an introduction
「珍しいな、深司が俺の研究室に来るなんて」
珍しい来客に、森は吸いかけの煙草をビールの空き缶に落とした。
「こないだの、礼を言っておこうと思って」
「深司にそんな殊勝な心掛けがあるとは知らなかったよ」
苦笑してそう言うと、伊武は面倒そうに血のついた白衣を押しやって、物の積まれたベッドに適当なスペースを確保して、そこに座った。
「……相変わらず、汚い部屋」
適当に言って、パソコンに向き直った森を見やる。
「で、その汚い部屋にわざわざ来てくださった理由を聞いてもいいよね?まさか、ほんとにお礼をしに来たって言うなら、今すぐ脳を開いて検査してやるけど?」
「……俺も、そこまで馬鹿じゃないよ。礼を言うほどのデータじゃなかった……この間お前に送らせたデータの詳細が聞きたい」
伊武は、ためらうことなく端的に言った。
「詳細?
Ce-0の?」
転がる椅子でもってするりとパソコンの前からベッドの方に動いて、森は首を傾げる。
「どうしたの、急に。この間も思ったけどさ。
Ce-0って、昔の上海マフィアのデータだよ?読めばわかるだろ。ていうか、俺に要求したのはお前なんだから、中身の予想くらいだいたいついただろ」
いつもの彼と、それは少し違っていた。饒舌、と言えるかもしれない。それは、自分が求めていることを、彼が多少なりとも知っていることの証左だ、と伊武は思う。
「言ってるだろ、詳細が聞きたい」
きっぱりと言われて、森はずれかけた眼鏡を押し上げた。
「誰の」
短くそう問う。それは正解だった。森は、彼が、かつての上海マフィアにおける大まかな組織や相関関係を知りたがっているのではないのに気がついていた。だから、あえて「何の」ではなく、「誰の」と問いかけた。それは、確かに正解だった。
「一応、先に言っておくけど、俺にも分からないことは多いからね」
牽制に、伊武は鼻白む。それは自嘲に似ていた。
「千歳、千里」
森は、その言葉にぴくりと眉を上げた。
「……知ってるだろ?」
確証を持って言われたその言葉に、森は軽く息をつく。だが、パソコンの前には戻らずに、くるくると椅子を回して、しゃべりだした。
「チトセセンリ。年齢、不詳。性別、男。国籍、推定中国。出身、日本」
手元に資料があるわけでもないのに、彼はすらすらとよどみなく千歳千里という男のプロフィールを話す。それは、もうずっと昔から知っていたことのように伊武には思えた。
「元虎龍メンバー。十年前に虎龍から離反。消息、および生死は不明」
一気に言って、彼は煙草を一本取り出す。
「以上。悪いけど、それ以上は俺も知らない」
煙草に火をつけて、ゆらゆらと煙を流す。「知らない」と彼は言ったが、どちらかと言えば「言いたくない」と言う方が適切なように、伊武には思われた。だが、そんなことに頓着するほどの優しさを、彼は持ち合わせていなかった。
「虎龍ってさ、十年前に壊滅してるよな。十年前、壊滅直前に、橘さんも離反してる。俺たちが橘さんに拾われたのが、八年前のことだ」
森は、机の上で頬杖をつく。彼の言わんとしていることが推し量れないほど、頭が悪いという訳ではない。
「どうやってそこまでたどり着いた?」
「……お前に話す義理はない」
「深司、仲間意識って知ってる?」
苦笑して言うが、彼がそれを気にとめることなど、期待してはいない。
「仲間意識を俺に求めるなら、知ってること話してくれる?まあいいけど、俺、別にお前に自白剤飲ませるくらいならできるから」
それこそ、仲間意識の欠片もない発言は、いつものことなのであまり気にしないが、「知っていること」と言われると、如何な彼でも少し解釈に困る。
「…多分、俺が知ってることは、深司も知ってることしかないと思うけど」
「何でもいい」
返答はすぐだった。伊武にしても、森が話すことは自分の知っていることで構わなかった。ここで行っておきたいのは虚実の擦り合わせだ。彼の知っていることと、自分の知っていることから推察されることを、どうにかして手に入れたかった。
そう、苛烈なまでの視線で訴えたら、森は物憂げに一つ息をつく。伊武の真意が知れた証拠だった。
「…そこまで言うなら、話すよ。ただ、繰り返しになるけど、俺が知ってることとお前が知ってることはたいして変わらない。ついでに言うと、橘さんのことを詮索するのは、あまりほめられた傾向じゃない。俺も含めてね」
少しだけ煙を吸い込んで、彼はまたそれを灰皿代わりの空き缶に落とした。
「虎龍。上海で最大勢力だったファミリーだ。橘さんと千歳千里は、十年前まで、その虎龍の最年少幹部だった。杏ちゃんも所属していたね。彼女も、上級幹部だった、と言って差し支えはないだろうね。かなりの地位に就いていた。その虎龍の情報が、当局に流れ出したのが、さらに遡って約十二年前。幹部クラスしか知らない売買ルートなんかも漏れだしたことで、虎龍の上層部はかなり揺れた。犯人の特定に二年かかった。結果として、千歳千里が情報を流していることが発覚。発覚と同時に、千歳は虎龍の、かなり重要な情報を盗み出して記録した
USBを持ち出して逃走したらしい。その追捕、および抹殺を命じられたのが橘さん。結局、千歳は見つからず、追捕を命じられた橘さんも失踪。その後、そのUSBによって、虎龍は当局に一網打尽にされる。虎龍には、千歳を抹殺する余裕も、それを放棄した橘さんを追う余力もなかった。それが十年前。それから二年後、橘さんは俺たちをスラムから引き上げて、今のファミリーを作った」
以上、と大仰に手を広げて彼は言った。
「どう?目新しい情報はないだろう?」
「確か、こんな話もあっただろ。橘さんは、実際には千歳を殺していた」
「そう…そんな話も実しやかに流れた。だけど、情報は確かに流出して、虎龍は壊滅した。例えば、橘さんの動きが一歩遅くて、情報が流出した後に、千歳を抹殺した、という可能性も、0ではない」
「いつも思うんだけど、おかしいところが、いくつかあるよなぁ……」
桔平の率いるこのファミリーは、かなり新しいものだった。結成されてからまだ十年経っていない。だが、それなりの規模を誇っている理由は、ひとえにトップの橘に因るものだということは周知の事実だった。
虎龍の元最年少幹部―――それは、香港でもビッグネームだった。裏切り者は、この社会では得てして歓迎されないが、桔平の離反は、非常に微妙だ。千歳の失踪と同時に彼にはその抹殺を命じられたが、それと時を待たずに虎龍は瓦解した。だから、この彼の「離反」は、虎龍にとって本当に離反だったのかどうかも微妙で、ましてや周囲の人間からしてみれば、裏切り者を抹殺した虎龍の生き残り、とさえ思われている。先程の森の見解に反して、千歳千里は、橘桔平によって殺されたのだ、というのが、今のところの大筋の見方だった。それは伊武が言ったことでもあり、同時に確証を得るだけの存在が、今のファミリーにはいた。
それだけの実力と裏切者を殺した、という理由があれば、桔平はすぐに虎龍の再起を図っても何らおかしくはなかったように、二人には思える。だが、実際には、彼はスラムで、腕の立ちそうな者に声をかけて全く新しい組織を作った。しかも、虎龍が壊滅してから、二年の時を待って、だ。
「それに……杏ちゃんが見つかったのも、俺たちを橘さんがスラムから引き上げてくれたのとほとんど一緒だった」
「橘さんは俺たちを集めると同時に、かなり精力的に杏ちゃんを捜していた。だけれど、見つかった杏ちゃんは、手負いの獣そのものだった…とか言いたい?」
沈黙は肯定だった。確かに、捜し出した杏は、かなり荒んでいた。
荒んでいた、という言い方は語弊があるかもしれない。彼女は、明らかに、桔平に敵意や憎悪を抱いて接していた、と言う方が正しい。
だが、彼らは、それが桔平に対する度し難い依存の表裏なのだということを知る。桔平の下で、杏は次第に落ち着いていった。落ち着いていった、と言うよりも、二人の関係は離れ難いことを思い出した、と言う方がしっくりくるような関係だった。
元来の明るさもあってか、突然桔平の隣に現れた杏だったが、すぐに幹部やファミリーに溶け込み、また、虎龍での人脈でもって、この新しいファミリーに多大な功績を残して、幹部の地位についている。と言うか、杏の持つ人脈がなければ、今の年若い彼らがファミリーの幹部として周囲に認知されることはなかっただろう。それほどの力を、杏は誇っていた。
その杏こそが、橘桔平が千歳千里を殺したことの確証たり得る存在だった。
虎龍における橘兄妹と千歳千里は、最年少幹部であり、対外的にも有名なスリーマンセルだった。スリーマンセル、というよりか、兄妹。そうだったからタチバナアンが不動峰の幹部になった、というのは、香港どころか上海ですら、マフィアたちに万雷の喝采でもって迎えられたのだ。杏が実兄に与する。それは即ち千歳千里の裏切りを橘桔平が粛清した、と捉えられたからだった。それだけ虎龍の橘杏は義理堅い幹部だった。ボスと兄を絶対に裏切らない女史。
その確実に喉笛を掻っ切る、あるいは脳を貫く射撃の正確さからグウェイとすら呼ばれた杏の名声は、確かだった。
「おかしいよな、かなり。杏ちゃんはあそこまで橘さんにこだわるのに、どうして二年間も二人は一緒にいなかった?どうして、結成当時に杏ちゃんは橘さんの隣にいなかった?もっと言えば、だ。どうして橘さんは虎龍の再起を図らずに俺たちを拾い上げた?杏ちゃんだってそうだ。虎龍の再起を図ると言うだけなら、彼女の能力を顧みれば、十分にそれは可能だったはずだ」
「深司、さっきも言ったよね。詮索は、ほめられた傾向じゃない。俺だって人のことは言えないけどさ、多分、その先は踏み込んではいけない一線だ」
ジッポのライターをいじって、森は天井を見上げた。
「いつか話してくれる時を待とう、とか、そういうことが言いたい訳じゃない。これ以上は危険だ……キルゾーン―多分、そういう領域だ」
「でも、それじゃあ俺たちの組織はかなり危ない橋を渡ることになる」
「深司、言って。なんで急にそこまで橘さんと杏ちゃんの過去にこだわりだした?確かに、お前が二人のことを疑問に思っていたことは知ってる。だけど、お前がそういうことを言うってことは、何かあったはずだ」
森の問いに、伊武は感情の読めない視線を細めた。あの時のことを、思い出すように。
「杏ちゃんが、千歳の名前を呼んでいた」
「え…?」
「夢の中で、ね」
その時だった。伊武の携帯が、スーツのポケットの中でうるさく震えだした。
「……何?アキラ?」
ぼそぼそと言って、通話ボタンを押す。
『深司、今どこにいる?誰か一緒にいるか!?』
声はずいぶん切羽詰まっていた。
「…本部にいるけど。森の研究室。何かあったの」
『本部か!?すぐに橘さんの執務室に来い!森も連れてこいよ!』
「は?お前、何言って……ちょっと!」
通話は、途中で途切れた。
「どうしたの?」
「分からない。ただ、橘さんの執務室に来いって」
「俺も?」
「連れて来いとさ。なんか、かなり焦ってたから……」
そう言いながら、微かな不安が頭の中をよぎる。
「じゃあ、この話はいったんお開きだね。行こう」
白衣を脱ぎ捨てて、森は歩きながらネクタイを結び直す。伊武もそのあとに続いてスーツを正した。
桔平の執務室は、ビルの最上階にあった。対する森の研究室は、地下室にある。エレベーターホールで、伊武は苛々と足を踏み鳴らした。何か、厭な予感がする。
「落ち着かないね」
その動作に、森は苦笑したが、落ち着かないのは彼も一緒だ。今日の神尾のスケジュールを考えるに、その不安は増し、落ち着きは失われる。
ポーンとのんきな音がして、エレベーターの扉が開く。乗り込もうとして、二人はそれに失敗した。
「深司、森!」
今、まさに乗り込もうとした箱から、先ほど電話口で焦っていた男が顔を出したからだ。
「アキラ!?橘さんの執務室にいるって話じゃなかったの?」
「追い出された」
「は?」
「とりあえず、執務室の前まで行こう。石田がいる」
分からないことは多い。しかし、そのまま、三人はエレベーターに乗り込む。
「何があったの?場合によっては、ここでお前を殺すけど?」
緩やかに上昇を始めた箱の中で、僅かばかりの落ち着きを取り戻した伊武が、腰に提げた銃を流麗な動きで取り出し、神尾のこめかみに突き付けた。
「撃ってもいいぜ」
その一連の流れるような動作に、しかし、神尾は、先ほどまでの焦りを忘れたようにはっきりと応じた。
「まあ、だが、できれば後にしてくれ。事情を説明する。俺にも分からないことがあるのを前提に、な」
それは、肯定だったが、同時に否定であることを、彼は分かっていた。例えば、ここで彼が『撃たないでくれ』などと言っていたら、伊武は即座に引き金を引いていただろう。
「深司、やめよう。ここで事情を知っているアキラを殺すのは得策じゃない…何があったとしても、だよ」
銃口を手で押さえつけて、森は静かに言った。同時に、エレベーターは上昇をやめる。
「何があったか、聞くよ、アキラ。どうせ、執務室には入れないんだろう?」
長い廊下を歩きながら森が言った。その先の執務室の前に、途方に暮れたような顔をして、たたずむ石田の姿がある。
「アキラ!連れてきたのか?」
「というか、鉢合わせた。馬鹿だよな、すれ違いになってたらどうするつもりだったんだよ…だいたい…」
伊武はぐちぐちと文句を言い始めたが、たたずむ石田の表情を見て、自分と森が考えていた『最悪』のシナリオは辿っていないということが知れて、内心息をつく。
「そのくらいにしておいてくれないか、深司。俺も、全然事情が分からないままに執務室から出て行くよう言われたんだ」
相変わらず、途方に暮れた顔をして、石田が言った。
確か、石田は、今日は桔平の護衛のはずだ。それをわざわざ外してまでのこととなると、事はかなり大きいか、もしかすると、想像以上に小さいかのどちらかしかない。
「とりあえず、事情を聞く。場合によってはお前を撃つ」
「撃たれるほどのことを、アキラがしたとは思えないんだが」
石田の声は困惑していて、おや、と森は心中首を傾げる。事は、そんなに深刻ではないのか?と。
「どういうこと、石田?」
疑問はそのまま口をついて出た。すると、本当に困ったように石田がその高い肩を竦めた。
「別に、杏ちゃんなんともないぞ。怪我もなかったし。アキラを引きずるみたいに執務室に来たのは杏ちゃんだから」
アキラじゃなくて、と付け足すと、銃に手を掛けていた伊武が、ぽかんと目を見開く。
「え…?」
「え…?だって、アキラ、俺にも来いって言ったじゃん!てっきり、杏ちゃんにヤバい怪我負わせて、もうどうしたらいいか分かんないとかいうさ、馬鹿な顛末を想像してたワケだよ、俺たちは!」
彼は、普段なら言いもしないような辛辣な台詞を吐いた。それに、神尾は軽く息をつく。
「一応、俺の沽券に関わるから言っておくが、俺が杏ちゃんの護衛してて、ヤバい怪我負わせたこと、一回でもあるか?」
「……ないけど。お前が無駄に焦ってるから、こっちも無駄に焦ったんだろ?しかもお前『撃ってもいいぜ』とか言ったじゃん。何あれ、カッコつけたの?……て言うかさ、調子に乗るなよ。お前の沽券とかどうでもいいんだよ。杏ちゃんはそれなりに自衛ができるからね。そりゃ、お前がいなくても、とかまでは、さすがに俺も優しいから言わないよ。だけど、杏ちゃんは銃だって提げてるし、使えるし、体術もできる。普段からさ、独りになるなってみんなして口酸っぱく言ってるし、独りにするなって橘さんからも言われてるけどさ、実際問題杏ちゃんは相当強いよ。射撃場ではずしてるの見たことないもの」
伊武が一気に言ったそれは、ほとんど八つ当たりだった。だが、事実でもある。
「で、結局何があったんだ?なんで俺もお前も執務室から追い出されてんだ?」
石田の問いは、この状況においては至極真っ当だった。
その問いに、神尾は少しだけ考える素振りをした。考えるような仕草をして、それから、思い切って、と言う風に口を開く。
「分からん」
***
「杏ちゃん、この後どうする?」
神尾は上機嫌だった。二人の仕事は午前中で片付いた。仕事、と言っても、大きな取引があった訳ではない。ただ、桔平の知り合い主催のパーティーに杏が出席した。しかも午前中のパーティーだ。大した用事ではない。
午前中で終わることは初めから予想されていたことで、午後の時間を自由に使う許可を、二人ともボスに取り付けてあった。
「じゃあ、買い物付き合ってもらおうかな?」
「もちろん!マカオまで行く?俺、明日非番だから」
申し出に、杏は少しだけ考える。物のついでだ、マカオまで行ってもいいかもしれない。
「そうだね、じゃあ……」
彼女の口が、その先を言いかけて不自然に止まる。
「……」
それを見て、彼は何も言わずに、とんとんとん、と三回足を踏み鳴らした。
『ねえ、やっぱりマカオは止めにしない?ランドマークのカフェで少し休みたいな』
『分かった。行こう。あ、財布』
自然と、彼女の口からは流暢な普通話が流れた。応じた彼のそれも、何の違和感もない。彼は、言葉の最後に、財布、とわざと大きな声で言って、胸ポケットに手を掛ける。
ランドマークと言ったのに、二人の足は細い路地裏に向かった。当たり前だ、香港に住んでいて、ランドマークも何もない。失策だったな、と神尾は一つ舌打った。
ついてくる気配は多分、パーティーから出てくるそれに混じっていた。
会場から出た後、散り散りになる人影の一つや二つの行き先が同じくらいで驚くほど馬鹿ではないが、すぐに『日本語』で彼女と会話を始めたのは馬鹿な真似だったかもしれない。
香港で日本語を聞く機会は案外多いだろう。観光客もいる。だが、あのパーティー会場から出て日本語で話すのは、自分たちがタチバナの配下だと言って回っているようなものだ。二人にしてみれば、特段、それによって起こる被害について考えることもなかったが、これが被害だと言われれば、まあまあ面倒と言えるかもしれない。
大通りを逸れる。人影が絶えた。この界隈で、人影が絶えることは稀だ。稀だが、都合は良かった―双方にとって。
「遅いぜ」
短く、『日本語』で彼は言った。
カンッと短い音がして相手の手元の銃が撃ち抜かれる。伝わる衝撃で、男は三間ばかり飛び退いた。
「スピードで、俺に勝つには百年早いな」
してやったりという顔で神尾は笑った。背中に隠しておいたはずの杏に近づいた気配は、見事な手刀で、構えた匕首を落とされる。そのまま腕をつかんで、彼女は自分よりもかなり大きい男をそのまま投げ飛ばした。
「杏ちゃん、さすが」
ヒュウと口笛を鳴らしたところで、先ほど銃を破壊した男とは逆の方向から神尾に気配が迫る。
「残念」
それにも笑みを絶やさずに、ギリギリまで迫った男の額に、ハンドガンを突き付ける。
「スーツって、こういう時便利だよな。袖に銃を隠しておける」
余裕の笑みでそう言って、さりげなく杏を背中に隠し直す。勝てないことを覚ってか、男はサッと飛び退いた。
気配は三つ。それ以上はいないだろう。二人は、三人の男と対峙する形となった。
『一応、言っておくけど、うちのファミリーは許可がない限り「殺さず」だからな。生ぬるいだろうけど、やり合う気はないぜ』
対峙した三人に、神尾が短く声をかける。すると、すっと一人が大通りに退いた。
少しずつ、二人との距離が離れていく。
『こんなところで、何をしておられる』
離れ際、少し訛りのある声がした。
『こんなところで、何をしておられる、鬼姫』
「!!」
「杏ちゃん!?」
その瞬間、杏は神尾の背中から飛び出して、スカートの裾を割き、ホルダーから小銃を引き抜く。照準を合わせようとした時には、男たちは人波にまぎれていた。
***
「で、杏ちゃんはお前を引きずって本部まで戻って、橘さんの執務室に特攻。橘さんは俺とお前を執務室から追い出したって訳か…分からないな…」
話を聞いて、ますます困惑した石田とは対照的に、伊武と森はちらりと視線を交わした。
「俺にも分からない…今の話で、気になることはないか、森」
神尾は、その鋭い目つきで森を見据える。森を呼んだのは、彼ならばあるいは、何かを知っているかもしれない、という打算からだった。
「……うん、分かることがあるよ」
妙に素直に、彼は言った。
「その男、上海訛りで話したでしょう?」
平然と言って、取りだした煙草に火を付けた森に、神尾と石田は瞠目する。
「なん…で…分かった?」
確かに、彼らは上海訛りで、最後の最後に杏に声を掛けた。その声に、杏は恐ろしいほどの怒気を放って応じた。
「そいつらが言ったっていう『鬼姫』。虎龍時代の杏ちゃんの通り名だよ」
言葉を継いだのは伊武だった。森は、ふっと高い天井に向かって煙を吐く。
「その先に何が起こるかは、残念ながら俺たちにも分らない。でもとりあえず、桜井と内村呼んで。何が起こるかは分からない。でも、‘何か’は起こる」
苦笑して、彼は言った。
***
「鬼姫と言われたわ」
神尾と石田を追い出した桔平の執務室で、その兄と対峙した杏は、兄を睨みつけながら言った。
「昔のお前のことを知っている連中なんて五万といる。どうだ、いっそのことここでも鬼姫と名乗るか」
鷹揚に手を広げてふざけたことを桔平は言った。杏の手が震えて、裂けたスカートの裾に伸び掛ける。その脚のホルダーに収まっているのは、マテバだった。
「間違いない気配だった。上海訛りの間違いない声だった」
「……」
その一言に桔平はふとそのふざけた態度を改める。……初めから、ふざけているつもりなど微塵もないのだけれど。
「ヤンロンよ」
覚えているかしら、と彼女は冷たい声で言った。先程までの震えは収まり、そうしてずっと落ち着いた動きでその手がマテバを抜いた。
「私の子飼の部下だった楊龍よ」
彼女は照準をきっちりと兄に合わせる。まるで、十年前のあの日のように。それでも、十年前よりも確実に撃てる予感が、彼女にはあった。
「十年待ったわ。私は兄さんの言う通り生き残った。そして、十年あなたの創ったファミリーで待った。話して。千歳千里は何をしたの。殺していないと言うのなら、あなたは何をしたの。ヤンロンは虎龍の残党になる。私は彼に何をしているのかと言われた。私は不動峰の幹部である以前に虎龍の残党よ」
彼は、この日を予感していた。防弾ガラスの窓の向こうで雨が降っている。言うべきことは一つしかなかった。一つしかなくて、そうしたらきっと、この妹と、最悪の形で対峙することになるのを、知っていた。回避したいところだったが、今の彼女に全てを信じさせ、説得するだけの証拠が、手元にない。だが、彼女にかつての部下が接触してきた今、もう引き返せなかった。
「千歳と俺は、虎龍を壊滅に追いやった」
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