横浜心中


「夕顔か」
「おや、すぐそんな顔をする。嫌な男だねぇ」
「そうか?」
「たまにはわっちが相手をしないと、いくらお前様でも叩き出されるよ」

 うちの深司は怖いからねえ、と夕顔と呼ばれた太夫は可笑しげに笑って蓮二の傍に座る。それから準備されていた煙草盆に乗った煙管にゆるりと手を掛けた。部屋には、上物の煙草特有の薫りが漂っている。

「悪くないな」
「あら、商いの話?」

 自分ではいっかな吸わない煙草の薫りに興味を示した蓮二に、夕顔は悪戯っぽく笑った。

「本当に、杏以外には興味がないのね」
「そういう訳ではないのだがな」

 それに夕顔はからからと笑っただけだった。





 少しは遊びを覚えた方がいい、と精市が言ったのは、一年は前の話だった。
 正直なところ、蓮二は太夫など馴染みになるまで幾らかかるか、などと考えることもあって乗り気ではなかったのだが(太夫と馴染みになるまで掛かる金子は、並大抵ではない)。
 その太夫が夕顔だった。初めて会った夜、座敷に入ってきた夕顔につき従っていたのが、禿の杏だった。一目で、蓮二はその少女のことが気になった。恋慕などではない。‘気になった’というのが今思っても適切な感情だと思う。太夫付きの禿だというのに、足取りはどこかそわそわしていて、なんだかおもしろそうだった。
 そうして、夕顔は太夫だけあり聡い女であったから、それにくすくすと笑った。

「御大尽様。この禿は禿とはいえ座敷に上がるのが今日で初めてなんでありんす」
「いや、そういう訳では……」

 暗に自分に興味を持っていないことを言ってきた太夫は、だけれど笑った。

「気に入ったわ。固めの杯を」

 杏はそれに驚いたように顔をパッと上げた。

「姐さん、まだ一度目です!」

 その時、蓮二は初めて杏の声を聴いた。まだ幼さ、というべきか、少女特有の高さを持った声は、鈴の音に似ていた。
 そうして、その思考の後から、蓮二も驚きに目を見開いた。固めの杯は三度通って金子を払って、そうして最後は太夫が気に入るかどうか、という博打の様な仕来りが常識の花街で、こんなことあるのだろうか、と。

「いいから持ってきなさい、杏」

 そこで蓮二はまた初めてその禿の名が‘あん’というのだと知った。興味は尽きず、そうしてその杏が、弾かれた様に酒の準備をしようと、花街の女にあるまじきようなどたどたという足取りで階下に向かうのを聞いてから、彼は太夫を振り返った。

「ありなのか?」
「言いましたでしょう。わっちが気に入ったのだから。それに……」
「……?」

 言いにくそうに彼女は煙草盆から煙管を取って一口吸い、それの吸い口を蓮二に向けた。彼に煙草を吸う趣味はないが、花街の掟は知っていたから、彼はそれを一口呑んで彼女に返す。そうしたら、太夫はそれを悠々と吸い、紫煙を吐き出した。

「あたしはねえ、杏が可愛くてしようがないの。不憫な子でねぇ…禿のあの子をお前様が気に入ったなら、万々歳よ。あたしはあの子を水揚げさせたかないからね」

 その時から、蓮二は、是と判断した相手にはその太夫が廓言葉を使わないことを知った。
 それからどたばたと、やっぱり廓の女衆には似つかわしくない足音で、杏が酒器を携えてその座敷に走り込んできた。
 それが、蓮二と杏の出会いだった。





「申し訳ございません。今日は夕顔太夫がどうしても柳様のお相手をなされず、わたくしがおささなどのお相手を申し上げます」

 三度目かそのあたりだったか。夕顔は「杏に相手を近々させる」と毎度毎度言っていて、そうしてもちろん廓のそれらしいことも全くしない二人だったが、本当に、座敷に酒器と三味線を携えた杏が来た時には、蓮二も面喰ったものだった。

「あの…、本当に申し訳ありません。わたくしでは御大尽様のお相手など…」

 面喰った蓮二のそれが、不満をあらわにするものと勘違いした杏に、彼は面白くなってしまって声を上げて笑った。滅多に声を上げて笑うなどしないのに、どうしてか、この杏という禿は面白い。

「何が可笑しいのよ!…あ!し、失礼いたしました!」

 思わず勝気な声音で半ば怒鳴るように言ったあと、彼女は直ぐにそれを謝罪したが、それに余計、蓮二の中での杏への興味が募った。

「いや、お前はそうやっていた方がいいよ。夕顔も「杏は勝気だ」と言っていたしな。俺に敬語を使うことはない」
「でも…」
「酒はいいから、三味を弾いてくれないか。俺はどうにも酒を飲む趣味が持てなくてな」
「そう?分かりました」

 きょとんと首を傾げた杏に、しかし柳は再び思い切り声を上げて笑うことになる―――





 ビーンと弦が鳴る。ビーンともう一度鳴らしてから、杏は言った。

「ヒドイのよ、蓮二さん。私の三味、初めて弾いた日も笑ったけど、今もたまに笑うの。まだ下手なのは認めるけどさ!」
「ま、失礼な客ではあるけど、正直な客でもあるよね」
「深司くん!」

 襖に背を預けて煙管で煙草を吸っていた深司をねめつけるようにしたら、彼はやれやれと手を上げる。

「ごめん」
「でも、今日は良かった。姐さんが相手をするって。姐さんほんとに気まぐれなんだから。蓮二さんはあれでも御大尽なのよ?」

 それに、深司は「そうだね」と呟くように応じた。良かったと口で言いながら、寂しそうなのがどこか悲しかった。杏は知らないが、実のところ蓮二が会いに来ているのは彼女だ。太夫ではない。

「さて、俺はそろそろ出るよ。杏ちゃんは今日座敷に上がらないんだっけ?」
「うん」
「じゃあ早めに寝た方がいいよ。夕顔姐さんは寝てても起こらないから」
「そうだね」

 応じた杏に笑って、彼は立ち上がった。





「刀、は持ってないよなあ。商人だしなあ」
「……ずいぶん馴染んだな、俺も」
「何それ?馬鹿にしてる?武器持ってたら出して。匕首でも何でも。預かるから」

 言われて柳は、礼儀として懐に何も入っていないことを示す。廓には、武器を持ち込むことは許されず、武士も商人も同じく扱われるのが常だった。

「うーわ。あんた敵多そうなのによく丸腰でいられるね」
「お前こそ馬鹿にしているのか、伊武深司」
「よく知ってるね。ま、いいよ、上がりな」


 フイっと店の内側を振り返って、彼はトントンと階段を上がる。この一帯では有名な用心棒の伊武深司に案内されるくらいなのだ、大尽として馴染んだ半面、警戒もされていることが分かった。成程、廓は案外調べが早い、と訳もないことを蓮二は考えた。


「あんた、甘い匂いがするね」
「ん?」
「着物。前にいたなー、そういう奴。叩き出したけど。流行ってるらしいじゃん」

(……麻のことか?)

 スッと目を細めて立ち止まった蓮二を、ふと深司が振り返る。

「何?夕顔姐さん待ってんだけど」
「それでお前が案内なのか」

 噛み合わない会話に、深司は笑った。

「うちの女衆に売らないなら、別に構いやしないよ」

 彼は一層暗い笑みを深めて、障子戸を細く開く。蝋燭の灯りが、彼の顔に陰影を持たせて、それからそこに、一人の太夫の姿を見せた。





「ああ、深司がねぇ」

 ビィンと確かめるように三味線の弦を鳴らした夕顔を、蓮二は杯に軽く口づけて眺めていた。

「そうねぇ、お前様の商いのことは分かっているのよ、あたしもね」
「早いな、さすがに」
「あら、幸村様だって早晩分かることくらい知っていて遊びに出したんじゃないの」

 ビィンともう一度弦が鳴る。弾く気があるのか、ないのか、気を持たせるようなそんな音だった。

「いや…女衆に売らないならというのは、あれか、去年の」
「さすがに詳しいね。そうさね、ここの店では何ともなかったが、三軒となりまで流行ったあれさ。たしか大陸の、なんといったかね、興味がないから」
「去年のあれは阿片だったな、確か。今日その用心棒に同じように甘い匂いがすると言われた」
「あら、お前様のところも扱ってるのかい」
「いや、うちは麻だけさ」
「それで、さ」
「は?」

 それで、と言ったきり、夕顔は言葉を切って三味線を弾いた。ビィンと座敷を切り裂くようなそれが、妙に硬い音に、蓮二には思えた。





「失礼を承知で聞くんだが」
「え?」
「杏はどうしてこの店に?」

 相変わらず上手いとは言えない三味線の音の途中で、蓮二は今日も夕顔の代わりに、ということで座敷に上がった杏に聞いた。そうしたら、杏はきょとんとしたように手を止めて、それから少しうつむいた。

「あの、私もともとは三軒くらいかな、隣の店で下働きをしてて。禿になんかなれる才覚もなかったから、本当に下働きだったんです。だけれど、一緒に仕事をしていた子がね、なんと言ったらいいのかな、人が変わってしまって。同じ部屋に住んでいたから私も店を叩きだされてしまって途方に暮れていたら、たまたま夕顔姐さんのお練りがあって」

 ぽつぽつと杏が言った内容を、蓮二は頭の中で整理する。いや、整理するまでもないほど簡単な話だ。
 要するに、去年の阿片騒ぎで元居た店を追い出され、たまたま拾ったのが夕顔だった、ということだろう。

「さて、あそこはどうなったんだったか」
「え?」

 そう思ったら、夕顔が杏と自分を引き合わせたことに妙に納得がいく。不憫な思いをさせたくないというのも。というかそもそも、この少女に芸妓になる気はなかったのだろう。
 そうしてあれを売っていたあの商人はどうなったか。彼が知らないはずはないのだが、その件は幸村ともう一人、用心棒ではないが腕の立つ真田がつぶしてしまったと聞いていた。それから一年、ずいぶん経って先日伊武に見咎められたときか。確か路地裏で阿片を売っていた男を一人、と蓮二は思う。

「ああ、それで。ずいぶん鼻の利く男だ」
「あの、蓮二さんさっきから何を?」
「ああ、こちらの話だよ」

 例えば彼女の郷里の話や、親兄弟の話を聞いたことはない。聞いたことはないが、いるのだろう。下働き、水揚げさせたくないと大夫が言っているのだから身請けしたっていいと思っていた。嘘ではない。それくらい気に入っていた。だが。

「俺にその資格があるのかな」
「え?」
「同じ穴の狢という話さ」


 彼は薄く笑った。
 心中立てには、まだ早い。




=========
2020/06/10


後書きと言い訳