全国大会が終わってから、橘の泣き顔が頭から離れない。『代わりにできること』と言って泣いた彼女。そういえば一度東京の書店で会った時も泣かせたな、と思いながらふと立ち止まる。
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「さて…どこに行くか。」
正直に言って、全国大会が終わっても平凡な夏休みが俺に戻ってくることはなかった。
テニス部の練習は相変わらずあった。名義上は引退、だが後輩の指導や自身の次に向けた強化などやるべきことはいくらでもある。
今日はたまたま練習が早く終わった。夏の日差しはまだ高い。本屋にでも行こうかと思ってふらふらしていたら東京まで来てしまった。
「重症だな…」
ぽつんと呟いて大型書店の入り口を見上げる。そこは初めて橘杏と出会った書店だった。
自動ドアが開いて、誘われるように中に入る。途端に流れてくるエアコンの冷気に思わず眉を顰めた。涼しすぎやしないか。だが日差しを浴びているよりは幾分ましだった。
そのまま文庫本を物色する。芥川龍之介の新装版に手をかけて、ふと考えた。
(橘がいるかもしれない)
その思考に心中ため息をついた。重症である。こんなところまで来てしまった上、そんな淡い期待を抱くなど、初恋でもあるまいし、とひっそりと自嘲気味に笑う。
不毛な考えを払拭するように芥川龍之介の新装版を二冊持ってレジへと向かった。会計の後、雑誌コーナーに何の気なしに目をやる。女性向けのファッション誌の明るさに気圧されそうになったその時だった。
「橘くん…!?」
「柳…さん?」
その明るい色の中にいたのだ、橘が。
それから今までの記憶は曖昧だ。彼女の手を引いて近くの喫茶店に入り、コーヒーを注文したらしい。我ながら大胆である。
「あの…柳さん…?」
「…ああ、すまない。また無理やり連れてきてしまったな。」
よく見ればここは前に橘と入った喫茶店だ。
「あの…」
「何か用ですか、と言うつもりなら君と話がしたかった、が返答だ。」
「え…?」
目の前の彼女は心底驚いているようだった。
「えーっと…」
「全国大会の時は、悪かったな。」
「え…いやむしろ私の方こそすみませんでした。柳さんと乾さんのこと知りもしないで土足で踏み入るような真似して…」
「そんなことはない。あれで俺もいっぱいいっぱいでな、君に随分助けられた。」
そう言うと、自然と、笑いが漏れた。
例えばあの時、彼女が泣いてくれなかったら?
「君があの時泣いてくれなかったら、俺は立ち上がれなかっただろう。」
「そんな…大げさです。」
「大げさでもないさ。本当の事だ。」
真っ赤になった顔が愛らしい。
「良かった…」
ぽつりと橘が呟いた言葉に首を傾げる。
「何がだ?」
「え…あの…決勝のとき、ボロボロ泣いたから、嫌われちゃったかなと思ってたから…」
「嫌っていたら、抱きつくと思うか?」
軽く笑ってそう言うと橘の顔はますます赤くなった。あの時のことを思い出している確率100%だ。
「忘れて下さいっ!!」
「忘れられないな。」
そんな押し問答をしているうち、彼女のアイスティーの氷が揺れて、カランと涼しげな音がした。
その音に、ふと考える。
(言ってしまおうか)
好きだと?
考えたら妙に緊張してしまった。
「氷が溶けるぞ。」
「柳さんこそ、コーヒー冷めますよ」
二人で苦笑して各々口をつける。
「橘くん…」
「はい?」
「あ…いや、その…あの書店は君の家から近いのか?」
「え、えーっと…近いといえば近い…かな?」
「何だ、それは。」
歯切れの悪い橘の返答に呆れてしまう。だが同時にその変テコな答えに毒気を抜かれてしまった。
(言って…しまおう)
覚悟を決めろ、と自分に言い聞かせる。
「橘くん。」
「はい。」
真っ直ぐ向けられた視線が眩しい。
「好きだ。付き合って欲しい。」
「…っ!ほんと…に…?」
「やはり駄目か?」
眉が下がるのが自分でも分かる。橘の顔からは回答は判然としない。
申し訳ない気がして、撤回しようとした時だった。橘が突然はらはらと泣き出した。
「なっ…!?」
デジャヴである。しかも三回目という高頻度のデジャヴ。
「すまない…泣くほど嫌だった…か…」
「ちっ違います!嬉しくて…まさか柳さんにそんな風に言ってもらえるなんて思わなくて…」
「!!では…」
「はい、私も柳さんが好きです。お付き合い、して下さい」
こうして俺と杏の付き合いは始まった。
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