11月3日―降って湧いた休日、というのは言い過ぎかもしれないが、暇になった、というのは間違いなく本当で、杏は明るくなり始めたホールで息をついた。

「杏ってば、元気ないのね」

 隣に座る友人に言われて、「そんなことないよ」と笑いかける。

「なら、いいけどさ」
「ねえ、お昼食べに行こうよ」

 昼の休憩をはさんでホールは第二部に入ることになっていた。日舞や謡、残念ながら彼女たちには縁も所縁もない。そのままカラオケにでも行くことになるだろう。


悪くない


 突然空いた休日。何もしないという選択肢もあったが、「明日暇になっちゃった」と昼休みに言ったが最後、周りの友人たちは即刻彼女の祝日をプランニングした。正確にはプランニングできるイベントがあった。
 そう大層なイベントではない。提案したのは吹奏楽部の友人だった。

「明日、文化の日でしょ?文化センターで私たち演奏するの。他の学校も来るし、高校とか大学の吹奏楽部も来るから、杏も聴きに来て!」
「あたしたちも行くの。ね、いいじゃん、久しぶりに杏を連れ出しちゃおーよ」
「そうだねー。最近の杏ってさ、伊武くんばっかなんだもん」

 『伊武くんばっかり』と言われて、杏は顔を赤くする。

「そんなこと!」
「あるの。自覚ナシ?もうこれはとことん付き合わせるしかないね」
「決まり決まり!」

 こうして、空いた休日の予定は組み込まれ今に至る。
 席を立って、杏はまた一つため息を落とした。友人と一緒にいるのは楽しい。だけれど、今日は―今日は、彼といたかった。

(日付の、問題)

 ホールの外に出ると、その明るさに目を射られる。杏は思わず眉間にしわを寄せ、何気なく視線を巡らせた。

「あ…れ…?」




 自分はどうしてこんなところに座っているのか。僅かに考えて、伊武はタンっと床を蹴った。
 ―ついていない、としか言いようがない。
 事は、二日前に遡る。


「深司、先生からよ」
「…担任?」
「違うわ、ほら…」

 受け取った子機の向こうから、ゆったりした声が響いた。

「…はい、代わりました…ああ、先生ですか…明日…ですか?…無理です…いや、そういう問題じゃなくて…いや、だから…!」

 めずらしく声を荒げた兄に、妹たちはきょとんと首を傾げた。
 だが、声を荒げる彼に構わず、話はどんどん進んでいく。

「…だから!何も準備してないって!ちょっ…!」

 どうやら、相手のうちでは話がまとまったらしく、通話が途切れた。

「どうしたの深司、大きな声出して」

 母の顔を見て、彼は大きく息をついた。

「…明日…遅くなるかも」
「あら、頼まれ事?」
「…まあね」

 その時は、とりあえず明日の部活を休むことになる程度だろうと、伊武は思っていた。


(まさか、こんなところまで付き合わされるなんて―)

 思ってもみなかったが、彼が座る椅子の前には長机が置かれ、『受付』と張り紙してある。隣で来場者に愛想よく笑う師は、着物をきっちり着込んでいて、おっとりと何か話し込んでいる。
 この師には、どうにもペースを乱されるな、と伊武は眉間を押さえた。乱されこそすれ、結局流されてここに座っている訳だが。


―お若いお弟子さんですね高校生かしら?
―いいえ、中学生なんですよ。
―落ち着いているのねえ。
―彼のもあるんですよ。
―あら、それは楽しみね。


 この口上を、伊武はもう十回以上も聞いたような気がしていた。こういうことが、とことん向かないと自分でも分かっているし、隣に座る師匠とて分かっているはずだ。
 たまたまだ。たまたま、ここに座るはずだった女性が二日前に風邪で動けなくなった。
―ここに座るはずだった。それだけではない。そもそも、昨日とて部活を休むまでもなかった。

(全く、多少は無理くらいしろよ)

 横暴な思考回路は、仕方のないことと言えるかもしれない。断り切れなかった彼も悪いのだが。
 昨日部活を休んだ、そこまではいいだろう。電話がかかってきた時に、そのくらいは予想した。問題は今日だ。今日ここに付き合わされているということ。

―いわゆるドタキャンだ。
 今日は、彼も彼女も―杏も部活のない久しぶりの休日だった。どこに行こうと決めた訳ではないが、出掛ける約束を、少し前からしていた。それを反古にしたのがつい昨日。昨日の朝だった。

 一昨日、師匠から打診された今日の受付を、伊武は丁寧に断った。とりあえずやることはやったのだから、これ以上拘束される謂れはないという腹のうちを晒さない程度には丁寧に断った。
 だが、それでは終わらなかった。
 昨日の一限目が始まる前に震えだした携帯に入ったメールは、謝罪と懇願、しめて十通。ちなみに差出人は全て同一人物、同門の女性だった。はっきり言って、年上の女性が中学生に送るメールとしては内容も量も異常だろう。最後の2,3通に至ってはなんだか呪詛じみていて、無視を決め込むつもりだった伊武の背筋を粟立たせた。恐怖にではない。その必死さに、だ。
 確かに、ここ一年ほど、彼女に頼りきりだったことは否めないだろう。ほとんどの催事を彼女に丸投げしてきた。師には、他に弟子がいない訳ではないが、催事に連れてこられる弟子など、限られている。催事の規模にもよるが、
 案内を頼まれることを考えれば(今日ももう三度ほど付き合わされている)、入門して日の浅い門弟に頼めることではないし、師匠としても、適当な人間に頼めるものではない。まして都心の教室である。それなりに歴史はあっても、弟子の出入りは多い。10年とまではいかないが、7,8年続けて通う彼は、もう十分古株と言えた。さらに言えば、そんな弟子の中でも自由に動ける人材は少ない。土日祝日を休めて、催事に同伴できる弟子は、実質伊武と彼女くらいのものだったが、部活が忙しくなった彼は、そこから離脱した。
 かと言って、この恐ろしくマイペースな師匠を一人にしておくのが得策ではないことも弟子の間での共通認識だった。来場者が古馴染みだったりした日には、受付も案内も擲って歓談なんてこともざらなのだから。
 それで結局、伊武の部活が忙しくなった結果として、彼女がほとんどの催事に参加することと相成った。
 そういう事情もあって、謝罪と懇願の文面のはずなのに、風邪をひいたことと、それでも代役が立たないから出てくれないかと師匠に言われたことを伝えることから始まったメールはどこか必死な様子だった。別に催事と言っても毎週ある訳ではないし、と彼は思うのだが、メールには何度もデートやら何やらをキャンセルした恨み節が連ねてあった。というか最早、受付を頼むことには関係のない内容である。大人げのない、と一蹴できればいいものだが、謝罪と懇願のメールは、普段「伊武くん」としか言わないくせに、「伊武くん」と書くべきところが全て雅号になっていた。ここまでくるとほとんど嫌味である。言外に含んだ意を察するなという方が逆に無理なくらいだ。要は、彼の方が格上であることをさんざ書き連ねてあるようなものなのだから。大人げないと言えたらいいだろうが、残念ながら伊武は兄弟子だった。
 「それなり」の責任というものを、「中学生らしく」果たすべきだというところを上手くついた文面だな、とどこか傍観するように彼は考える。自分で考えるのもなんなのだが!ここはひとつ、いつも通り傍若無人に振る舞おうと思えたのは三通目が届いたころまでだった。
 彼女は多分分かっている。中学生が、「プライベートがありますから」などと言えたものではないし、言えたとしても、年上の女性が下手に出てものを頼むのを無碍にできるほど横柄な中学生などそうそういないことを。そして彼女が同時に分かっているのが、その奇特で横暴な方に彼が分類されることだ。だからこその雅号なのだろう。
 「中学生」という心理に加えて、兄弟子としての「それなり」の責任を果たせという訳だ。風邪をひいている割には周到なものである。相手が伊武だ、封殺とまではいかないが、しかし、ある程度の言論は封じることができている。付き合いというものは人を成長させるな、と彼はこれまた傍観者の体で考えたのだが、どうにもならなかった。


 そういう訳で、朝のホームルームが始まる前に杏の許に行き、約束を断ることになった。
 杏は「残念だね」と言って微笑んだのだが、朝の時間でばたついていたこともあり、その時はそれっきりで、後からメールもしたが、何と言うか、まずかったな、と思うくらいには良くなかった気がして(理由はさすがに分からないが)、伊武の苛立ちは増していた。




(受付っていうのは普通綺麗な女の人がやるから人が集まるんだよ。それが、俺みたいなやつが座ってるからどうせ客も入らないし、案内だってどうせ聴きとれないとか思ってんだろ?あーあ、だから嫌だったんだよ。だいたい)

「深司くん!」
「え…?」

 沈んでいた思考回路に、いるはずのない少女の声が響いて、彼は目を見張った。




 地区の文化機能を集約したセンターは、文化の日に因んだ展示や催事でいっぱいだった。ホールでは吹奏楽や弦楽、合唱が、いくつかのフロアには書画が並べてある。杏が目を留めたのはその一角だった。
 どうして気がつかなかったのだろう、と思ったが、ホールから出たそこで、何やら人を見送る彼の姿を認めたのだった。
 友人に平謝りして、その一角に走る。

(やっぱり!)

 そこにいたのは間違いなく伊武だった。だが、面倒そうにしている彼は、近づく彼女に気がつかない。

(どうしよう…)

 近づいて、それから杏は逡巡した。彼の隣には着物を着た年配の女性がいて、彼も、休日だというのに制服を着ている。それは十分に声を掛けることをためらわせる要素足り得た。だが、ここで声をかけなければ、来た意味がない。そう意を決して声を掛ける。

「深司くん!」
「え…?」

 返答はずいぶん間が抜けていた。目を見張って杏を認めたかと思ったら、今度はぽかんと言葉を失ってしまう。

「おや、伊武くん、お友達ですか?」

 一番に反応したのは伊武の師匠だった。

「え、ああ…はい」

 まだぼんやりと師匠に応えて、伊武は再び杏を見返す。

「どうしたの?こんなとこで」
「吹奏楽部の友達が、ホールで」
「あー…なるほど」

 「どうしたの?」とはむしろ杏が言いたいくらいだった。彼の座る受付の隣には大きな看板があって、読めるところだけを読めば、最後に「花展」とある。それでも意味は分からなかった。
 ばつが悪いとはまさにこのことだ、と彼は思う。間が悪いとも言うか。
 昼だからだろうか。丁度先ほどの来客から人が途絶えているのもまた間が悪かった。

「ちょうどいいじゃありませんか」

 おっとりと師匠は言う。

「ちょうど人も少ないし、案内してあげたらいいでしょう。どうぞ、見ていってください」

 丁寧に頭を下げられて、杏は狼狽する。「見ていって」ということは何かの展示なのだろうが、それがなんだか分からない。

「あの…何の展示なんですか?」
「花展…華道の展示です」
「華道って…お花を飾ったりする?」
「そうですよ」
「深司くん、お花するの!?」
「…たまにね」

 ずいぶん驚いた様子の彼女に、伊武はいよいよばつが悪くて仕方がなくなる。これではまるで、杏より花を選んだと思われても仕方がないと、思考は沈んだ。
 しかしそんな思考を、杏は知りもしない。好奇心と、それから嬉しさでいっぱいになっていたから。

「…見ていってもいい?」

 ためらいがちに聞かれたそれに、師匠が「もちろんです」と応えた。




「忙しかったかな?」

 あまり乗り気でなさそうな伊武に、杏は思わず聞いてしまう。なんだか自分ばかり喜んでいるようで、決まりが悪かった。

「全然、忙しくなんかないよ。ただ、どうせ俺は杏ちゃんと出掛ける約束よりこっちを取ったと思われてるんだろうなあと思っただけ。あーあ、なんかタイミング悪いなあ」

 毒を含んだぼやきはまだまだ続きそうだったが、杏は杏で慣れているから、こてんと首をかしげる。

「私は、深司くんに会えたから、それでよかったんだけどな」
「え…」
「会えないと思ってから。会えて嬉しい」

 そう言われてしまうと、彼の中に渦巻いていた様々な感情は、するすると鳴りを潜めた。

(敵わないなあ、ほんとに)

 言葉にはしないが、そう思ってしまう。ひどく憂鬱だった今日の受付の仕事さえ、良かったことに思えるから不思議なものだ。

「それに、お花やってるなんて知らなかったから、発見」

 そう言って彼女は、伊武の言葉も待たずに広い室内を歩く。

(なんて言うか、かっこ悪いなあ、なんてね)

 自嘲めいたそれも、それまでにしておいて、作品の前で立ち止まったり動いたりを繰り返している彼女に近づいた。


「そっち、面白くないから」
「……」
「杏ちゃん?そっちは見てても面白くないと思うよ?こっち」
「…あ、うん。ごめん」

 呆けたように大きな活け物を眺めていた彼女に、退屈だろうと思って、伊武は杏を手招いて、部屋の奥の方を示す。…実を言えば、あまりそちらを見てほしくなかった。入口から入って右手を見ていた彼女は、ためらう素振りを見せたが、言われるまま左に目を向ける。

「あ…れ?なんか…」
「うん」

 杏の言わんとしていることを察して、彼は微笑んだ。そちらに飾られた花々は、先ほどまで杏が見ていたものに比べて色も形もずっと鮮やかだ。

「えっとね、なんか、イメージと違う」
「けっこう可愛いでしょ?」
「フラワー…アレンジメント…?」

 杏の口から出てきた言葉は、ずいぶん今風でカジュアルだったが、そう見えてもおかしくない。

「実は生け花」

 彼は生け花だと言うが、彼女のイメージする『生け花』に比べたら、花の種類も、活けられた形も、器も、どれも華やいでいる。

「可愛い…」
「杏ちゃんもやってみるといいよ」
「私は、こういうのは…センスがね」
「できるって。簡単」

 そう呟くように言って、笑った時だった。


「‘  ‘先生!」
「え?」

 杏がぱっと振り返る。声をかけた当人は、思わぬ相手が振り返って、ずいぶん驚いたようだ。ぱちくりと瞬きされて、杏はしどろもどろに言葉を紡ぐ。

「あ、あの、すみません、えっと」

 それに一拍遅れて振り返った伊武の眼光がみるみる鋭くなる。

「あ、ごめん。伊武くん呼んだつもりだったんだけど」

 聞こえなかった?と、彼女はそんな伊武の視線をもろともせずににこにこと笑った。

「あんた、風邪だって…」
「それがねー、午前中寝てたらやっとのことで熱も下がったし、選手交代と思って来たんだけど」

 大学生くらいだろう。品のいいワンピースを着た彼女は、伊武にそう言いながら、杏に目を留める。

「驚かせてごめんね?…伊武くん、ついにお弟子さん取ったの?」
「そんなワケないでしょ」

 呆れたようにそう言って、彼は一つ息をついた。

「じゃあお友達?」

 笑顔のまま何の他意もなさそうに言ったそれが、逆に癪に障って、伊武は杏の手を握ると、少し大きな声で言い放つ。

「カノジョ」




 それで結局、二人は、市街から少し外れた喫茶店にいる。突然のことに真っ赤になった杏の手を、それでも離さずに、「選手交代なんでしょ?」と言って出ていこうとした伊武に、彼女は「お詫び」と言って今いる喫茶店のクーポンを渡した。彼氏とでも行くつもりだったのだろう、それは二枚つづりのケーキセットの券だった。

「なんか…悪いことしちゃったかな?」

 小さく切ったケーキにフォークを刺して、杏はそれを口に運ぶのをためらう。中学生が食べるには、それは少々豪奢だった。

「いいんじゃない。今日だってもともとあの人が風邪ひいたのが悪いんだし」

 そう言って、彼はチョコレートケーキを口に運ぶ。甘くないやつ、と言ったら出てきたのがそれだったが、確かに甘くない。この喫茶店を選んだあたり、趣味だけはいい人だな、とずいぶん上からな態度で考えて、彼はコーヒーを一口飲んだ。

「あの人、急に風邪なんかひくからさあ、昨日は突然、数合わせに花活けるはめになるし、今日は杏ちゃんと出かけるつもりだったのに受付やらされるし。だから、このくらいは自業自得」
「一緒に習ってるの?」
「一応、俺が兄弟子…意外だった?」
「意外っていうか…じゃあ深司くんってお花習ってけっこう長いんだね」
「まあね」

(発見ばっかり)

 彼との付き合い(それこそ、恋人になる前から)はそこそこ深いと思っていたが、華道を習っていることなんて知りもしなかったし、その上あんなに年上の後輩がいるなんて、杏にとっては驚くことばかりだった。だが、今回の件は仕方がないだろう。杏と話をするようになったのは彼女の兄がテニス部を新設した後からで、その頃から部活の忙しさにかまけて花の稽古は疎かになっていて、彼女が、伊武が花を習っている事を知るきっかけなどありはしなかったのだから。

「そう言えば…あの女の人が呼んでたのって、深司くんの名前と違ったよね?」

 もう一つ気になっていたことを聞いてみると、彼は苦い顔をした。

「ああ、あれ。雅号って言って、花活けるときの名前」
「ガゴウ…?」
「みやびに一号二号のごう」

 そう言われて思い浮かべた文字は、それこそずいぶん雅なものに思われて、杏は少しだけ気後れしてしまう。
 そんな彼女に「からかわれたんだ」と言おうとして、伊武は言葉に詰まる。

(あれ、ちょっと待てよ。杏ちゃんが俺の雅号なんて知ってる訳ないのに、なんであの時俺より先に反応したんだ?声でかかったから?それにしたっておかしいよな……)

「あの」
「ねえ」

 声はぴったり重なって、二人は顔を見合わせた。

「どうしたの?」

 先に促したのは伊武だった。それに、なぜか杏は頬を染めて、首を傾げる。

「あのね、笑わない?」
「…笑うかもね」
「深司くん!」

 なんだか可愛いなあと思ってしまって、冗談を言うと、彼女の顔はさらに赤くなった。

「大丈夫。笑わない。約束する」

 笑いながら言うのだから説得力も何もないのだが、杏はケーキに視線を落として、それから口を開いた。

「違ってたら違うって言ってね。さっき生け花見たときなんだけど、展示室の入って右側にいくつか大きいのがあったでしょう?」
「うん」

 立花のことか、と考えて、伊武は相槌を打つ。

「あとで見せてくれたのと違って、イメージ通りっていうか、なんだか難しいなって感じがしたんだけど…」
「…だと思う」

 と言うか、そうだと思ったからすぐに誘導した―それだけではないのだが。

「私、お花は全然分からなくて。だけど、最後に見たのがすごく印象に残っててね。すごく凛々しい感じがしたの」
「……」
「いいなあって思ってどんな人だろうって名前見たんだけど、名前でその人のこと分かるわけないものね。だけど…もしかして、あれ、深司くんじゃないかなって思ったんだ」
「……」
「私が読み方を間違っていなければ、後から来たお弟子さんに呼ばれたのと一緒だったから……深司くん?」

 杏の言葉に、伊武は呆然としてしまう。

 花材も花器も、納得のいくものは用意できなかった。当たり前だ、前日に呼びだされて、何の構想もなくゼロから立花をいけるなど無理に等しい。だが、展示の数が足りないのはまさしく立花で、仕方なしに用意された材料と器でいけた。周りの弟子から余っている花材を回収してみたりもしたが、やはり多めに用意したりはしていないから、どれもこれも一発勝負である。その上、展示用の花をいけるのなんて、ずいぶん久しぶりだった。練習には、全国大会の後から折を見て行っていたから、全く手をつけていなかったという訳ではないのだが。人前に出すものだから、かなり気を遣ったし、師匠も「伊武くんらしいですね」と言ってはいたが、どんなものだか、という気分で、「端に寄せてください」と頼んでおいた。
 そんな、出来栄えだった。だから、「どれが深司くんの?」なんて言われたらどうにも決まりが悪くて、彼女が立花の前で立ち止まるのを避けるため、そそくさと誘導した。
 事実、彼女が最後に立ち止まってしまったのは彼のいけた花の前だった。端に寄せたのが裏目に出たな、と思ったのだが、なんとか前から動かしたのに、その花を、杏は印象に残ったと言う。

「ご、ごめん!やっぱり違った?」

 わたわたと焦り出した彼女に何となく緊張していたそれがほどける。だけれどやはり決まりは悪くて、苦笑してしまう。

「いや、正解。あれ俺の」

 本当はもっと上手いんだ、と、見栄を張ろうとも思ったが、彼女が気に入ったと言うのなら、それでいい気がした。杏にとって名前も知らない誰かがいけた花だった。それを、彼女はいいと言う。彼のものだとは露とも知らずに。

「なんか、嬉しいな」

 伊武はめずらしく素直に感情を口にした。その言葉に、杏の顔は赤く染まる。

「私も、こんな偶然、ちょっとびっくりだけど…なんか嬉しい。ほんとは、今日会えなくて、すっごく残念だったから、余計に、ね」
「ああ、今日は、ごめん」

 約束を反故にしたことを謝ったつもりだったが、杏はくすりと笑った。

「深司くん、忘れてるんだ」
「…何を?」
「今日は深司くんの誕生日でしょ」
「……あ」
「おめでとう。直接言えてよかった」

 本当に嬉しそうに笑った彼女に、つられて彼も僅かに微笑む。

「あ!プレゼント!」
「え?」
「今日、会えると思わなくて、持ってこなかったんだ…ごめん」

 しゅんと肩を落としてしまった彼女に伊武は笑いかける。

「いいよ、そんなの」

―もう十分もらったから


悪くない、一日




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深司誕生日おめでとう!ということで前から書きたかったネタでした。40.5巻の伊武プロフィール、テニス以外の特技、華道より。伊武杏はラブラブが一番おいしいよねって書きながら思いました。タイトルの「悪くない」は照れ隠し。
折り畳みは蛇足チックな用語等の解説(?)です。

なんというか趣味に走りすぎたので反省と自戒を込めて…蛇足(と個人的な覚書)なので気になる方だけどうぞ。
蛇足