Good morning or Good-bye
橘の言葉に杏の目が、昏い色を湛える。
「知っているわ」
だが、その次に彼女の口からこぼれ落ちたのは橘の予想の範疇を遙かに超える言葉だった。知っている…?何を知っているというのだ、と、桔平がガタッと椅子から立ち上がると、杏は静かに言った。
「知っている。全部じゃない。でも、ある程度のことは知っている。兄さんは詰めが甘いのよ」
『桔平は詰めが甘かねえ』
一瞬、かつての同胞にいつも言われていたことが頭を過る。目の前の彼女が同じこと言ったからかもしれず、或いは、目の前の彼女もまた、彼と同じマテバを構えていたからかもしれなかった。
「データ
Ce-0」
「それがどうした。ただの昔の上海の相関図だ」
「そうね。森くんも、深司くんも閲覧できるデータだもの」
橘は杏を探るように睨んだ。その視線に杏は構えていたマテバを下ろす。銃口が床を向いた。
「でも、
Ce-0の隠しファイルは、兄さんしか閲覧できない」
「…!杏、お前!?」
「兄さんは詰めが甘いのよ。私がイギリスで使っていたホテルと部屋番号はいつも決まっていたわ」
そこまで言われて、橘は彼女が辿り着いてしまったファイルの存在に気が付いた。辿り着いたのだ。ある意味で、正論の方法で。ある意味で、邪論じみた方法で。
「ボスが死んだ今、あの部屋直通のフォンナンバーを知っているのはこの世に二人だけだと思っていたのね、兄さん」
虎龍のボスと、兄である橘と、そしてそれを盗み見た千歳以外の人間が、そのナンバーを知っているはずがないと、橘は思っていた。その部屋を使っていた杏が知らないはずはないのに。だけれど、心のどこかで、彼女がそのファイルに辿り着くのを望んだから、自分はそのナンバーをキーにしたのだと、今更のように彼は思った。
『上海に行くわ。昔の部下が待ってる』
唄うように、杏は上海訛りの普通話で嘯いた。彼女は、絶対に兄を裏切らない……兄たちを裏切らない。そのことを知っているから、橘は自分が考えていた以上に最悪のシナリオが出来上がってしまったことに気が付いた。
『不動峰が相手じゃ、グウェイの率いる虎龍の残党は、今度こそ壊滅するかしら』
彼女はやっぱり唄うように言った。杏のそれは真っ赤な嘘だった。橘にはそれが「今度こそ幽霊が虎龍の残党を壊滅させる」としか聴こえなかった。グウェイ。鬼。鬼姫。虎龍の残党である自らを、彼女はグウェイと言う。幽霊と言う。
ほとんど全てを知ってしまった彼女は、虎龍の亡霊のような自らの手で、その幻影を断ち切ろうとしている。上海に行くと、彼女は上海訛りで言った。
パンっと一発だけ、床に向けられた銃口から鉛玉が落ちた。それが全ての終わりで、全ての始まりだった。
***
Ce-0には、余計なフォルダが一つだけ入っていた。森も伊武も、そのフォルダの中のファイルに書かれたたった一言の意味が分からなくて、そうして、その下にあったフォームに入力すべきパスワードも、分からなかった。
そのファイルには、たった一言書かれていた。
【Wake up my sister】
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