三月


 失望されるかな、とアタシはコンクリートの床、というか地面と言った方がいいそこに三角座りをして顔を膝にうずめていた。三月十四日、ホワイトデー。時折吐く息が白い。
 風間さんの部屋の前で、その部屋の主を待つように、座っていた。
 すごく、嫌な女だ。待ち伏せにも満たないような行為を、きっと、風間さんは軽蔑するんじゃないかな、なんて思う。このアパートには風間さん以外にもたくさん住人がいるのだ。いくら一階が駐車スペースで、階を上がっていくごとに部屋があるから、上下の住人はいても隣の住人がいないからと言ったって、風間さんが第一発見者になる可能性なんてかなり低いんだから。だけれどここでこうしていると、アパートですらパーソナルスペースをなるべく広く保てるようにと彼がここを選んだのだろうと思ったら、どうにも可笑しくて、そして同時に自分自身がそのパーソナルスペースに相応しくない人間だと突き付けられた気がして、どうにも惨めだった。

「何をやっている!」
「かざまさん、だ」

 アタシがぼんやりそんなことを考えていたら、頭上から焦りの滲んだ声が落ちてきた。アタシは、その声がすぐに風間さんだと分かった。分かった自分が少しだけ憎らしかった。

「何をやっているんだと聞いている!」

 珍しく語尾を荒げた彼は、すぐに着ていたコートとマフラーを外してアタシをバサバサとくるんだ。三月、この街の気温はまだ低いことをアタシはそこで初めて思いだした。くるんでそれから彼は引きずり上げるように、それでいて抱え込むようにアタシを立たせて、焦っているからか覚束ない手つきで部屋のカギを取り出すとガチャガチャとこれまた覚束ない手つきで部屋を開けた。アタシはそれを、遠い世界のことみたいにぼんやり眺めていた。

「入れ」

 入れ、というのとほとんど同時に玄関に引きずり込まれる。アタシがしていたことがしていたことだから、色気もへったくれもないのだけれど。
 玄関の靴を脱ぐところででたたらを踏んだアタシのパンプスを屈んだ風間さんが無理やり脱がせて、どんと玄関の上に押し入れられた。ガチャンと鍵とチェーンをかける音が背中の方でした。

「お前は風邪を引きたいのか」

 玄関マットの上で、彼に押されたから四つん這いみたいになったアタシは、風邪を引きたいのか、という彼の言葉に答えることが出来なかった。

「う…あ…」

 言葉が声にならない。四つん這いからアタシはマットをを抱えるみたいに丸まって、悲鳴のような声で泣いた。子供の『えーん』なんていう優しい泣き声じゃない。嗚咽を噛み殺しながら泣く声は、獣の呻きの様で、泣いているのか、痛みに耐えているのか分からないような泣き声にしかならなかった。
 本当に、アタシは、痛みに耐えるために今泣いているのだ、と、その時になってアタシは知った。





 風間さんとアタシの関係が変わったのは、多分アタシが玉狛に転属して半年くらいのことだった。いや、もっと前からかもしれない。アタシが風間隊を抜けたあたりから、アタシの中には妙な感情が燻っていた。
 『会えない』という、隊が違うのだからあまりにも単純な事実を、アタシは持て余していた。変な感情だった。最初は、隊を離れたことからくるホームシックみたいなものだろうと思っていた。
 それは、風間さんも同じだったみたいで、アタシが転属してから半年くらいしたらアタシは本部に、彼は玉狛に、適当な理由を付けて会いに行くことが多くなった。転属したての頃は、「どうだ」「いいとこですよ」とか「元気か」「そっちはどうなんです」なんていう他愛のない会話だったそれが、半年後のその時には徐々に言葉が長くなっていって、アタシたちの間にはいつの間にか妙に仲の良い『元上司と元部下』という形が出来上がっていた。
 アタシが街で見かけた彼に似合いそうなハンカチを買えば、風間さんはオペレーターのスーツは地味だからとブローチを買ってくれた。アタシが甘いものですよ、と風間隊にいた時の袋チョコとは全然違うちゃんとデパートで買ったチョコレートを渡せば、風間さんはお前は駅前のケーキが好きだったし今度奢ると言ってくれた。だけれど、アタシたちは決して付き合ってなんかいないと、少なくともアタシは思っていた。それは多分風間さんも一緒だったと思う。
 風間さんと話しをするのが楽しくて、何かを彼に選ぶのが楽しくて、喜んでもらえるのが嬉しくて、何かもらえるのが幸せで仕方ないという、本当に恋人のような感覚に陥るたびに、超えちゃいけないって頭の中で何度も警報が鳴った。

「風間さんが、アタシに優しくするのは元部下だからで」

 必死になってアタシは超えちゃいけないラインを超えようとする自分の中の感情に向かって言い続けた。

「元部下が甘えてて、アタシは高校生で、子供だから、甘やかしてくれるだけなの」

 声に出して自分自身に言い聞かせる度に、胸が刺されたように痛んだ。痛んだけれど、これは超えちゃいけないラインだと知っていた。
 仲間と恋慕は相反する感情だ。仲間に恋すれば仲間じゃなくなる。恋人を仲間だと思えば恋人じゃなくなる。途轍もなく簡単な事実に、アタシは自分の感情を抑えつけることだけに専心した。
 アタシたちは、背中を預け合った戦友だった。仲間だった。彼は上司だった。アタシは部下だった。アタシは隊長としての彼を必要としていて、彼はオペレーターとしてのアタシを必要としていた。
 その関係でいることは許される。だけれど、そこに恋愛感情を持ち込むことは絶対に許されない。許されないの。だって、それは異常な感情だ。組織の中にいる以上、仲間である以上、その感情は異常だと思わなくてはならなくて、抑えつけなければならない感情に違いなかった。
 だからアタシは、自分自身の中に彼への恋慕を見つけた時に驚愕した。同時に絶望した。きっと、もう普通のちょっとだけ仲のいい元上司と元部下でいようとしてくれている、アタシを甘やかしていてくれる風間さんは、きっと、きっとアタシを軽蔑して、侮蔑して、もう口もきいてくれなくなるだろうと簡単に予想が付いたから。





 玄関にうずくまって嗚咽を噛み殺すアタシの体が、フワッと浮いた。膝と上半身に腕を差し入れられて、抱き抱えられたのだ、と気が付いたのは、抱き抱えた張本人の風間さんがキッチンの他一つしかない部屋であるリビング兼寝室のベッドに向かって歩き出した頃だった。
 玄関からベッドまではほとんど距離と言える距離なんてなくて、アタシはすぐにポスッとベッドに下ろされた。私を軽く抱いたままで横に風間さんが腰かけるけれど、アタシは泣き止めなかった。早く泣き止まなきゃきっと失望される、軽蔑される、と思えば思うほど、涙が止まらなかった。

「まだ寒いだろう。風邪を引く。一言メールをくれればもっと早く帰った」
「ごめん、なさい」
「謝らなくていい」

 風間さんの武骨な手が頭を撫でてくれた。それでアタシは余計に泣き止めなくなってしまった。

「ごめん、な、さい」


 ごめんなさい。
 ちっともいい部下じゃなくて、
 ちっともいい女じゃなくて、
 ちっともいい子じゃなくて、
 ごめんなさい。


 ごめんなさい。
 今から言ってしまうことがきっとあなたを苦しめるだけだと知っているのに言えずにいられなくて、
 ごめんなさい。


「風間さん、死んじゃうとこだった、の」
「……」
「アタシも、一歩間違ったら死んでた、の」


 先の大規模侵攻で、風間さんはベイルアウトして生身で本部にいた。その後で人型の近界民、それも黒トリガー持ちが本部に入った。トリオン体はそう簡単には作れない。生身の彼が死んでいたっておかしくなかった。
 先の大規模侵攻で、ボーダーの犠牲者は通信室の人間だけだった。同じ生身のアタシが死ななかったのは、本部といた場所が違ったことを差し引いても運が良かっただけだ。


「死んじゃ、嫌だよ」


 死なないでって泣いて縋る自分が、ひどく小さくて。
 本当は、部下として、知り合いとして死なないでほしいのか、それとも、もっと近しい誰かとして、死なないでほしいのか、隠して、隠して、隠して、アタシは叫ぶように言った。


「死なないで、風間さん」


 他の誰も死なせたくない。
 だけれど、あなたに抱くこの感情は、やっぱり何か可笑しいの。


 不意に、頭を撫でてくれていた彼の手が離れる。
 やめて、離さないで、離れないで、と我儘に思ったアタシの滲んだ視界の中で、彼の腕が一瞬だけ躊躇うように宙をさまよって、それからアタシの背中に回された。


「え……」


 抱きしめられたのだ、と気が付いた時には、視界いっぱいに彼のカッターシャツの肩口が押し付けられていて、その肩の下の方からどくんどくんと彼の心臓が動いている音が聞こえた。脳に直接響くように聞こえるその音が、ひどく嬉しかった。
 死なないで、と思った。
 これは恋慕かもしれない。恋慕じゃないかもしれない。
 だけれど、どちらとも取れるラインでアタシはそれを望んでいた。
 涙は止まらない。嗚咽も止まらない。
 今分かるのは、アタシがどうしようもない卑怯者だ、ということだけだった。