の方に戻っていった。村人は、若い彼の肩を叩き、神楽の邪魔にならぬよう小さな声で口々に済まない、済まなかったと言って山を下っていく。あの日、彼女がこの祠で言われたように。
不意に、祠の扉が細く開いて、甘いような煙が流れてきた。彼は、誘われるように人のいなくなった祠の扉を開けた。煙草の煙が満ちていて、むせ返る。その煙の奥に、紺色の布が一反、丁寧に置かれていた。
(嗚呼…)
アイツは機織りが得意だった、と彼は妹のことを思い出す。これと全く同じ柄の布を、昔彼女は織って、都に奉公に出る兄に持たせた。十二、三の子供とは思えぬ出来だったが、兄さんと違って機織り以外出来ないもの、と面映ゆげな、そうして別れの寂しさを感じさせる微笑みで、彼女は言った。機は、もう糸もないからと、それを織ったきり動かしていないと文にあった。機織りは、彼女が遊びよりも好きだったことなのに、それすらさせてやれない己が悔しかった。
奇麗に織られた布に、彼は呟いた。
「幸せか、杏」
その名を持つ少女は、もういない。
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2013/9/17
後書き