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 その後のことは、あまりにもことが早く進み過ぎて、桜井と内村の到着とほとんど同時に進んでしまった。

「どうした!」

 息を切らした桜井と、内村の詮索するような視線に、橘の執務室から出てきた杏は笑った。

「上海に行くように命令されたの。独りよ。珍しいでしょう」

 だが、そこにいた全員がそんなこと、信じられなかった。杏が出てくる直前に、執務室からは銃声がしたのだから。着弾の音は、絨毯か何かに吸い込まれる鈍いものだったけれど。
 だが、杏が扉を大きく開けた時に見えた桔平に変わりはなく、そうして何も言わなかった。

「単独行動は慎むべきだと思うぜ」

 内村が呟くように思案の狭間に言ったら、杏は笑った。

「大丈夫!上海は昔住んでたから、トモダチに会いに行きなさいって言われただけよ」

 杏はひらひらと隠しもしないマテバを握った手を振って笑った。そうしてそのまま、エレベーターに乗り込む。桜井と内村が来たためにすぐ開いた。

「杏ちゃん!」

 伊武が叫ぶように言った。だが間に合わない。杏の笑顔の横にマテバがある。その顔は、閉じる扉によって掻き消された。




***


「本館06より通達!本部全ての扉を封鎖しろ!全館の人間に通達。すべて封鎖しろ!」

 幹部が呆然と佇む中、ハッとしたようにトランシーバーに向かって叫んだのは森だった。

「落ち着け、森!」

 ガッと肩を掴んだ内村に、森はガバッと振り返る。

「落ち着いていられる事態じゃないんだ!」

 森が叫んだその時だった。

「本館01より通達。本館06からの通達への上書きである」
「橘…さん…?」
「本部全ての封鎖を解除。異常の発生は誤認と確定。繰り返す。これは本館01より本館06からの通達への上書きである」

 トランシーバーに向かって、桔平は静かに言った。




***


「杏は上海に行く」
「どうして……」
「杏の子飼の部下が上海にいる。杏を鬼姫と呼んだ上海訛りの男だ。虎龍の残党に接触するつもりのようだ」
「どうして止めなかったんです!?」

 桔平の胸倉をつかんだのは伊武だった。いきり立った彼に桔平はスッと目を細める。他の面々も、桔平の口から事態を聞かなければ納得できないだろうと思われた。

「すべて話す。もし、俺が許せないと思ったらそこで俺を殺せ」

 彼はやはり静かに言った。




***

 不動峰の幹部がボスである桔平に聞かされたのは、十二年前に虎龍の千歳千里と橘桔平が参画していた、虎龍の‘とある計画’だった。

「うちのボスは、どうにも杏を可愛がっていてな。可愛がって…違うか。杏が甘い人間であることを知っていた。知っていたからこそ使える場面も多かったが、この計画だけは杏に漏らせなかった」

 一通り話し終えて、桔平が言ったら、彼らは息を呑んだ。とある計画は、虎龍のボス曰く‘素晴らしい’計画だった。治安当局の襲撃から始まるその計画は、凡そマフィアのすることではなかった。国家の乗っ取り。それが虎龍の目的だった。国家を乗っ取り、力と金で支配する、野心あふれた‘素晴らしい’計画。

「そんなこと、許されるはずない、ですよね…?」

 小さく桜井が訊いた。桔平はゆっくりうなずく。マフィアは犯罪集団だ。政治に介入することもある。だが、一定の掟に則っているはずだ、というのは幻想だったのか、と過去の彼は思った。それこそ、スラムのヒーローのように。少なくとも、その瞬間まで虎龍のボスは彼の英雄だった。スラムにいた言葉も分からぬ幼い己と妹を拾い上げたのだから。
 だが、ボスの計画を了承することは出来ようもなかった。彼は言った。『国が手に入ったらまずスラムから掃討しよう。邪魔だ』。
 必要以上の血を流すことを望んだのだ。それは、千歳にとっても了承し難い計画だった。

「だから、俺と千歳はその日、虎龍を裏切ることに決めた。千歳が当局に情報を流し続け、俺はボスに従うふりをした。従順で有能な部下としてな。計画の全ての情報は千歳に流していた。最終的に、全ての情報を集約したUSBを千歳が持ち去り、その抹殺を俺が買って出る計画だった。千歳がその情報を当局に流せば虎龍は名実ともにthe end。だから、俺は虎龍の残党として雲隠れできる。ついでに、虎龍瓦解直前、つまり当局に情報が流れる直前に俺はボスに千歳の血のついたマテバと、幹部のリングを渡している。千歳はそこで死んだことになった。千歳のやつは良く血が出るとか言って、右目の上を切りやがった。完璧な背信行為だ」

 森と伊武が、今までとは全く違った意味で息を呑んだ。『離反者』は、千歳千里一人ではなかった。

「撃ってもいいぜ。一度組織を裏切った人間がボスだなんて、さすがに困るだろ?」

 丸腰で彼は言った。だけれど、撃ってもいいと言われて撃てるはずがなかった。それは、取りも直さずスラムから引き揚げられた彼らに跳ね返る内容だった。

「杏ちゃんは……このこと」

 神尾が絞り出すように言ったら、桔平は冷静な口調で言った。

「千歳の件は、どこかであいつのマテバとリングをボスが面白半分で杏に渡しちまったらしくて半分以下だが当時に教えた。その後決別して、今のファミリーで再会した。それから虎龍の件は、このファミリーが出来て十年黙って、不安定な状態でも情報を集め続けて辿り着いてしまった、というところだな」
「【Wake up my sister】ですね」
「……そうだ。あそこには、杏がいつも使っていた部屋の直通番号が入る。そのホテルはもうないし、ボスが死んだ今じゃ俺と千歳しか知らないはずの番号がな」

 だから、どんなに詮索しても森や伊武では開けられなかった。―――開けようと思えば、暗号解析ソフトなどいくらでもあるし、森の腕なら作れただろう。だが、彼はそれをしなかった。必要以上の詮索は、『褒められた傾向ではなかった』から。

「それで、杏ちゃんは上海に行ってどうするつもりなんです。だって、部下ってことは虎龍の残党がいるんでしょう?」

 石田の問い掛けに、桔平は酷薄に笑った。

「‘いつも通り’の作戦を実行予定」
「はい…?」
「虎龍時代、俺と杏はツーマンセルを組むことが多かった。千歳はすぐにいなくなるから、いつもスリーがツーになる。そんな時は杏が先発、陽動。俺が後発、任務の完全遂行……悪いがすぐに上海に行く。杏の一本後の便だ。止めたきゃ殺してくれ」

 桔平は先程の杏のように手をひらひらと振った。まるでよく似た兄妹だった。

「待ってください」

 静かにこちらを見返すうら若い幹部たちに、金色の獅子が対峙する。止めると言うなら殺せと、顔に書いてあった。

「一緒に行きます。ボスを一人にするほど、俺たちは馬鹿じゃない」

 代表するように、神尾が言った。その面々の面構えを見て、桔平は苦笑した。

「後悔しても、知らねえぞ」


Shall we tell her,
or should she be kept in the dark?